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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第五章 鬼柴田の妻と米櫃の底を知らぬ姫

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第五話 母ではないから


私――帰蝶は、冷静であり続けようとした。


犬が、柚の湯を少しずつ口にしている。


その姿を見て、ようやく部屋の空気が少しだけ戻った。


医師は、大きな障りは今のところ見えぬと言った。


産婆も、腹の張りに気をつけ、数日は安静にするようにと告げた。


それでも、私はまだ膝の上で手を強く握っていた。


犬の顔色は悪い。


こめかみには布が当てられている。


腹の子も、犬自身も、今は無事だ。


無事だと、言われた。


けれど。


もし、あの香合の当たり所が悪ければ。


もし、犬が倒れた時に腹を強く打っていれば。


もし、紫乃に当たっていれば。


冬に当たっていれば。


琴に当たっていれば。


藤乃に当たっていれば。


考えれば考えるほど、胸の奥が冷たくなる。


そして、その冷たさの奥で、別の痛みが渦を巻いていた。


本来ならば。


本来ならば、徳を止めるのは私でなければならなかった。


徳が障子を乱暴に開けた時。


挨拶を拒んだ時。


藤乃に「この女」と言った時。


香合に手を伸ばした時。


止めるべき瞬間は、いくつもあった。


叱るべき言葉も、いくつもあった。


それなのに、私は動けなかった。


三郎様の娘。


私の産んだ子ではない姫。


けれど、奥で見守り、育てるべき姫。


その徳が、子を宿した犬を傷つけた。


その瞬間、怒りも恐怖も胸に上った。


けれど同時に、私は犬の腹を見てしまった。


子を宿した、幸せそうな腹を。


その一瞬で、私の中の何かが絡まり、声を失った。


だから、藤乃が動いた。


藤乃が、徳を叩いた。


藤乃が、徳に教えた。


私がしなければならなかったことを、藤乃にさせてしまった。


その事実が、私の胸に重く沈んでいる。


「帰蝶様」


琴の声に、私は顔を上げた。


琴は、水を置き、こちらを見ている。


先ほどより落ち着いているが、その目にはまだ迷いがあった。


藤乃は、犬のそばで産婆の手伝いをしている。


徳と冬は、部屋の隅で静かに座っていた。


徳は、泣き腫らした目で犬を見ている。


先ほどまでの癇癪は、もうない。


ただ、幼い顔で、自分のしたことの大きさに怯えている。


叱られて、謝って、それでもなお、犬のことが心配でたまらぬ顔だった。


その姿を見て、また胸が痛んだ。


叱ることは、嫌うことではない。


藤乃は、そう言った。


徳は、その言葉に泣いた。


あの言葉も、本来ならば私が教えねばならなかったのではないか。


いいえ。


それ以前に。


徳がここまで荒れる前に、私は止めねばならなかった。


吉乃が病に倒れてから、徳は少しずつ変わった。


吉乃は、柔らかく笑う女だった。


けれど、ただ甘いだけの母ではなかった。


徳がわがままを言えば、困ったように笑いながらも、駄目なものは駄目だと言えた。


徳が父を求めて泣けば、三郎様を責めるのではなく、まず徳を抱いて落ち着かせた。


信長様の姫であっても、してはならぬことはある。


そう教えられるのは、あの子にとって、吉乃だった。


その吉乃が、病に倒れた。


寝所から出られぬ日が増えた。


徳が会いに行っても、長くは話せぬ日が増えた。


三郎様は忙しい。


吉乃は病。


周りは徳を「信長様の姫」として扱う。


叱る者が減り、止める者が減り、徳は少しずつ大きな声を出すようになった。


父上。


父上はどこ。


父上は私を見てくださらぬのか。


その不安が癇癪になっていることに、私は気づいていた。


気づいていたのに。


私は、踏み込めなかった。


私は実母ではない。


