【第一章 血月編】 第二話 幕末京都
冷たい夜風が頬を撫でた。
神代朔夜は息を呑んだまま、その場に立ち尽くしていた。
石畳。
木造の町家。
軒先に揺れる提灯。
遠くから聞こえる三味線の音色。
鼻をくすぐる炭火と醤油の香り。
見渡す限り、現代の景色はどこにもなかった。
「映画の撮影……じゃない。」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
頭では理解を拒んでいる。
しかし、五感は現実だと告げていた。
風の冷たさ。
草履で石畳を踏む音。
馬の鼻息。
人々のざわめき。
どれも作り物とは思えない。
「あなた。」
穏やかな声がした。
朔夜が顔を上げる。
浅葱色の羽織を纏った青年が、柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
端正な顔立ち。
どこか女性のような整った目元。
だが、その瞳の奥には、一瞬で人を斬れる剣士だけが持つ静かな鋭さが宿っている。
「どこの藩の方ですか?」
青年は穏やかに尋ねた。
「え……?」
「その着物。」
朔夜は自分の姿を見下ろいた。
黒いパーカー。
ジーンズ。
スニーカー。
周囲から見れば異様な格好だ。
しまった。
そう思った時には、すでに遅かった。
周囲の町人たちがひそひそと話し始める。
「南蛮人か?」
「いや、異国の服装だ。」
「浪人か?」
朔夜の背中を冷たい汗が流れた。
どう答えればいい。
「私は沖田総司と申します。」
青年は静かに名乗った。
その名前を聞いた瞬間。
朔夜の心臓が止まりそうになった。
(沖田……総司?)
歴史の教科書。
司馬遼太郎。
映画。
漫画。
数え切れないほど見聞きした名前。
新選組一番隊組長。
天才剣士。
病に倒れ、若くして散った男。
その本人が、目の前に立っている。
「顔色が悪いですね。」
沖田が首を傾げる。
「具合でも?」
「い、いえ……。」
声が裏返る。
夢ではない。
本物だ。
朔夜は無意識に頬をつねった。
痛い。
現実だった。
その時。
「総司。」
低い声が響く。
人垣が自然と割れた。
一人の男が歩いてくる。
長身。
鋭い目。
浅葱色の羽織の上からでも分かる鍛え抜かれた身体。
腰には二本の刀。
歩くだけで空気が張り詰める。
「副長。」
沖田が小さく頭を下げた。
男は朔夜を一瞥する。
その眼光だけで、身体が動かなくなった。
まるで心の奥まで見透かされるようだった。
「怪しい奴だな。」
低く、よく通る声。
「……。」
「名は。」
朔夜は口を開く。
だが、言葉が出ない。
「神代……」
言いかけて、止まる。
神代朔夜。
この時代に存在しない名前。
どう説明すればいい。
「名も言えねぇのか。」
男の手が刀へ伸びる。
「副長。」
沖田が静かに制した。
「敵意はありません。」
「総司。」
「この人、剣を握ったことがあります。」
朔夜は目を見開いた。
「え?」
沖田は笑った。
「手です。」
「竹刀の握り癖があります。」
朔夜は自分の手を見た。
学生時代。
十年以上続けた剣道。
その痕跡を、この男は一目で見抜いたのか。
「……面白い。」
副長が初めて笑った。
「総司。」
「はい。」
「連れて来い。」
「壬生へ。」
「尋問する。」
その一言で町人たちがざわついた。
「壬生……。」
「新選組屯所だ。」
朔夜の鼓動が速くなる。
新選組の屯所。
歴史でしか知らない場所へ行く。
その時だった。
「待って。」
鈴のような声。
人混みの向こうから、一人の少女が歩いてくる。
黒い着物。
夜のように長い髪。
雪のように白い肌。
そして。
血のように赤い瞳。
紅月夜羽。
夢で泣いていた少女だった。
朔夜の心臓が強く脈打つ。
「……夜羽。」
無意識に名前がこぼれた。
少女は驚いたように目を見開く。
「どうして……。」
その表情は、まるで信じられないものを見るようだった。
「あなた。」
「私の名前を知っているの?」
その瞬間。
朔夜の頭に激しい痛みが走る。
――神速眼。
視界が白く染まる。
夜羽。
血。
炎。
そして。
彼女が誰かに胸を貫かれ、泣きながら叫ぶ未来。
『朔夜――!!』
「っ!」
朔夜は膝をついた。
周囲が騒然となる。
沖田が駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
だが朔夜の耳には何も届いていなかった。
未来が流れ込んでくる。
誰かが死ぬ。
誰かを守れない。
また同じ未来だ。
「嫌だ……。」
無意識に呟いた、その時だった。
夜羽の赤い瞳が大きく揺れる。
「まさか……。」
彼女は震える声で呟いた。
「神速眼……?」
その一言に。
沖田も。
副長も。
そして朔夜自身も息を呑んだ。
夜羽はゆっくりと後ずさる。
その表情は恐怖だった。
