第六話 本音をお聞かせください
三郎様が部屋を出ていった後、しばらく声が出なかった。
静かだった。
あまりにも静かで、先ほど自分が口にした言葉が、胸の中で何度も響いた。
吉乃が病に倒れてからです。
私は、実母ではないことを言い訳に、踏み込みきれませんでした。
言ってしまった。
三郎様に。
琴の前で。
徳のことを。
吉乃のことを。
そして、私自身のことを。
私は、膝の上で手を握った。
「琴」
「はい」
「付き合わせてしまいましたね」
「いいえ」
琴は首を横に振った。
「私も、見ておりましたから」
「そうですね」
私は目を伏せる。
「見苦しいところを見せました」
「帰蝶様」
「徳を叱れませんでした」
言葉にすると、胸が痛んだ。
「叱りたかった。止めたかった。けれど、声が出なかった」
琴は何も言わない。
私は続けた。
「犬が腹を庇って倒れた時、私は犬の身を案じました。腹の子を案じました。そして同時に、己の腹には子がいないことを思い知らされました」
言ってしまった。
私は、自分でも驚いた。
こんなことを、琴に言うつもりはなかった。
けれど、一度出てしまえば、止まらなかった。
「私は、徳の母ではありません。冬の母でもありません。奇妙丸の母でもありません」
「帰蝶様」
「坊丸は信行様の子。私にとっては甥にあたる子です」
私は膝の上で手を握った。
「けれど、あの子もまた織田の次を担う子。奥にいる以上、私は三郎様の子だけでなく、信行様の子らの行く末にも目を配らねばならない」
琴は、静かに聞いていた。
「母ではなくとも、母のようにあらねばならぬ。叱らねばならぬ。守らねばならぬ。分かっております」
私は笑おうとした。
笑えなかった。
「分かっているのに、動けませんでした」
琴は、膝の上で手を握りしめていた。
その手が、ほんの少し震えている。
それでも、琴は顔を上げた。
「帰蝶様」
「何です」
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……構いません」
琴は深く息を吸った。
「帰蝶様は、本当に、お子を望んでおられないのですか」
部屋の空気が、ぴんと張った。
私は、琴を見た。
琴は青ざめている。
自分が無礼なことを言っていると、よく分かっている顔だった。
それでも、逃げなかった。
「琴」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「それは、踏み込みすぎです」
「承知しております」
琴はすぐに頭を下げた。
「無礼は承知しております」
「ならば、なぜ問うのです」
「本音を、お聞かせいただきたいからです」
私は、息を止めた。
本音。
その言葉が、胸の奥に触れた。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「奇妙丸がいます」
「はい」
「あの子は賢い。三郎様の後継ぎとして、すでに十分な器を見せております」
「はい」
「その後に、私が正室として子を産めばどうなります」
琴は答えなかった。
「たとえ私が望まずとも、周りが勝手に見るでしょう。正室腹の御子。蝮の娘の産んだ子。美濃の血を引く子。そう言って、担ごうとする者が出るかもしれない」
私は淡々と言った。
「織田を揺らす火種になるかもしれない。奇妙丸を苦しめるかもしれない。徳や冬を、さらに不安にするかもしれない」
琴は静かに聞いている。
「私は、そのようなことをしたくありません」
それは、嘘ではない。
本当にそう思っている。
奇妙丸を揺るがしたくない。
三郎様の家を乱したくない。
奥を乱したくない。
それは、紛れもない私の考えだ。
琴は、ゆっくりと顔を上げた。
「帰蝶様のお考えは、正しゅうございます」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜きかけた。
けれど、琴は続けた。
「ですが、それは理でございます」
私は動きを止めた。
「本音を、お聞かせください」
琴の声は、震えていた。
けれど、真っ直ぐだった。
「帰蝶様は、子を望んだことが、一度もございませんか」
胸の奥に、何かが落ちた。
重く。
静かに。
私は、すぐには答えられなかった。
奇妙丸が幼い頃、三郎様の膝に乗って笑っていたことがある。
徳が、初めて私の袖を掴んだ日のことを覚えている。
冬が、熱を出して泣いた夜のことも。
犬が腹を撫でて笑った顔も。
藤乃が紫乃の頭を撫でる手も。
寧々が猿丸を抱いた時の、泣きそうな笑顔も。
琴が、義銀の隣で少しずつ奥の顔になっていく姿も。
見てきた。
ずっと見てきた。
そして、そのたびに。
胸の奥で、何かが小さく痛んでいた。
「……あります」
声は、思ったよりも小さかった。
琴が、息を呑む。
私は膝の上で手を握る。
「望んだことが、ないわけではありません」
言ってしまった。
口にしてしまった。
それは、何年も胸の奥に押し込めてきた言葉だった。