吉乃の代わりにはなれない。


徳にとって私は、父の正室であって、母ではない。


そう思うたびに、一歩が鈍った。


その鈍さが、今日のことを招いた。


私は、静かに息を吐いた。


今は、後悔に沈んでいる時ではない。


この場を収めねばならない。


三郎様に報告せねばならない。


「琴」


「はい」


「悪いけれど、共に来てください。あなたも、あの場を見ていましたね」


琴はすぐに頭を下げた。


「承知いたしました」


私は犬へ視線を向けた。


「犬」


犬は横になったまま、こちらを見た。


「はい、姉上」


「お主は休んでいなさい。今は何も考えず、身体を休めることだけを考えなさい」


「……はい」


犬は小さく頷いた。


それから、少し申し訳なさそうに徳を見た。


私は、その視線を追ってから、徳と冬へ向き直る。


「徳。冬」


二人が肩を揺らした。


「お主らは部屋へ戻りなさい」


徳の顔がこわばる。


「帰蝶様……」


「犬のことは、私たちが見ます。お主らが今すべきことは、部屋へ戻り、静かに待つことです」


徳は唇を噛んだ。


言いたいことがあるのだろう。


犬叔母上のそばにいたい。


もう少し何かしたい。


そういう顔だった。


けれど、徳はこらえた。


膝の上で手を握りしめ、深く頭を下げる。


「……はい」


冬も、慌てて頭を下げた。


「はい」


私は、二人を見た。


まだ幼い。


徳も、冬も。


けれど、今日のことを忘れてはならない。


自分の言葉と手が、人を動かし、人を傷つけること。


そして、謝れば終わりではなく、その後どう動くかが大事なのだということ。


それを覚えねばならない。


「徳」


「はい」


「犬を案じるなら、今日は騒がぬこと。声を荒げぬこと。侍女を困らせぬこと」


徳は、涙の跡が残る顔で頷いた。


「はい」


「冬」


「はい」


「徳を見ていてあげなさい」


冬は一瞬驚き、それから真剣に頷いた。


「はい、帰蝶様」


二人が侍女に連れられて下がる。


紫乃と藤七丸も、藤乃の指示でしばらく別室へ移されることになった。


藤乃は私に頭を下げた。


「帰蝶様」


「藤乃」


「徳姫様のこと、申し訳ございませんでした」


また謝る。


この人は、必要なことをした後で、必ずその重さを背負おうとする。


私は首を横に振った。


「今は犬のそばにいてください。三郎様への報告は、私がいたします」


藤乃は何か言いかけたが、すぐに飲み込んだ。


「承知いたしました」


私は立ち上がった。


膝の感覚が、少し遠い。


それでも、背筋を伸ばす。


織田の奥を預かる者として。


信長の正室として。


私は、三郎様のもとへ向かった。


三郎様の部屋へ向かう途中、琴は一言も話さなかった。


静かに、半歩後ろを歩いている。


その気配が、どこか心強かった。


琴は、変わった。


嫁いだばかりの頃は、まだ怯えが目立った。


清洲で礼法を教えた時も、何度も目を白黒させていた。


けれど、逃げなかった。


よく聞き、よく覚え、何より逃げなかった。


だから私は、三郎様にそう伝えた。


その琴が、今は私の後ろを静かに歩いている。


義銀の妻として。


斯波の奥として。


そして、今日の出来事を見た者として。


部屋へ近づくと、笑い声が聞こえた。


三郎様の声。


それから、まだ幼さの残る声が二つ。


奇妙丸と坊丸だ。


障子の前で、私は一度だけ息を整えた。


「帰蝶にございます」


「入れ」


三郎様の声がする。


私は琴を伴い、部屋へ入った。


中には、三郎様がいた。


その前に、奇妙丸と坊丸が座っている。


奇妙丸は、もう数え十一になる。


まだ幼い。


けれど、その目はよくものを見る。


父に似た鋭さと、どこか違う慎重さがある。


三郎様の子。


織田の次を担う子。


その器は、幼いながらにすでに見えていた。


坊丸は、奇妙丸より少し柔らかい顔をしていた。


