【第二章 動乱編】 第十二話 鬼の副長
夜明け前の壬生屯所。
空はまだ群青色に染まり、鳥の鳴き声だけが静かな庭に響いていた。
隊士たちが起き出すよりも早く、一人の男は木刀を振っていた。
土方歳三。
一振り。
また一振り。
無駄な力は一切ない。
風を裂く音だけが、規則正しく繰り返される。
朔夜は思わず立ち止まった。
(これが……鬼の副長。)
土方は振り返らない。
「見てるだけか。」
低い声が飛ぶ。
「来い。」
「……はい!」
朔夜は慌てて木刀を構えた。
次の瞬間。
視界が揺れた。
ドンッ!
「ぐっ!」
何が起きたのか分からないまま、背中から地面へ叩きつけられる。
神速眼すら反応できなかった。
「立て。」
土方の声は冷たい。
「まだだ。」
朔夜は歯を食いしばって立ち上がる。
「お願いします!」
再び飛び込む。
しかし。
カンッ!
木刀が弾かれ、身体が泳ぐ。
そこへ容赦ない一撃。
ドスッ!
腹に衝撃が走る。
「……っ!」
息が詰まる。
土方は木刀を下ろした。
「神代。」
「お前は未来を見ている。」
「だが。」
「相手を見ていない。」
朔夜は顔を上げた。
「え?」
「未来ばかり追えば、今を見失う。」
土方は木刀を肩へ担ぐ。
「剣は未来で振るもんじゃねぇ。」
「今、この一瞬を斬るもんだ。」
その言葉が胸へ突き刺さる。
未来を変えたい。
その想いだけで戦ってきた。
だからこそ、目の前の敵を見失っていた。
「もう一度。」
朔夜は木刀を握る。
「お願いします!」
今度は右目を閉じた。
神速眼を使わない。
土方は少しだけ笑う。
「そうだ。」
「その方がいい。」
二人の木刀が激しくぶつかった。
今まで見えなかったものが見える。
足運び。
呼吸。
肩の力。
土方の剣は力任せではない。
相手を崩し、隙を作り、一撃で決める。
まるで流れる水のようだった。
「よそ見するな。」
また一本。
朔夜は吹き飛ばされる。
だが、不思議と悔しさより楽しさが勝っていた。
これが本物の剣。
これが新選組副長。
鬼の副長と呼ばれる男の強さだった。
昼過ぎ。
沖田総司が縁側で笑いを堪えていた。
「神代さん。」
「土方さん相手に神速眼を封じるなんて。」
「無茶ですよ。」
「でも。」
朔夜は頭を掻いた。
「初めて剣が少しだけ分かった気がします。」
沖田は穏やかに頷く。
「それなら大丈夫です。」
その時だった。
バタバタと隊士が駆け込んでくる。
「副長!」
「大変です!」
土方が立ち上がる。
「どうした。」
「北山村が……。」
隊士は肩で息をしながら叫んだ。
「村が一夜で消えました!」
一瞬、空気が凍りつく。
「何だと?」
「家も。」
「人も。」
「誰一人残っていません!」
朔夜の右目が熱を帯びた。
ドクン。
未来が流れ込む。
霧に包まれた山村。
無数の亡骸。
真っ赤な満月。
そして。
一人の少女が泣いている。
「助けて……。」
その声と同時に映像は途切れた。
「神代!」
土方が叫ぶ。
「何が見えた!」
朔夜は荒く息を吐いた。
「北山村です。」
「まだ……。」
「生きている人がいます。」
土方は迷わなかった。
「総司!」
「左之助!」
「永倉!」
「出るぞ!」
「神代、お前も来い!」
隊士たちが一斉に立ち上がる。
誠の旗が風を受け、大きくはためいた。
しかし誰も知らない。
北山村は、人間が足を踏み入れてはいけない――
吸血鬼の狩場となっていることを。
そして、その村で朔夜たちを待ち受けるのは、血月十三将・羅刹だけではなかった。
さらに恐るべき敵が、静かに牙を研いでいたのである――。
夕暮れが山々を赤く染める頃、新選組一行は北山村へと到着した。
山あいにある小さな村。
本来なら炊事の煙が立ち上り、子どもたちの笑い声が聞こえる時間だった。
しかし――。
「静かすぎる……。」
永倉新八が眉をひそめる。
風だけが村を吹き抜け、軒先に吊るされた風鈴が寂しげな音を鳴らしていた。
家々の戸は開け放たれ、囲炉裏には灰だけが残る。
人の気配は、まるでない。
「気を抜くな。」
土方の一声で、全員が刀の柄に手を添えた。
朔夜の右目が熱を帯びる。
神速眼――。
しかし映るのは断片的な映像だけ。
血。
叫び声。
そして、暗闇を駆ける赤い瞳。
未来ではない。
この村で起きた"過去"が流れ込んできた。
「……くっ。」
朔夜は頭を押さえる。
「神代。」
土方が肩へ手を置く。
「無理に見るな。」
「はい……。」
その時だった。
カラン――。
静かな音が響いた。
誰かが、茶碗を落としたような音。
「いたぞ!」
原田が駆け出す。
一軒の蔵の陰。
そこには、小さな少女が震えながら膝を抱えていた。
年は八つほど。
着物は泥で汚れ、頬には涙の跡が残っている。
「大丈夫だ。」
朔夜がゆっくり近づく。
「俺たちは新選組だ。」
少女は怯えた瞳で見上げた。
「……みんな、食べられた。」
その言葉に、誰も返せなかった。
「お父さんも、お母さんも……。」
少女の肩が震える。
朔夜はそっと自分の羽織を掛けた。
「もう大丈夫。」
「俺たちが守る。」
その瞬間だった。
――ゾクリ。
全員の背筋に冷たいものが走る。
土方が静かに刀を抜いた。
「来るぞ。」
次の瞬間。
屋根の上から黒い影が飛び降りる。
ドォン!