「どうして……。」
「その力を持つ人間が、ここにいるの……。」
「神速眼……?」
夜羽の震える声が、静まり返った夜道に響いた。
その一言に、朔夜だけではなく、沖田総司も土方歳三も眉をひそめる。
「夜羽殿、その男を知っているのか?」
土方が低い声で尋ねる。
夜羽は何かを言いかけ、唇を噛んだ。
「……知らない。」
そう答えたものの、その赤い瞳は朔夜から一瞬たりとも離れなかった。
まるで、あり得ないものを見ているような目だった。
一方、朔夜は頭を押さえていた。
激しい頭痛が収まらない。
目を閉じるたびに、知らない記憶が流れ込んでくる。
燃え盛る寺。
血に染まる石畳。
そして、夜羽が泣いている。
『お願い……もう戦わないで……』
その声が耳から離れない。
「くっ……!」
朔夜は思わず膝をつく。
沖田が肩を支えた。
「しっかりしてください。」
その手は驚くほど温かかった。
「熱がありますね。」
「大丈夫……です。」
「大丈夫な人はそんな顔をしません。」
沖田は困ったように笑う。
その笑顔は柔らかい。
だが、その右手はいつでも刀を抜ける位置から動いていなかった。
(この人……。)
優しい。
だが、一瞬で人を斬れる。
それが沖田総司という男なのだと朔夜は悟る。
「副長。」
沖田が振り返る。
「この人は私がお連れします。」
「……逃げるかもしれんぞ。」
「逃げません。」
沖田は微笑んだ。
「そんな目をしていませんから。」
朔夜は驚いた。
初対面なのに。
どうしてそこまで言い切れるのか。
「それに。」
沖田は小さく笑う。
「人を守るために飛び出せる人は、悪人ではありません。」
その言葉に、朔夜は胸が熱くなった。
誰にも見られていないと思っていた。
少女を助けたことを。
だが沖田は、まるで見ていたかのように言った。
土方は小さく息を吐く。
「総司がそこまで言うなら構わん。」
そう言って背を向けた。
「屯所へ連れて来い。」
「はい。」
新選組の隊士たちが動き出す。
その統率は見事だった。
誰一人無駄な動きをしない。
まるで一つの生き物のようだった。
朔夜はその後ろを歩く。
京都の夜は静かだった。
提灯の灯りが石畳を照らす。
町人たちは新選組を見ると道を譲り、深く頭を下げる。
だがその視線には、尊敬だけではない。
恐れもあった。
「新選組って……。」
朔夜が呟く。
沖田は苦笑した。
「怖い集団だと思われています。」
「違うんですか?」
「半分は本当です。」
その答えに思わず笑ってしまう。
沖田も笑った。
「でも。」
彼は空を見上げた。
赤い月が浮かんでいる。
「京の町を守るためなら、嫌われても構いません。」
その横顔は、とても静かだった。
一行は壬生屯所へ向かう途中、大きな橋へ差しかかった。
川の水面にも赤い月が映っている。
その時だった。
「助けてぇぇ!」
少女の悲鳴が夜を裂いた。
全員が振り向く。
橋の向こう。
黒装束の男が幼い少女の腕を掴み、刃を突きつけていた。
「金を出せ!」
町人たちは震えながら後ずさる。
沖田が一歩前へ出た。
「その子を放してください。」
男は刀を向ける。
「近寄るな!」
「私は人を斬りたくありません。」
沖田は静かに言った。
「ですが。」
「その子を傷つけるなら。」
空気が変わる。
まるで冬の風が吹き抜けたようだった。
男もそれを感じたのだろう。
額から汗が流れる。
「く、来るな!」
叫びながら刀を振り上げた。
その瞬間。
朔夜の視界が白く染まる。
――神速眼。
未来が見える。
男が刀を振る。
少女が斬られる。
沖田が間に合わない。
その未来が、一瞬で流れ込んできた。
「違う!」
朔夜は叫んだ。
誰よりも早く地面を蹴る。
身体が勝手に動く。
男の懐へ飛び込み、少女を抱き寄せる。
刀が空を切る。
あと一歩遅ければ、少女は命を落としていた。
「なっ……!」
男が目を見開く。
沖田も驚いていた。
(今の動きは……。)
誰よりも速かった。
まるで未来を知っていたかのように。
その直後だった。
男の胸を、一本の黒い槍が貫いた。
「え……。」
誰も動いていない。
誰も投げていない。
槍は闇の中から飛んできた。
男は叫ぶ間もなく灰となって崩れ落ちる。
町人たちが悲鳴を上げた。
「消えた……!」
「化け物だ!」
その時。
橋の欄干の上に、一人の男が立っていた。
黒い羽織。
銀色の長髪。
月明かりを映す黄金の瞳。
彼は朔夜を見下ろし、ゆっくりと笑う。
「見つけたぞ。」
その声には、人間らしい温もりがなかった。
「神速眼の継承者。」
夜羽の顔から血の気が引く。
「……嘘。」
男は静かに刀を抜いた。
その刃は月の光ではなく、血月の赤に染まっていた。
「今夜、お前を迎えに来た。」
橋の上を、冷たい風が吹き抜ける。
その瞬間。
京都の長い夜が、本当の意味で幕を開けた。




