【第三章 千年の約束】 第二十六話 宗真からの手紙
鞍馬山には、朝霧が立ち込めていた。
夜明け前の空は淡い藍色に染まり、鳥たちのさえずりだけが静かな山中に響いている。
朔夜と夜羽は、玄斎の庵へ続く石段をゆっくりと登っていた。
昨夜から二人とも、ほとんど眠れていない。
夜羽の契約。
池田屋で見た未来。
そして宗真という男。
知れば知るほど、千年前の出来事は深い霧に包まれていく。
「先生は……大丈夫でしょうか。」
夜羽が不安そうにつぶやく。
朔夜は静かに頷いた。
「きっと待っていてくれる。」
そう言いながらも、自分に言い聞かせているようだった。
庵の戸を開けると、玄斎は祭壇の前で静かに座っていた。
まるで二人が来ることを分かっていたかのように。
「来たか。」
老人はゆっくりと振り返る。
その顔はさらにやつれていたが、瞳だけは力強かった。
「宗真様のことを……教えてください。」
夜羽が頭を下げる。
玄斎は小さく頷き、祭壇の奥から一つの木箱を取り出した。
古びた桐箱だった。
幾重にも封印札が貼られ、千年という歳月を物語っている。
「これは、神速眼一族が代々守ってきた箱じゃ。」
老人は慎重に封印札を一枚ずつ剥がしていく。
最後の札が外れた瞬間、部屋の空気が変わった。
箱の中には、一通の手紙。
黄ばんだ和紙は今にも崩れそうだったが、不思議なことに文字だけは鮮明だった。
玄斎はその手紙を両手で持ち上げ、朔夜へ差し出した。
「宗真様が、お前のために遺した手紙じゃ。」
「……俺に?」
「そうじゃ。」
震える指で手紙を受け取る。
表には一行だけ墨で書かれていた。
『千年後の神速眼へ』
朔夜は息を呑み、静かに封を開いた。
墨の香りが、千年の時を越えて漂う。
『もしこの手紙を読んでいるなら、私はもうこの世にはいない。』
宗真の筆跡は、驚くほど穏やかだった。
『まず謝らなければならない。
お前を、この時代へ呼んだのは私だ。』
「……え?」
朔夜の手が止まる。
夜羽も玄斎も黙って見守っていた。
『未来を変えるためには、未来の人間が必要だった。
私は何度も未来を見た。
何百回、何千回と戦った。
そのたびに血月王は私を守ろうとし、夜羽は命を懸け、世界は滅んだ。』
朔夜は思わず顔を上げた。
「血月王が……守った?」
玄斎は静かに頷く。
「続きを読むのじゃ。」
朔夜は再び文字へ目を落とした。
『血月王は敵ではない。
彼は最後まで、人間を守ろうとした王だった。』
その一文に、夜羽は静かに涙を流した。
父を信じたい。
だが信じられなかった。
その心を見透かしたような言葉だった。
『本当の敵は、人の憎しみから生まれた存在――虚無。
奴は人間も吸血鬼も滅ぼそうとしている。
だから私は、お前を呼んだ。』
朔夜は無意識に拳を握る。
『だが、忘れるな。
未来は決して決まっていない。
神速眼は未来を見る眼ではない。
未来を選ぶ眼だ。』
宗真の言葉が、胸に深く刻まれる。
『もし、お前が誰かを守りたいと思うなら。
その時は未来ではなく、自分の心を信じろ。
人は運命ではなく、選択によって生きる。』
朔夜の視界が滲んだ。
見ず知らずの先祖。
会ったこともない剣士。
それでも、その言葉は誰よりも温かかった。
手紙の最後には、短くこう記されていた。
『追伸。
夜羽へ。
千年間、本当にありがとう。
もう一人で泣かなくていい。
これからは、朔夜と一緒に笑って生きてほしい。』
夜羽はその場に膝をついた。
嗚咽が静かな庵に響く。
「宗真様……。」
千年間、胸に閉じ込めていた想いが涙となって溢れ出す。
朔夜は何も言わず、その肩にそっと手を置いた。
「夜羽。」
夜羽は涙を拭いながら微笑む。
「はい。」
「俺は約束する。」
「宗真さんの願いも。
新選組も。
そして君も。
必ず守る。」
その言葉に、夜羽は静かに頷いた。
庵の外では朝日が昇り始めていた。
長い夜が終わる。
だが同時に、新たな戦いの朝でもあった。
その時――。
ドンッ!
山の麓から狼煙が上がる。
山崎烝が息を切らして駆け込んできた。
「土方副長から伝令です!」
「池田屋に、不審な浪士が集まり始めています!」
土方の予感は当たっていた。
歴史が、大きく動き始める。
朔夜は宗真の手紙を胸元へしまい、《明星》の柄を強く握った。
「行こう。」
夜羽も涙を拭き、微笑んだ。
「はい、朔夜様。」
二人は並んで山を下り始める。
その背中を、朝日がまっすぐ照らしていた。
池田屋の夜まで――あと二日。




