【第三章 千年の約束】 第十九話 最後の継承者
京の夜明けは、いつもより静かだった。
禁門の変から七日。
焼け跡には少しずつ新しい柱が立ち始め、人々は涙を拭って前を向こうとしていた。
だが、朔夜の心だけは晴れなかった。
右目が疼く。
未来を見るたびに、記憶が少しずつ欠けていく。
昨日読んだ本の題名が思い出せない。
幼い頃の故郷の景色も霞んでいる。
そして何より恐ろしかったのは——。
「沖田さん。」
屯所の庭で声を掛ける。
沖田は笑って振り返る。
「おはようございます。」
その笑顔を見た瞬間。
朔夜は胸を撫で下ろした。
(今日は……思い出せた。)
忘れていない。
まだ大丈夫だ。
だが、その「まだ」がいつまで続くのかは誰にも分からない。
その日の昼。
夜羽が朔夜を屯所の裏門へ呼び出した。
「行きたい場所があります。」
「どこ?」
「鞍馬山です。」
その名を聞いた瞬間、神速眼が微かに震えた。
まるで、その場所を知っているかのように。
二人は山道を登る。
杉木立の間を吹き抜ける風は冷たく、街の喧騒が嘘のように遠い。
やがて古びた石段の先に、小さな社が現れた。
社というより、忘れ去られた祠だった。
鳥居は朽ち、屋根は苔に覆われている。
だが、その場だけ空気が違った。
張りつめた霊気が漂っている。
「来たか。」
低い声が響く。
祠の前に、一人の老人が立っていた。
白髪を後ろで束ね、擦り切れた羽織を羽織っている。
その右目だけが、静かに紅く輝いていた。
「あなたが……。」
老人は朔夜を真っ直ぐ見つめる。
「神代朔夜。」
「第九十九代神速眼継承者。」
朔夜は驚く。
「どうして俺の名前を……。」
「知らぬは、お前だけだ。」
老人は苦笑した。
「儂は天城玄斎。」
「宗真の弟子であり、神速眼最後の守人だ。」
朔夜の呼吸が止まる。
「宗真さんの……弟子?」
「そうじゃ。」
玄斎は一本の古い木箱を取り出した。
静かに蓋を開ける。
中には、一振りの刀が眠っていた。
漆黒の鞘。
柄には紅い組紐。
鍔には見慣れない紋様が刻まれている。
「これは……。」
「宗真の刀。」
「**《明星》**じゃ。」
朔夜が手を伸ばく。
その瞬間——
刀が眩く輝いた。
ブォン……。
風が渦を巻く。
鳥居が震え、山中の鳥が一斉に飛び立った。
「選ばれたか。」
玄斎は静かに頷いた。
「千年待った甲斐があった。」
しかし、その瞬間だった。
ズン——。
山全体が揺れる。
夜羽が振り返る。
「この気配……!」
森の奥から黒い霧が流れ出す。
一本、二本、三本。
杉の木が音もなく倒れた。
やがて霧の中から姿を現したのは——。
「羅刹……!」
その背後には、雪妃と餓狼。
さらに五人の十三将が並んでいた。
羅刹は静かに笑う。
「王がお待ちだ。」
「神速眼。」
玄斎がゆっくり前へ出る。
腰の刀を抜く。
刃は年老いてなお、美しく輝いていた。
「朔夜。」
初めて名前で呼ぶ。
「刀を持て。」
「ここからがお前の本当の修行じゃ。」
朔夜は宗真の刀《明星》を握る。
その瞬間、右目が紅く燃え上がる。
刀が脈打つ。
まるで、生きているように。
羅刹はその光を見て、小さく笑った。
「ようやく抜いたか。」
「千年前、人類最後の希望を。」
風が止む。
山が静まり返る。
誰も動かない。
そして次の瞬間——
玄斎が地面を蹴った。
老人とは思えない神速。
羅刹も妖刀を抜く。
二つの刃が激突し、轟音が鞍馬山へ響き渡った。
――キィンッ!!
