【第三章 千年の約束】 第二十二話 鬼の襲来
その夜、京都は異様な静けさに包まれていた。
風が止み、犬は遠吠えをやめ、虫の声さえ聞こえない。
壬生屯所では、土方歳三が地図を広げていた。
「……妙だな。」
山崎烝が頷く。
「監察からの報告でも、吸血鬼の姿がぱたりと消えました。」
「嵐の前ってやつか。」
土方は煙管を置き、腰の和泉守兼定へ手を添えた。
その時だった。
――ドン。
低い振動が地面を揺らした。
続いて二度、三度。
まるで巨大な心臓が鼓動を打つような音。
隊士たちが一斉に顔を上げる。
「なんだ、この気配は……。」
朔夜の右目が激しく疼いた。
未来が見える。
炎。
悲鳴。
血。
そして壬生屯所の門を、一人の男がゆっくりと歩いてくる。
黒い羽織。
銀色の長髪。
紅く燃える瞳。
手には一本の黒い太刀。
未来の朔夜が叫ぶ。
「みんな逃げろ!」
だが、その声は届かない。
未来はそこで途切れた。
「来る!」
朔夜は門へ駆け出した。
沖田、土方、近藤も後を追う。
夜羽の顔から血の気が引いていた。
「……お父様。」
門の外。
月明かりの下に、一人の男が立っていた。
その姿は恐ろしいほど静かだった。
ただ立っているだけ。
それなのに、空気そのものが震えている。
男はゆっくりと視線を上げた。
「久しいな。」
その声は穏やかだった。
だが、胸の奥まで凍りつくような冷たさがあった。
「夜羽。」
夜羽は一歩前へ出る。
「お父様……。」
「帰ってこい。」
血月王は静かに手を差し伸べる。
「まだ間に合う。」
「我らは家族だ。」
夜羽は唇を噛む。
「私は……。」
「もう戻りません。」
その言葉に、血月王は悲しそうに目を閉じた。
「そうか。」
ただ、それだけだった。
怒りもない。
叫びもない。
それが、かえって恐ろしかった。
土方が前へ出る。
「ここから先は通さねぇ。」
血月王は初めて土方を見る。
「鬼の副長。」
「名は聞いている。」
土方は刀を抜く。
「だったら話は早ぇ。」
近藤も刀を抜いた。
永倉、原田、斎藤が並ぶ。
誠の羽織が夜風に揺れる。
血月王は小さく息を吐いた。
「……美しい。」
「滅びゆく者ほど、美しいものだ。」
その瞬間。
沖田総司が一歩前へ出た。
「ここは私が。」
「沖田!」
近藤が制止する。
しかし沖田は静かに微笑んだ。
「局長。」
「新選組一番隊組長ですから。」
血月王は沖田を見つめる。
「病を抱えながらなお立つか。」
「立てる限りは。」
沖田は刀を抜いた。
月光を受けた加州清光が、美しく輝く。
「それが剣士です。」
血月王も黒い太刀を抜く。
刃が姿を現した瞬間、夜空の血月が脈打った。
「名を聞こう。」
血月王が静かに問う。
沖田は一礼する。
「新選組一番隊組長。」
「沖田総司。」
「では。」
血月王も静かに刀を構える。
「血月王。」
「参る。」
風が止んだ。
誰も動けない。
次の瞬間。
沖田が消えた。
縮地。
神速の踏み込み。
新選組最速の剣が、一瞬で血月王の懐へ届く。
「突きィッ!」
鋭い一撃。
だが。
キィン――。
血月王は、刀をわずかに傾けただけで受け流した。
沖田の瞳が揺れる。
(見切られた……?)
