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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第五章 鬼柴田の妻と米櫃の底を知らぬ姫

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第七話 帯を解いてください


やらかした。


私は、やらかした。


信長様の姫君を叩いた。


癇癪を起こしていたとはいえ、紫乃へ向かって香合を投げつけ、それを庇った身重の犬姫様に当てたとはいえ、信長様の姫君を叩いた。


他人の子を。


しかも、信長様の娘を。


あばばばば。


どうしましょう。


どうしましょう、勝家様。


いいえ、勝家様に言ったところで、勝家様はまず低い声で「何があった」とおっしゃるでしょう。


その後で事情を聞いて、黙り込んで、信長様のところへ行こうとするかもしれません。


やめてください。


それは本当にやめてください。


柴田家と織田家の間で、私の平手打ちが政治問題になるなど、考えただけで胃が痛いです。


あばばばば。


心の中では完全にそうなっていた。


けれど、表に出すわけにはいかない。


犬姫様が横になっている。


こめかみには布が当てられ、医師からは数日安静にするよう言われた。


腹の御子には、今のところ大きな障りは見えない。


そう言われた。


言われたけれど、だから安心してよいというわけではない。


頭を打っている。


腹に力も入った。


驚きもした。


身重の身体に、どれほど障ったか分からない。


私は、犬姫様のそばに座りながら、何度も息を整えていた。


落ち着きなさい。


まず、落ち着きなさい。


徳姫様を叩いたことは、後で考える。


いえ、考えたくなくても考えなければならないのですが。


今は犬姫様です。


犬姫様と腹の御子です。


「藤の方様」


横になった犬姫様が、私を見た。


「はい」


「そのようなお顔をなさらないでくださいませ」


「……私、どのような顔をしておりますか」


「今にも倒れそうなお顔です」


それは困ります。


倒れたいのは、むしろこちらです。


けれど、今倒れるわけにはいかない。


「申し訳ございません。犬姫様こそ、ご気分はいかがですか」


「少し頭は痛みます。けれど、腹は……今のところ、大きく痛むことはありません」


犬姫様は、そっと腹へ手を当てた。


その手つきは、先ほどより少しだけ落ち着いている。


けれど、見ているこちらの胸は、まだ落ち着かなかった。


私がもっと早く紫乃を引き寄せていれば。


いや、それよりも、徳姫様が香合を掴んだ時点で止めていれば。


いえ、さらに言えば、徳姫様が部屋へ入ってきた時に、もっと強く場を収めていれば。


考え出すと、きりがない。


その時だった。


「母上」


小さな声がした。


振り向くと、紫乃が部屋の隅からこちらを見ていた。


藤七丸が、その手を握っている。


本当なら、二人はそのまま別室で待たせておくつもりだった。


けれど、犬姫様が少し落ち着いたところで、紫乃がどうしても犬姫様の様子を見たいと言ったらしい。


藤七丸は困った顔で紫乃の手を握り、侍女が私に目で尋ねてきた。


私は少し迷った。


怖がらせたまま遠ざけるのも、よくない。


けれど、犬姫様を休ませたい。


「静かにできますか」


私が尋ねると、紫乃は真剣な顔で頷いた。


「しずか、できる」


藤七丸も背筋を伸ばした。


「私が見ています」


数え六つの子が、そんなことを言う。


少し前まで転んでは泣いていたのに。


本当に、子供はすぐに大きくなる。


「では、少しだけです。犬姫様はお休みにならなければなりませんからね」


「はい」


紫乃は、そろそろと近づいてきた。


いつものように走らない。


本当に、そろそろと。


藤七丸がその後ろについている。


犬姫様は、紫乃を見ると、弱く笑った。


「紫乃様。先ほどは怖い思いをさせてしまいましたね」


「犬姫さま、いたい?」


「少しだけ」


「おなか、いたい?」


紫乃は、さらに小さな声で尋ねた。


犬姫様は、腹に手を当てながら首を横に振る。


「今は、大丈夫です」


「ほんと?」


「はい」


紫乃は、少しだけ安心したように息を吐いた。


それから、そっと犬姫様の腹のあたりを見た。