「三郎様に似た子がいれば、と」
私は目を伏せた。
「そう思ったことは、あります」
琴の目が潤んだ。
「帰蝶様」
「けれど、思うだけです。思うだけでよいのです」
「本当に、そうでしょうか」
「琴」
「藤乃様が、以前おっしゃいました」
琴は、震える手で懐から折り畳まれた紙を取り出した。
「子を望むことは、女だけの罪ではない。宿らぬことも、女だけの責ではない。夫婦で身体を整え、心を整え、それでも駄目ならば、また考えればよい、と」
私は、その紙を見た。
「これは」
「藤乃様より伺ったことを、私なりに書き留めたものにございます」
琴は、両手で紙を差し出した。
「寧々殿の折に伺ったこと。藤乃様ご自身の御養生のこと。産婆衆から聞いたこと。私なりに、まとめました」
「あなたが?」
「はい」
琴は、深く頭を下げた。
「無礼は承知しております。けれど、もし帰蝶様が本当はお子を望んでおられるならば、何もせずに諦めていただきたくありません」
「琴」
「これで足りなければ」
琴の声が震えた。
けれど、逃げなかった。
「もっと聞いてまいります」
その言葉に、私は何も返せなかった。
胸の奥が、熱かった。
痛かった。
苦しかった。
けれど、少しだけ。
ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がした。
その時だった。
廊下の向こうから、足音が響いた。
どすどすと。
遠慮のない、聞き慣れた足音。
三郎様だ。
障子が開く。
「戻ったぞ」
三郎様は、当然のように部屋へ入ってきた。
そして、私と琴の間に置かれた紙を見た。
「何だ、それは」
琴がびくりと肩を揺らす。
私は、とっさに紙を隠そうとした。
けれど、三郎様の方が早かった。
「見せろ」
「三郎様」
「見せろ」
ああ。
こうなると、三郎様は引かない。
琴が、おずおずと紙を差し出す。
三郎様はそれを受け取り、ざっと目を通した。
最初は面白そうに。
次第に、少し真面目な顔で。
やがて、口元をにやりと緩めた。
「お藤の御養生目録か」
「三郎様、それは」
「いや、よくできておる」
三郎様は、紙をひらひらと揺らした。
「身体を冷やすな。食を抜くな。月のものを記せ。夫も酒と過労を控えよ。女だけを責めるな。なるほど、なるほど」
琴は真っ赤になっていた。
「拙いまとめにございます」
「いや。拙いどころか、使える」
嫌な予感がした。
三郎様が「使える」と言う時は、大抵ろくでもない方向へ話が進む。
けれど、その前に、三郎様は私を見た。
真正面から。
「帰蝶」
「……はい」
「試そうじゃないか」
私は、息を呑んだ。
「三郎様」
「理屈は分かる。奇妙のことも、家中のことも、お主が案じてきたことも分かる」
三郎様は、いつになく静かに言った。
「だが、それでお主がずっと飲み込んでおったのなら、話は別だ」
胸の奥が、震えた。
三郎様は笑った。
いつものように、恐れを知らぬ笑みで。
けれど、その声は不思議と柔らかかった。
「お主の美しさを継いだ子も、見てみたいと思ったからな」
私は、言葉を失った。
琴が、そっと目を伏せる。
「……今さら、そのようなことをおっしゃいますか」
ようやく出た声は、少し震えていた。
三郎様は悪びれもせず頷いた。
「今さらでも、思うたのだから仕方あるまい」
なんという人だ。
本当に。
この人は、いつもそうだ。
人が何年も胸の奥にしまっていたものを、当然のように掴み上げてしまう。
「三郎様」
「琴」
三郎様は、琴を見た。
「この紙、借りるぞ」
「は、はい」
「帰蝶」
「……はい」
「少し、二人で話すぞ」
三郎様は、私の手を取った。
人前でそのようなことを、と叱るべきだったのかもしれない。
けれど、その手が思いのほか温かくて。
私は、叱る言葉を失った。
琴が、深く頭を下げる。
「帰蝶様」
その声は、少し泣きそうだった。
「どうか、ご無理だけはなさらないでください」
私は、琴を見た。
ああ。
この子もまた、藤乃に似てきた。
恐れても、踏み込む。
震えても、逃げない。
誰かのために、手を伸ばす。
「……ありがとう、琴」
それだけ言うと、琴の顔がくしゃりと歪んだ。
三郎様は、私の手を引いた。
「行くぞ」
「どこへでございますか」
「二人で話すと言っただろう」
三郎様は、二人で話すと言った。
何を、どこまで話すのか、私には分からなかった。
けれど、その手の温かさに、私はそれ以上を問えなかった。
三郎様の背を追いながら、私は一度だけ振り返った。
琴が、畳に手をついて深く頭を下げている。
その前には、藤乃の言葉を書き留めた紙。
お藤の御養生目録。
三郎様が何気なく口にしたその名が、後に本当に広まることになるとは。
この時の私は、まだ知らない。
ただ、胸の奥に長く沈めていたものが、ほんの少しだけ水面へ浮かんだような気がしていた。
怖い。
けれど。
少しだけ、救われたような気もした。
三郎様の手は、相変わらず温かかった。