鋼と鋼が激しくぶつかり合う。
天城玄斎の太刀と、羅刹の妖刀。
その衝撃だけで周囲の杉が揺れ、大地に亀裂が走った。
朔夜は息を呑む。
(速い……。)
沖田総司とも違う。
土方歳三とも違う。
この老人の剣には、一切の無駄がなかった。
最小の動きで、最大の威力を生む。
まるで風そのものが剣になったようだった。
「これが……神速眼の剣。」
玄斎は笑う。
「違う。」
「これは神速眼に頼らぬ剣じゃ。」
その言葉と同時に、羅刹の妖刀が閃く。
しかし玄斎は、未来を見ることなく、その一撃を紙一重でかわした。
「未来が見えねば戦えぬ者は、真の剣士ではない。」
羅刹が笑みを浮かべる。
「老いてなお、その境地か。」
「だが、お前の身体は千年前とは違う。」
妖刀が黒い瘴気をまとった。
次の瞬間。
玄斎の左肩が深く斬り裂かれる。
「師匠!」
朔夜が駆け出そうとする。
「来るな!」
玄斎の一喝が山に響いた。
「見るんじゃ。」
「この戦いを!」
羅刹は静かに刀を構え直した。
「お前は朔夜を育てるため、自ら囮になったか。」
「そうじゃ。」
玄斎は血を流しながら笑う。
「儂はもう長くはない。」
「じゃが。」
「この子には未来がある。」
その言葉を聞いた朔夜の胸が締めつけられる。
玄斎は初めから、自分が死ぬ覚悟でここへ来ていた。
「朔夜!」
玄斎が叫ぶ。
「神速眼は何のためにある!」
「未来を見るためです!」
「違う!」
老人の怒声が飛ぶ。
「未来を救うためじゃ!」
再び激突する二人。
玄斎の剣が羅刹の頬を浅く裂く。
羅刹は微笑んだ。
「見事だ。」
「だが、それでは王には届かぬ。」
黒い瘴気が一気に噴き上がる。
山が悲鳴を上げる。
朔夜は拳を握り締めた。
何もできない。
未来は見える。
だが身体が追いつかない。
(俺は……。)
(まだ弱い。)
その時。
腰の《明星》が微かに震えた。
カタリ、と鞘の中で鳴る。
右目が熱くなる。
そして聞こえた。
『抜け。』
宗真の声だった。
『その刀は斬るためではない。』
『希望を繋ぐための剣だ。』
朔夜はゆっくりと柄を握る。
深く息を吸う。
そして。
静かに刀を抜いた。
シュン――。
音が消えた。
いや。
世界から音そのものが消えた。
《明星》の刀身は銀色ではなかった。
夜明け前の空のような、淡い蒼銀。
刃には無数の紅い文字が浮かんでいる。
それは歴代神速眼継承者たちの名前だった。
九十九人。
千年分の願い。
すべてがこの刀に刻まれている。
「……継承されたか。」
羅刹が静かに呟く。
その瞬間。
朔夜の視界が変わった。
未来だけではない。
敵の呼吸。
風の流れ。
草木の揺れ。
すべてが一本の線で繋がって見える。
玄斎が小さく笑った。
「見えたか。」
「神速眼・真眼。」
第二段階を超えた、新たな境地。
未来を読むのではない。
世界そのものを読む剣。
朔夜は一歩踏み出す。
羅刹が初めて真剣な表情になった。
「来い。」
妖刀と《明星》。
二つの名刀が激突する。
轟音。
衝撃波。
山頂の雲が吹き飛ぶ。
しかし。
羅刹の瞳が大きく見開かれた。
「……馬鹿な。」
妖刀の刃に、小さな亀裂が走っていた。
千年間、一度も傷つかなかった妖刀。
それを砕いたのは。
まだ未熟な、一人の青年だった。
羅刹は静かに刀を納めた。
「今日はここまでにしよう。」
雪妃たちも後ろへ下がる。
「王も。」
「まだお前を殺すなと言っている。」
そう言い残し、黒い霧とともに姿を消した。
静寂が戻る。
玄斎は大きく息を吐き、その場へ膝をついた。
「師匠!」
朔夜が駆け寄る。
肩の傷は深い。
それでも玄斎は笑っていた。
「よくやった。」
「お前は……宗真を超えられる。」
「そんな……。」
朔夜は首を振る。
「俺は、まだ何もできません。」
「できる。」
玄斎は《明星》へ視線を向ける。
「その刀が、お前を選んだ。」
「それが答えじゃ。」
夜羽も静かに微笑む。
その瞳には涙が浮かんでいた。
しかし、その夜。
壬生へ戻る途中。
朔夜はふと立ち止まる。
「……夜羽。」
「どうしました?」
「ごめん。」
朔夜は困ったように笑った。
「君の名前。」
「少しだけ……思い出せなかった。」
夜羽の笑顔が止まる。
神速眼の代償は、確実に朔夜を蝕み始めていた――。