小さな手が、迷うように宙で止まる。


「紫乃が触れても、よろしいですか」


私が犬姫様に尋ねると、犬姫様は頷いた。


「ええ。少しなら」


紫乃は、そっと犬姫様の腹の上へ手を置いた。


本当に、羽でも触れるように。


「くるしくない?」


紫乃が言った。


「おび、くるしいよね?」


私は、はっとした。


帯。


犬姫様の腹。


まだ月は浅いとはいえ、身重の身体である。


倒れた時、腹を庇って力も入った。


それなのに、普段通りの帯で締めている。


もちろん、妊婦だからといって最初から帯を完全に外すわけではない。


けれど、今は。


頭を打ち、腹に力が入り、不安で身体も強張っている今は。


締めつけが、余計に苦しいのではないか。


「犬姫様」


私は身を乗り出した。


「帯は、苦しくございませんか」


犬姫様は少し驚いた顔をした。


「……言われてみれば、少し」


その一言で、私の背筋が伸びた。


「帯を解いてください」


私は侍女に言った。


「腹を圧迫しないように。すぐに」


「は、はい」


侍女が慌てて動く。


私は続けて顔を上げた。


「どなたか、柴田邸へ使いを。於光様に、紫乃の時に私が使っていた身重用の衣を持ってきていただけるよう伝えてください。できれば数着。急ぎで」


侍女が一瞬、目を瞬かせた。


「身重用の衣、でございますか」


「はい。帯を強く締めずに済むものです。上下が分かれていて、紐でゆるく結べるもの。於光様なら分かります」


「承知いたしました」


侍女がすぐに下がる。


犬姫様が、私を見た。


「藤の方様、そのようなものがあるのですか」


「私が紫乃を身ごもった時に使っていたものです」


正確に言えば、私が作らせたものではない。


勝家様が命じたものだ。


紫乃を身ごもっていた頃、私は腹が苦しくて、帯がつらい日があった。


苦しい。


けれど、だらしなくはしたくない。


動きにくい。


けれど、寝てばかりもいられない。


そんな私を見て、勝家様がある日、低い声で言った。


「腹を締めるな」


それだけだった。


私は最初、何のことか分からなかった。


けれど勝家様は、私の腹を見て、帯を見て、眉を寄せた。


「苦しそうだ。楽にせよ」


それを聞いた八右衛門殿が、すぐに動いた。


於光様と相談し、針仕事のできる女中たちを集め、帯を強く締めずに済む衣を仕立ててくれた。


上と下を分け、腹のあたりを紐でゆるく調整できるようにしたもの。


見た目は少し変わっていたが、腹は楽だった。


あれがなければ、紫乃の時はもっと苦しかったと思う。


「私の使ったもので、大変申し訳ございません」


身分ある姫君に、他人が身ごもった時の衣を勧めるなど、本来なら失礼かもしれない。


けれど、今は体裁よりも腹の御子だった。


私は犬姫様へ頭を下げた。


「ですが、今は腹を締めぬ方がよろしいかと。少しでも楽になればと思います」


「申し訳ないなど」


犬姫様はすぐに首を横に振った。


「身重の者にとって、楽であることに勝る礼はございません」


その言葉に、私は顔を上げた。


犬姫様は、腹へ手を添えたまま、柔らかく笑っていた。


「子のことを思えば、そのようなことは気にいたしません。お借りできるなら、ありがたいことです」


その言葉に、私は少しだけ胸を撫で下ろした。


犬姫様は強い。


柔らかいけれど、腹の子のこととなると迷わない。


母になる人の顔だった。


帯を緩めてもらった犬姫様は、少しだけ息を吐いた。


「……たしかに、楽です」


「しばらくは、そのままで。衣が届いたら着替えましょう」


「はい」


紫乃は、犬姫様の腹を見て満足そうに頷いた。


「おび、ない。よかった」


「紫乃が気づいてくれたおかげですね」


私が言うと、紫乃はぱっと顔を明るくした。


「紫乃、できた?」


「はい。よくできました」


そう言うと、紫乃は嬉しそうに笑った。


藤七丸が、少し誇らしそうに妹を見る。


「紫乃、静かにできた」


「うん」


「えらい」


「えへへ」


そのやり取りに、犬姫様が小さく笑った。


部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。


本当に少しだけ。


けれど、ありがたかった。


徳姫様のこと。


犬姫様の怪我。


帰蝶様の苦しげな顔。


琴の迷い。


全部が胸の中で絡まっている。


