【第三章 千年の約束】 第二十八話 池田屋前夜(後編)
夕闇が京の町をゆっくりと包み始めていた。
西の空に残る朱色が、やがて群青へと溶けていく。
壬生屯所では、出陣を控えた隊士たちが黙々と支度を整えていた。
誰も無駄口を叩かない。
刀の手入れをする音。
草鞋を締め直す音。
鎖帷子の革紐を結ぶ音。
静かな音だけが屯所に響いていた。
その静寂を破るように、近藤勇が土方の部屋を訪れる。
「歳。」
土方は地図から目を離さず答えた。
「何ですか、局長。」
「お前、眠っていないだろう。」
土方は苦笑した。
「こういう日は昔から眠れません。」
近藤も笑う。
「試衛館の頃から変わらんな。」
二人の間に、懐かしい空気が流れた。
「覚えているか。」
「初めて道場破りが来た日のことを。」
「もちろんです。」
「あの時も、お前は眠れなかった。」
「結局、一番最初に飛び出したのは局長でしたが。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その笑顔は一瞬で消える。
近藤は静かに言った。
「今夜は違う。」
「一歩間違えば、京が火の海になる。」
土方は静かに頷いた。
「だから止めます。」
「俺たちは、そのために剣を握ってきた。」
一方、道場では沖田総司が一人、窓の外を眺めていた。
襖が静かに開く。
朔夜だった。
「沖田さん。」
「どうしました。」
「少し、お話がしたくて。」
沖田は穏やかに笑い、隣へ座るよう促した。
しばらく二人は夕暮れを眺める。
「神代さん。」
「はい。」
「あなたは、不思議な人です。」
朔夜は首をかしげた。
「未来を知っているのに、それでも迷う。」
「普通なら、未来を知れば安心するはずです。」
「でも俺は……。」
朔夜は右目を押さえた。
「知っているから怖いんです。」
「仲間が傷つく未来も見える。」
「守れない未来も見える。」
沖田は静かに目を閉じた。
「私は未来は見えません。」
「だから、一つだけ決めています。」
「今日を悔いなく生きること。」
その一言が、朔夜の胸へ深く届く。
「明日を変える人は。」
沖田は微笑む。
「今日を逃げない人ですよ。」
その頃――。
京の外れ、朽ちた寺。
十三将が静かに集結していた。
羅刹。
蒼月。
焔牙。
そして残る将たち。
全員が血月王を見つめている。
「今夜。」
王は静かに口を開いた。
「池田屋で歴史が動く。」
焔牙が低く唸る。
「人間どもを皆殺しにすれば済む話では?」
王の視線が向く。
それだけで焔牙は言葉を失った。
「歴史を壊せば、未来も壊れる。」
「我らの敵は新選組ではない。」
「虚無だ。」
羅刹が一歩前へ出る。
「王。」
「もし虚無が現れた場合は。」
「私が止める。」
短い答えだった。
しかし、その声には千年分の覚悟が宿っていた。
夜。
朔夜は屯所の井戸端で顔を洗っていた。
冷たい水が頬を流れる。
ふと、水面を見る。
そこに映った自分の姿の向こう側。
一瞬だけ、宗真の姿が重なった。
「迷うな。」
幻か。
記憶か。
それとも神速眼が見せた残像か。
宗真は静かに笑っていた。
「剣は人を斬るためではない。」
「守るために振るえ。」
水面が揺れる。
姿は消えていた。
しかし、その言葉だけは胸に残る。
夜羽は屯所の門で、朔夜を待っていた。
「朔夜様。」
その表情は穏やかだった。
「どうしました。」
「これを。」
夜羽は小さな組紐のお守りを差し出す。
白と紅で編まれた、美しい紐だった。
「千年前。」
「宗真様にも渡しました。」
朔夜は驚きながら受け取る。
「ありがとう。」
「必ず返す。」
夜羽は首を横に振る。
「返さなくていいんです。」
「無事なら、それだけで。」
その笑顔が、なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
その時だった。
山崎烝が門を勢いよく駆け込んでくる。
「局長!」
「副長!」
「池田屋です!」
「浪士たちの集結を確認!」
屯所の空気が一変する。
土方が静かに立ち上がる。
近藤も羽織をまとった。
沖田は刀を腰に差す。
朔夜は《明星》の柄を握り締める。
夜羽はその背中を静かに見つめていた。
「行くぞ。」
近藤の一声で、隊士たちが一斉に門へ向かう。
浅葱色の羽織が夜風にはためく。
背中に刻まれた「誠」の一文字。
その旗印の下、新選組は池田屋へ歩き出した。
その夜が、京の歴史を変える。
そして――
千年前から続く約束の運命もまた、大きく動き始めようとしていた。