土煙が舞う。
現れたのは、黒い甲冑をまとった巨大な吸血鬼だった。
身の丈は二メートルを超え、両腕には黒鉄の鉤爪。
赤い瞳が獣のように輝いている。
「十三将・羅刹様のお客人か。」
低く響く声。
「俺は餓狼。」
「この村の番人だ。」
永倉が舌打ちする。
「でけぇな。」
「人間じゃねぇ。」
餓狼は不気味に笑う。
「人間だった。」
「百年前まではな。」
その言葉と同時に、無数の黒い影が家々の屋根へ現れた。
吸血鬼。
二十。
三十。
数え切れない。
村全体が包囲されていた。
「副長!」
原田が叫ぶ。
「囲まれました!」
土方は一歩も引かない。
静かに誠の旗を見上げる。
「新選組。」
低く、よく通る声。
「聞け。」
隊士たちが土方を見る。
「俺たちが守るのは、この国だ。」
「そして。」
少女を見つめる。
「目の前の命だ。」
刀を構える。
「一人も死なせねぇ。」
その言葉に、隊士たちの目が変わった。
「おおっ!」
怒号が山へ響く。
朔夜の胸が熱くなる。
この人が。
鬼の副長。
厳しさの裏で、誰よりも仲間を守ろうとする男。
「神代。」
土方が振り返る。
「お前は少女を守れ。」
「ですが!」
「命令だ。」
強い口調だった。
しかし、その瞳は優しかった。
「お前は人を斬れない。」
「だったら、人を守れ。」
その一言が、朔夜の心を貫いた。
人を斬れないことは弱さだと思っていた。
違う。
守ればいい。
守るための剣になればいい。
朔夜は静かに頷く。
「はい!」
夜羽から託された退魔銀の短刀を抜く。
少女を背に庇う。
その瞬間。
餓狼が地面を蹴った。
爆発のような音。
速い。
神速眼が叫ぶ。
未来。
三秒後。
餓狼の爪が少女へ届く。
(間に合う!)
朔夜は迷わず飛び込んだ。
キィン!
退魔銀が黒い鉤爪を受け止める。
衝撃で地面が砕ける。
「ぐっ!」
押し負ける。
だが、退かない。
「この子には……!」
歯を食いしばる。
「指一本触れさせない!」
餓狼が目を見開く。
「面白い。」
その瞬間だった。
ズバァッ!
銀色の一閃。
餓狼の腕が宙を舞った。
「なっ……!」
いつの間にか土方が背後へ回っていた。
刀についた血を静かに払う。
「隊士を狙うなら。」
「まず俺を倒してからにしろ。」
鬼神のような気迫。
餓狼ですら一歩後退する。
朔夜は初めて見た。
これが、幕末最強と恐れられた男の剣。
力ではない。
速さでもない。
絶対に守るという覚悟。
それが、鬼の副長を鬼たらしめていた。
しかし――。
その時、神速眼がこれまでにない激痛とともに未来を映し出した。
燃え盛る京。
空を覆う血月。
御所へ向かって進軍する無数の吸血鬼。
そして、その先頭には羅刹が立っている。
『禁門の変――』
歴史が、大きく狂い始める。
朔夜はその未来を見て、震える声で呟いた。
「副長……。」
「本当の戦いは、これからです。」
土方は静かに空を見上げた。
血月が、ゆっくりと雲間から姿を現していた――。




