【第三章 千年の約束】 第二十五話 失われた契約
雨が上がった翌朝。
鴨川には淡い朝霧が立ち込め、京都の町は何事もなかったかのように静かな朝を迎えていた。
しかし、その静けさとは裏腹に、壬生屯所には重苦しい空気が漂っていた。
血月王との邂逅。
宗真が遺した言葉。
そして、"虚無"という名。
誰もが胸の内に答えのない疑問を抱えていた。
朔夜は道場で一人、《明星》を前に正座していた。
刀身を磨きながら、ふと右目に触れる。
神速眼は静かだった。
未来は見えない。
しかし、それがかえって不安だった。
「未来が見えない……じゃない。」
小さく呟く。
「未来を、見ようとしていないのかもしれない。」
これまでの自分は、未来ばかりを追いかけていた。
けれど宗真は言った。
――血月王を憎むな。
その言葉だけが、何度も胸の中で反響していた。
障子が静かに開く。
「朔夜様。」
夜羽だった。
いつものように微笑んでいる。
だが、その笑顔はどこかぎこちない。
「少し、お話しできますか。」
その声は震えていた。
二人は屯所を出て、鴨川の河原へ向かった。
春の風が、水面を優しく揺らしている。
しばらく無言で歩いたあと、夜羽が足を止めた。
「朔夜様。」
「私、嘘をついていました。」
朔夜は驚いて振り向く。
「嘘?」
夜羽は頷く。
「ずっと言えなかったことがあります。」
夜羽は胸元へ手を当てる。
着物の合わせから、赤黒い紋様がわずかに覗いていた。
以前よりも、確実に広がっている。
「これは……。」
朔夜は息を呑む。
玄斎が言っていた契約の印。
「神速眼を使うたび、この紋様は広がります。」
「そして……。」
夜羽は静かに微笑む。
「私の命は少しずつ削られています。」
風が止んだ。
川のせせらぎだけが耳に届く。
朔夜は言葉を失った。
「……嘘だ。」
「そんな契約、あるはずがない。」
「あります。」
夜羽は優しく首を横に振る。
「千年前、私はあなたのご先祖様……宗真様と契約を結びました。」
「神速眼を継ぐ者を、命に代えて守ると。」
「だから私は、あなたの傍にいます。」
朔夜は一歩近づく。
「だったら契約なんて解けばいい!」
「俺はそんなもの望んでない!」
思わず声を荒げる。
夜羽は悲しそうに目を伏せた。
「解けないんです。」
「契約は、一度結べば……。」
言葉が途切れる。
そして、静かに続けた。
「どちらかが死ぬまで。」
朔夜の胸が締めつけられる。
これまでの笑顔。
何気ない会話。
夜羽は、そのすべてを隠して笑っていたのだ。
「どうして……。」
かすれた声が漏れる。
「どうして黙っていた。」
夜羽は少しだけ笑う。
「朔夜様は優しい人だから。」
「知ったら、神速眼を使わなくなると思ったんです。」
その言葉を聞いた瞬間。
朔夜の中で何かが弾けた。
「当たり前だ!」
叫び声が鴨川に響く。
「俺は未来を守りたい!」
「でも!」
「そのために夜羽が死ぬなんて、絶対に嫌だ!」
夜羽の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「……ありがとうございます。」
「その言葉だけで。」
「私は千年間、生きてきてよかったと思えます。」
朔夜は何も言えなかった。
ただ、拳を強く握り締める。
守ると決めた。
この時代も。
新選組も。
そして――
夜羽も。
契約さえも覆してみせる。
それが、神速眼に選ばれた自分の役目なのだと。
そのとき、右目が静かに熱を帯びた。
未来が見える。
夜の池田屋。
炎に包まれた町。
沖田が剣を振るう姿。
土方の怒号。
そして。
夜羽が、自ら朔夜を突き飛ばして微笑む未来。
「さようなら、朔夜様。」
その声だけが、鮮明に響いた。
「やめろ……!」
朔夜が叫ぶと同時に、未来は途切れた。
だが、その未来を見た者は、もう一人いた。
遠く離れた鞍馬山。
記憶石の前に座る玄斎は、小さく目を閉じる。