信行様の子。


三郎様にとっては甥にあたる子である。


けれど、信長様と信行様が血で別たれず、肩を並べて立つこの織田家において、坊丸もまた、次の世を担う子の一人だった。


二人は私を見ると、すぐに背筋を伸ばした。


「帰蝶母上」


奇妙丸が頭を下げる。


その呼び方に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


私は、この子の実母ではない。


けれど、この子は私をそう呼ぶ。


私もまた、この子を三郎様の後継ぎとして、織田の未来として見てきた。


坊丸も丁寧に頭を下げた。


「伯母上」


その呼び方に、私は少しだけ目を細めた。


奇妙丸も坊丸も、血の筋は違う。


けれど、どちらも織田の次を担う子であることに変わりはない。


「二人とも、楽にしてよいですよ」


私が言うと、奇妙丸は私の顔をじっと見た。


その目が、わずかに変わる。


この子は、気づいた。


私がただの挨拶に来たのではないと。


「三郎様」


私は三郎様へ向き直った。


「話さねばならないことがございます」


それから、ちらりと奇妙丸と坊丸を見た。


ほんの一瞬だった。


けれど、それだけで十分だった。


奇妙丸はすぐに察した。


坊丸もまた、奇妙丸の動きを見て、すっと姿勢を正す。


「父上」


奇妙丸が言った。


「帰蝶母上と大事なお話でございましょう。われらは、柴田殿の息子に会いに行ってまいります」


坊丸も続いた。


「伯母上、我らは失礼いたします」


三郎様は、面白そうに二人を見た。


「ほう。藤七丸に会いに行くか」


「はい。清洲へ来ていると聞きました」


「ならば行け。あまり困らせるなよ」


「父上こそ」


奇妙丸が小さく言った。


三郎様が笑う。


「言うようになったな」


奇妙丸は深く頭を下げた。


坊丸もそれに続く。


二人が下がっていく。


その背を見送りながら、私は静かに胸を押さえた。


まだ数え十一。


それなのに、場を読み、身を引くことを知っている。


三郎様の血を引く子。


織田の次を担う子。


奇妙丸は、賢い。


あまりにも賢い。


だからこそ、私は自分に子を持つことを恐れてきた。


私が正室として男子を産めば、たとえ私にその気がなくとも、周りは見る。


信長の正室腹の子。


奇妙丸より後に生まれたとしても、血筋を理由に担ごうとする者が出るかもしれない。


家は、子で揺れる。


母で揺れる。


血で揺れる。


それを、私は見てきた。


美濃でも。


尾張でも。


だから、私は望まぬふりをしてきた。


欲しくないのだと。


これでよいのだと。


奇妙丸がいる。


徳も冬もいる。


そして、信行様の子である坊丸も、織田の次を担う子の一人として育っている。


織田の次は、すでにある。


私が産まずとも、織田は続く。


そう、自分に言い聞かせてきた。


「帰蝶」


三郎様の声で、我に返る。


「何があった」


私は膝をつき直した。


琴が、私の少し後ろに座る。


「先ほど、奥で騒ぎがございました」


「徳か」


即答だった。


私は一瞬、言葉に詰まった。


三郎様は、少しだけ笑った。


「顔に書いてある」


「……徳でございます」


私は、順を追って話した。


徳が部屋へ駆け込んできたこと。


藤乃へ無礼な言葉を吐いたこと。


挨拶を拒んだこと。


犬が止めようとしたこと。


徳が香合を投げたこと。


紫乃へ向かったそれを、犬が庇おうとして倒れたこと。


犬がこめかみを打ったこと。


腹の子は、今のところ大きな障りは見えぬこと。


医師と産婆が、数日の安静を告げたこと。


そして。


藤乃が、徳の頬を打ったこと。


三郎様は、黙って聞いていた。


その顔から、笑みは消えていた。


「犬は」


「今は横になっております。意識はあります。医師は、今のところ大きな障りは見えぬと」


「腹の子は」


「産婆も、今すぐ危ういとは申しておりません。ただ、数日は安静にと」


