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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第五章 鬼柴田の妻と米櫃の底を知らぬ姫

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第六話 本音をお聞かせください

三郎様が部屋を出ていった後、しばらく声が出なかった。


静かだった。


あまりにも静かで、先ほど自分が口にした言葉が、胸の中で何度も響いた。


吉乃が病に倒れてからです。


私は、実母ではないことを言い訳に、踏み込みきれませんでした。


言ってしまった。


三郎様に。


琴の前で。


徳のことを。


吉乃のことを。


そして、私自身のことを。


私は、膝の上で手を握った。


「琴」


「はい」


「付き合わせてしまいましたね」


「いいえ」


琴は首を横に振った。


「私も、見ておりましたから」


「そうですね」


私は目を伏せる。


「見苦しいところを見せました」


「帰蝶様」


「徳を叱れませんでした」


言葉にすると、胸が痛んだ。


「叱りたかった。止めたかった。けれど、声が出なかった」


琴は何も言わない。


私は続けた。


「犬が腹を庇って倒れた時、私は犬の身を案じました。腹の子を案じました。そして同時に、己の腹には子がいないことを思い知らされました」


言ってしまった。


私は、自分でも驚いた。


こんなことを、琴に言うつもりはなかった。


けれど、一度出てしまえば、止まらなかった。


「私は、徳の母ではありません。冬の母でもありません。奇妙丸の母でもありません」


「帰蝶様」


「坊丸は信行様の子。私にとっては甥にあたる子です」


私は膝の上で手を握った。


「けれど、あの子もまた織田の次を担う子。奥にいる以上、私は三郎様の子だけでなく、信行様の子らの行く末にも目を配らねばならない」


琴は、静かに聞いていた。


「母ではなくとも、母のようにあらねばならぬ。叱らねばならぬ。守らねばならぬ。分かっております」


私は笑おうとした。


笑えなかった。


「分かっているのに、動けませんでした」


琴は、膝の上で手を握りしめていた。


その手が、ほんの少し震えている。


それでも、琴は顔を上げた。


「帰蝶様」


「何です」


「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「……構いません」


琴は深く息を吸った。


「帰蝶様は、本当に、お子を望んでおられないのですか」


部屋の空気が、ぴんと張った。


私は、琴を見た。


琴は青ざめている。


自分が無礼なことを言っていると、よく分かっている顔だった。


それでも、逃げなかった。


「琴」


私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。


「それは、踏み込みすぎです」


「承知しております」


琴はすぐに頭を下げた。


「無礼は承知しております」


「ならば、なぜ問うのです」


「本音を、お聞かせいただきたいからです」


私は、息を止めた。


本音。


その言葉が、胸の奥に触れた。


私は、ゆっくりと口を開いた。


「奇妙丸がいます」


「はい」


「あの子は賢い。三郎様の後継ぎとして、すでに十分な器を見せております」


「はい」


「その後に、私が正室として子を産めばどうなります」


琴は答えなかった。


「たとえ私が望まずとも、周りが勝手に見るでしょう。正室腹の御子。蝮の娘の産んだ子。美濃の血を引く子。そう言って、担ごうとする者が出るかもしれない」


私は淡々と言った。


「織田を揺らす火種になるかもしれない。奇妙丸を苦しめるかもしれない。徳や冬を、さらに不安にするかもしれない」


琴は静かに聞いている。


「私は、そのようなことをしたくありません」


それは、嘘ではない。


本当にそう思っている。


奇妙丸を揺るがしたくない。


三郎様の家を乱したくない。


奥を乱したくない。


それは、紛れもない私の考えだ。


琴は、ゆっくりと顔を上げた。


「帰蝶様のお考えは、正しゅうございます」


その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜きかけた。


けれど、琴は続けた。


「ですが、それは理でございます」


私は動きを止めた。


「本音を、お聞かせください」


琴の声は、震えていた。


けれど、真っ直ぐだった。


「帰蝶様は、子を望んだことが、一度もございませんか」


胸の奥に、何かが落ちた。


重く。


静かに。


私は、すぐには答えられなかった。


奇妙丸が幼い頃、三郎様の膝に乗って笑っていたことがある。


徳が、初めて私の袖を掴んだ日のことを覚えている。


冬が、熱を出して泣いた夜のことも。


犬が腹を撫でて笑った顔も。


藤乃が紫乃の頭を撫でる手も。


寧々が猿丸を抱いた時の、泣きそうな笑顔も。


琴が、義銀の隣で少しずつ奥の顔になっていく姿も。


見てきた。


ずっと見てきた。


そして、そのたびに。


胸の奥で、何かが小さく痛んでいた。


「……あります」


声は、思ったよりも小さかった。


琴が、息を呑む。


私は膝の上で手を握る。


「望んだことが、ないわけではありません」


言ってしまった。


口にしてしまった。


それは、何年も胸の奥に押し込めてきた言葉だった。


「三郎様に似た子がいれば、と」