続く二撃、三撃。
すべて紙一重でかわされる。
まるで未来を知っているかのように。
朔夜の神速眼が開く。
見えた。
血月王は未来を読んでいるのではない。
沖田の「剣そのもの」を読んでいる。
呼吸。
筋肉の動き。
殺気。
すべてを一瞬で見抜いているのだ。
朔夜は叫ぶ。
「沖田さん! 離れて!」
しかし、その声より早く。
血月王の太刀が静かに振るわれた。
誰にも見えないほど遅く。
それなのに、避けられない。
沖田の羽織が裂け、胸元に一本の赤い線が走る。
鮮血が、月明かりに舞った――。
鮮血が夜空を舞った。
沖田総司の羽織を赤く染めながら、一筋の血が石畳へ落ちる。
それでも沖田は、一歩も退かなかった。
静かに加州清光を構え直す。
血月王はわずかに目を細めた。
「まだ立つか。」
沖田は穏やかに笑う。
「立てる限りは。」
「それが新選組です。」
その瞳には恐れがなかった。
あるのは、仲間を守るという覚悟だけだった。
「沖田!」
近藤勇が叫ぶ。
だが沖田は首を横に振る。
「局長。」
「お願いがあります。」
「……何だ。」
「誰も前へ出さないでください。」
土方が歯を食いしばる。
「馬鹿野郎……!」
「俺たちは仲間だぞ!」
沖田は笑った。
「だからです。」
「この人は……。」
血月王を見つめる。
「今の皆さんでは勝てません。」
静寂。
誰も否定できなかった。
その一太刀だけで分かった。
次元が違う。
血月王は静かに刀を下ろす。
「己の死を悟りながら、なお戦う。」
「美しい。」
「だが愚かだ。」
沖田は首を振る。
「愚かで結構。」
「守りたい人がいる。」
「それだけで、人は剣を振れるんです。」
その瞬間。
沖田の姿が霞んだ。
天然理心流・無明三段突き。
一突き。
二突き。
三突き。
三つの刺突が、ほぼ同時に血月王へ襲い掛かる。
だが。
血月王は動かない。
ただ一歩だけ前へ出た。
キィン――!
三撃すべてを、一振りで弾き返す。
沖田の身体が宙へ舞った。
「沖田さん!」
朔夜が駆け出す。
だが沖田は地面へ着地すると、なお笑っていた。
「やっぱり……。」
「強いですね。」
口元から血が流れる。
病による血か。
傷による血か。
もう本人にも分からない。
血月王は静かに歩き出す。
「終わりだ。」
黒き太刀が振り上げられる。
その瞬間。
朔夜の右目が燃え上がった。
ドクン――。
未来が無数に分岐する。
沖田が死ぬ未来。
近藤が斬られる未来。
土方が倒れる未来。
夜羽が泣く未来。
すべてが重なり合う。
(違う……。)
(この中に。)
(必ずある。)
(誰も死なない未来が!)
腰の《明星》が震えた。
玄斎の言葉が蘇る。
「神速眼は未来を見るための力ではない。」
「未来を選ぶための力じゃ。」
朔夜は刀を抜く。
蒼銀の刃が夜を裂いた。
「《明星》――解放!」
刀身に刻まれた九十九人の名が、一斉に紅く輝く。
風が渦を巻き、誠の羽織が大きくはためいた。
朔夜は沖田の前へ飛び込む。
ガァァン!!
《明星》と黒き太刀が激突する。
衝撃だけで石畳が砕け、門柱に亀裂が走る。
隊士たちは目を見開いた。
「止めた……!」
土方が思わず叫ぶ。
血月王の一撃を、真正面から受け止めた者は千年で初めてだった。
血月王は朔夜を見つめる。
その瞳が静かに揺れる。
「……その眼。」
そして。
「宗真。」
思わず、その名を口にした。
朔夜は息を呑む。
「俺は朔夜だ!」
「違う。」
血月王はゆっくり首を振る。
「剣が同じだ。」
「人を斬る剣ではない。」
「守る剣。」
千年前。
宗真もまた、同じ眼差しで王を見ていた。
その一瞬の迷い。
朔夜は見逃さなかった。
「今だ!」
沖田が最後の力を振り絞る。
加州清光が閃く。
土方が駆ける。
近藤が吼える。
斎藤、永倉、原田も続く。
六振りの刃が、血月王へ迫る。
しかし――。
ズン。
王は左手を軽く上げた。
漆黒の結界が広がる。
六人の刃は、その壁に阻まれた。
「これ以上戦えば。」
血月王は静かに言う。
「お前たちは死ぬ。」
その声に虚勢はなかった。
事実だった。
王はゆっくりと刀を納める。
「今日は退こう。」
羅刹と蒼月が霧の中から姿を現す。
「王。」
「十分です。」
蒼月は夜羽を見つめ、小さく微笑んだ。
「次は……迷いません。」
黒い霧が三人を包む。
最後に血月王だけが朔夜を見た。
「神代朔夜。」
「次に会う時。」
「お前は真実を知る。」
そう言い残し、夜の闇へ消えた。
静寂。
緊張の糸が切れた瞬間、沖田が膝をつく。
「沖田さん!」
朔夜が支える。
沖田は苦しそうに咳き込みながらも笑った。
「助けられましたね。」
「ありがとうございます。」
朔夜は首を振る。
「違います。」
「俺が助けられたんです。」
沖田は優しく微笑んだ。
「神代さん。」
「あなたなら。」
「きっと……。」
その先は咳にかき消される。
夜空では血月が静かに雲へ隠れていった。