三郎様は、短く息を吐いた。


「そうか」


その一言に、安堵が混じったのを私は聞き逃さなかった。


三郎様は、犬を案じている。


妹を。


腹の子を。


けれど、次の瞬間には、口元が大きく弧を描いた。


「それで、お藤が徳を叩いたか」


「はい」


「ははははは!」


三郎様は、声を立てて笑った。


琴がびくりと肩を揺らす。


私は、思わず眉を寄せた。


「三郎様」


「いや、笑うなと言う方が無理だ」


三郎様は目尻を拭うようにして笑った。


「流石はお藤。あやつに話をしたのは間違いではなかったな」


その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。


藤乃ならできる。


藤乃なら逃げぬ。


それは、私自身も思ったことだ。


だから呼んだ。


けれど。


それでも。


徳を叱るべきは、私だった。


藤乃ではなく。


私だった。


「徳は」


三郎様が問う。


「その後、どうした」


私は答えた。


「藤乃に問われ、犬に謝りました。紫乃にも、冬にも。今は部屋へ戻しております」


「ほう」


三郎様は楽しげに目を細めた。


「徳が謝ったか」


「はい」


「それはまた、珍しい」


「三郎様」


「分かっておる。茶化すことではないな」


三郎様は、少しだけ表情を改めた。


「お藤は、よくやった」


その一言が、また胸に刺さった。


よくやった。


その通りだ。


藤乃はよくやった。


けれど、私は。


「私が、叱るべきでした」


言葉が、思わず零れた。


三郎様がこちらを見る。


「私が、徳を止めねばなりませんでした」


「帰蝶」


「信長様の姫を、柴田の奥方に叩かせてしまいました」


「お藤は、ただの柴田の奥方ではあるまい」


三郎様は軽く言った。


「それに、徳が悪い」


あまりにもはっきりと言われて、私は一瞬黙った。


三郎様は続ける。


「徳は、儂の娘であることに甘えた。ならば、誰かが打ち据えてでも止めねばならぬ。お藤が先に動いた。それだけよ」


「それだけではございません」


私は、膝の上で手を握った。


「それだけでは、ございません」


三郎様の目が、少しだけ細くなる。


「徳がああなったのは、今日に始まったことではありません」


声が、思ったよりも低く出た。


「吉乃が病に倒れてからです」


三郎様の顔から、わずかに笑みが消えた。


「吉乃が元気であった頃は、徳を止める者がありました。柔らかく、けれど駄目なものは駄目だと言える母がありました」


私は膝の上の手を見た。


「その吉乃が病み、徳が母に甘えられぬ日が増えました。三郎様はお忙しい。周りは信長様の姫として気を遣う。私は……私は、実母ではないことを言い訳に、踏み込みきれませんでした」


「帰蝶」


「徳は、父君を求めています。見捨てられたくないのです。叱られることを、嫌われることだと思っていた。だから癇癪を起こし、周りを動かし、試していた」


私は顔を上げた。


「徳が悪い。それは間違いございません。けれど、それだけではございません」


三郎様は、何も言わなかった。


しばしの沈黙が落ちる。


その時、障子の外から声がした。


「殿。至急、ご確認いただきたき文が」


三郎様は、舌打ちこそしなかったが、見るからに面倒そうな顔をした。


「今か」


「恐れながら」


三郎様は立ち上がった。


「すぐ戻る」


そして、私と琴を見た。


「逃げるなよ」


「逃げませぬ」


私が答えると、三郎様は少しだけ笑った。


けれど、その目には先ほどの軽さはなかった。


三郎様は紙を受け取るため、部屋を出ていった。


部屋に、私と琴だけが残された。


静かだった。


先ほどまでの緊張が、少し違う形で胸に残っている。


私は、ようやく息を吐いた。


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