「始まってしまったか……。」
老人は空を見上げる。
「宗真。」
「お前の願いが、また試される。」
雲の切れ間から覗く月は、静かに二人を照らしていた。
夕暮れの鴨川。
川面を渡る風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
夜羽は空を見上げた。
茜色に染まる雲を見つめながら、小さく微笑む。
「千年前も……こんな夕焼けでした。」
朔夜は何も言わず、その横顔を見つめていた。
夜羽は静かに語り始める。
「私は血月王の娘として生まれました。」
「でも、争いが嫌いでした。」
幼い夜羽は、人間の村へ密かに花を届けていた。
傷ついた子どもを助け、飢えた老人に食べ物を置いて帰る。
吸血鬼でありながら、人間を憎めなかった。
そのことを知った血月王は、激しく怒った。
「人間を信じれば、お前は必ず裏切られる」
そう言い放った父に、夜羽は何も返せなかった。
なぜなら――父もまた、かつて人間を信じ、裏切られた過去を持っていたからだ。
そんな夜羽の前に現れたのが、一人の青年だった。
神速眼を持つ剣士――神代宗真。
宗真は刀を抜かなかった。
敵であるはずの吸血鬼へ、ただ一輪の白い花を差し出した。
「君は泣いている。」
その一言で、夜羽は初めて涙を流した。
誰にも理解されないと思っていた。
それなのに宗真だけは、自分の心を見抜いていた。
「それから……私は宗真様と旅をしました。」
人里を守り、妖を祓い、人も吸血鬼も救おうとする宗真。
無茶ばかりする人だった。
傷だらけになっても笑っていた。
夜羽は苦笑する。
「朔夜様に、少し似ています。」
「え?」
「誰かのためなら、自分を後回しにするところ。」
朔夜は照れくさそうに頭をかく。
やがて戦いの日が訪れる。
虚無の軍勢が世界を飲み込み始めた夜。
宗真は夜羽へ、一枚の護符を差し出した。
「もし俺が負けたら。」
「次の神速眼を守ってほしい。」
夜羽は首を振った。
「嫌です。」
「一緒に戦います。」
宗真は静かに笑う。
「未来は、一人じゃ繋げられない。」
「だから君に託したい。」
「その夜……。」
夜羽は胸元へ手を当てる。
赤黒い紋様が、夕日に照らされて浮かび上がる。
「契約を結びました。」
神速眼を継ぐ者を守ること。
命が尽きる、その瞬間まで。
朔夜は拳を握り締めた。
「そんな契約……。」
「絶対に終わらせる。」
夜羽は悲しそうに笑う。
「終わらせる方法は、一つだけあります。」
朔夜は勢いよく顔を上げた。
「本当か!」
「はい。」
夜羽は頷く。
しかし、その表情はどこまでも切なかった。
「契約を結んだ者が、自ら契約を破棄すること。」
「じゃあ宗真さんは……」
「もう、この世にはいません。」
沈黙が落ちる。
それが不可能であることを、二人とも理解していた。
その時だった。
遠くから鐘の音が響く。
ゴォン……。
夕暮れの京都に、不気味な余韻が広がる。
朔夜の右目が熱を帯びた。
神速眼が開く。
見えたのは――
燃え盛る池田屋。
誠の羽織が炎に舞う。
沖田が血を吐きながら剣を振るう。
土方が怒号を上げる。
そして、夜羽が朔夜の前に立ちはだかる。
その胸を、漆黒の槍が貫いていた。
「夜羽ッ!」
叫んだ瞬間、未来は途切れる。
朔夜は荒く息をついた。
「池田屋……。」
その名を口にした瞬間、夜羽も青ざめる。
「歴史が、大きく動く日ですね。」
朔夜は静かに頷く。
「その日に、契約も動く。」
胸の奥で、不吉な予感が脈打っていた。
その頃――。
血月王は京の郊外、廃寺の縁側で静かに月を見上げていた。
傍らには蒼月が控えている。
「父上。」
「夜羽は……」
血月王は娘の言葉を遮るように、静かに目を閉じた。
「知っている。」
そして、小さく呟く。
「また、同じ運命を繰り返すのか……宗真。」
その声には、王としての威厳ではなく、千年の後悔だけが滲んでいた。