私は目を伏せた。


「そう思ったことは、あります」


琴の目が潤んだ。


「帰蝶様」


「けれど、思うだけです。思うだけでよいのです」


「本当に、そうでしょうか」


「琴」


「藤乃様が、以前おっしゃいました」


琴は、震える手で懐から折り畳まれた紙を取り出した。


「子を望むことは、女だけの罪ではない。宿らぬことも、女だけの責ではない。夫婦で身体を整え、心を整え、それでも駄目ならば、また考えればよい、と」


私は、その紙を見た。


「これは」


「藤乃様より伺ったことを、私なりに書き留めたものにございます」


琴は、両手で紙を差し出した。


「寧々殿の折に伺ったこと。藤乃様ご自身の御養生のこと。産婆衆から聞いたこと。私なりに、まとめました」


「あなたが?」


「はい」


琴は、深く頭を下げた。


「無礼は承知しております。けれど、もし帰蝶様が本当はお子を望んでおられるならば、何もせずに諦めていただきたくありません」


「琴」


「これで足りなければ」


琴の声が震えた。


けれど、逃げなかった。


「もっと聞いてまいります」


その言葉に、私は何も返せなかった。


胸の奥が、熱かった。


痛かった。


苦しかった。


けれど、少しだけ。


ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がした。


その時だった。


廊下の向こうから、足音が響いた。


どすどすと。


遠慮のない、聞き慣れた足音。


三郎様だ。


障子が開く。


「戻ったぞ」


三郎様は、当然のように部屋へ入ってきた。


そして、私と琴の間に置かれた紙を見た。


「何だ、それは」


琴がびくりと肩を揺らす。


私は、とっさに紙を隠そうとした。


けれど、三郎様の方が早かった。


「見せろ」


「三郎様」


「見せろ」


ああ。


こうなると、三郎様は引かない。


琴が、おずおずと紙を差し出す。


三郎様はそれを受け取り、ざっと目を通した。


最初は面白そうに。


次第に、少し真面目な顔で。


やがて、口元をにやりと緩めた。


「お藤の御養生目録か」


「三郎様、それは」


「いや、よくできておる」


三郎様は、紙をひらひらと揺らした。


「身体を冷やすな。食を抜くな。月のものを記せ。夫も酒と過労を控えよ。女だけを責めるな。なるほど、なるほど」


琴は真っ赤になっていた。


「拙いまとめにございます」


「いや。拙いどころか、使える」


嫌な予感がした。


三郎様が「使える」と言う時は、大抵ろくでもない方向へ話が進む。


けれど、その前に、三郎様は私を見た。


真正面から。


「帰蝶」


「……はい」


「試そうじゃないか」


私は、息を呑んだ。


「三郎様」


「理屈は分かる。奇妙のことも、家中のことも、お主が案じてきたことも分かる」


三郎様は、いつになく静かに言った。


「だが、それでお主がずっと飲み込んでおったのなら、話は別だ」


胸の奥が、震えた。


三郎様は笑った。


いつものように、恐れを知らぬ笑みで。


けれど、その声は不思議と柔らかかった。


「お主の美しさを継いだ子も、見てみたいと思ったからな」


私は、言葉を失った。


琴が、そっと目を伏せる。


「……今さら、そのようなことをおっしゃいますか」


ようやく出た声は、少し震えていた。


三郎様は悪びれもせず頷いた。


「今さらでも、思うたのだから仕方あるまい」


なんという人だ。


本当に。


この人は、いつもそうだ。


人が何年も胸の奥にしまっていたものを、当然のように掴み上げてしまう。


「三郎様」


「琴」


三郎様は、琴を見た。


「この紙、借りるぞ」


「は、はい」


「帰蝶」


「……はい」


「少し、二人で話すぞ」


三郎様は、私の手を取った。


人前でそのようなことを、と叱るべきだったのかもしれない。


けれど、その手が思いのほか温かくて。


私は、叱る言葉を失った。


琴が、深く頭を下げる。


「帰蝶様」


その声は、少し泣きそうだった。


「どうか、ご無理だけはなさらないでください」


私は、琴を見た。


ああ。


この子もまた、藤乃に似てきた。


恐れても、踏み込む。


震えても、逃げない。


誰かのために、手を伸ばす。


「……ありがとう、琴」


それだけ言うと、琴の顔がくしゃりと歪んだ。


三郎様は、私の手を引いた。


「行くぞ」


「どこへでございますか」


「二人で話すと言っただろう」


三郎様は、二人で話すと言った。


何を、どこまで話すのか、私には分からなかった。


けれど、その手の温かさに、私はそれ以上を問えなかった。


三郎様の背を追いながら、私は一度だけ振り返った。


琴が、畳に手をついて深く頭を下げている。


その前には、藤乃の言葉を書き留めた紙。


お藤の御養生目録。


三郎様が何気なく口にしたその名が、後に本当に広まることになるとは。


この時の私は、まだ知らない。


ただ、胸の奥に長く沈めていたものが、ほんの少しだけ水面へ浮かんだような気がしていた。


怖い。


けれど。


少しだけ、救われたような気もした。


三郎様の手は、相変わらず温かかった。


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― 新着の感想 ―
先読みだと、蝶になれで芋虫とか毛虫、サナギ系幼名つけそう。姫なら暴走しないんかなあ?
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