その中で、子供たちの小さな会話だけが、少しだけ息をさせてくれた。


しばらくして、柴田邸へ向かった使いが戻ってきた。


正確には、使いだけではなかった。


於光様が、自ら来た。


「藤乃様」


障子の向こうから声がし、私は慌てて振り返った。


「於光様」


於光様は、女中を二人連れていた。


その腕には、畳まれた衣がいくつも抱えられている。


「使いの者から聞きました。犬姫様が倒れられたとか」


「はい。今は医師も産婆も診てくださり、大きな障りは見えぬとのことですが、数日は安静にと」


「それは何よりです」


於光様は犬姫様へ深く頭を下げた。


「犬姫様。柴田勝家が姉、於光にございます。突然の参上、失礼いたします」


「こちらこそ、ありがとうございます」


犬姫様も横になったまま、少し頭を下げようとする。


於光様はすぐに手を上げた。


「どうか、そのままで。身重の方が無理に頭を下げるものではございません」


その言い方があまりに自然で、私は少しだけ笑いそうになった。


さすが於光様である。


於光様は、持ってきた衣を広げた。


「こちらでよろしいですか」


そこには、見覚えのある衣があった。


紫乃の時に使っていたもの。


上衣と下衣が分かれ、腹のあたりを紐でゆるく調整できるようになっている。


帯で強く締める必要がない。


見た目は少し変わっているが、座っていても横になっていても楽だった。


「はい。これです」


私が頷くと、於光様は犬姫様へ向き直った。


「これは、藤乃様が紫乃様を身ごもっていた折、権六が『腹を締めるな。楽にせよ』と申して、八右衛門に仕立てさせたものにございます」


私は固まった。


於光様。


どうしてそこで、勝家様のお名前を。


犬姫様の目が、丸くなる。


「柴田殿が?」


「ええ」


於光様は、にこにこと笑っている。


「藤乃様の腹が苦しそうだと、すぐに眉を寄せましてね。帯で締めるから苦しいのだろう、何とかせよ、と」


「於光様」


「事実でしょう」


事実です。


事実ですが。


「八右衛門があれこれ考え、女中たちに仕立てさせました。藤乃様が楽だとおっしゃったので、何着か残しておいたのです」


犬姫様が、柔らかく笑った。


「柴田殿は、本当にお優しいのですね」


またですか。


柚の湯の時も言われました。


今度は衣ですか。


「勝家様は、心配性でいらっしゃるだけです」


私は小さく言った。


於光様が、すかさず微笑む。


「ええ。大層な心配性でいらっしゃいます」


追い打ちをかけないでください。


犬姫様は楽しそうに笑った。


琴がここにいなくてよかった。


もし琴がいたら、きっとまた笑っただろう。


いえ、琴だけではない。


帰蝶様もいらしたら、きっと静かに目を細めたに違いない。


私は、顔が熱くなるのを感じながら、犬姫様の着替えの準備を整えた。


侍女と産婆が手を貸し、犬姫様はゆっくりと身を起こす。


頭を打っているため、急には動かさない。


腹に力が入らぬよう、ゆっくり。


帯を完全に外し、持ってきた身重用の衣へ着替える。


上衣を羽織り、下衣を整え、腹のあたりは紐でゆるく結ぶ。


身体に合わせて、締めすぎないよう調整する。


犬姫様は、最初こそ不思議そうにしていた。


けれど、着替え終えると、目を瞬いた。


「……楽、ですわね」


その一言に、私は安堵した。


「よかったです」


「帯で締めぬだけで、こんなに違うのですね」


犬姫様は、腹へ手を当てた。


「腹のあたりが、怖くありません」


怖くありません。


その言葉に、私は胸が痛んだ。


妊娠中の身体は、自分の身体であって、自分だけのものではなくなる。


腹の中にいる子を守りたい。


でも、何をどうすればよいのか分からない。


締めてよいのか。


緩めてよいのか。


食べてよいのか。


動いてよいのか。


休んでよいのか。


分からないことばかりだ。


少しでも怖くなくなるなら、それだけで意味がある。


「犬姫様」


私は言った。


「よろしければ、しばらくこちらをお使いください。ですが、私が使ったものですから、気になるようでしたら、すぐに新しいものを仕立てさせます」


「いいえ」


犬姫様は、すぐに首を横に振った。


「新しいものは、腹の子に作る方がいいですわ」


その声は、柔らかかった。


「私は、藤の方様が使われたものをお借りできるだけで十分です。これほど楽なものを、今すぐ使えるのですから」


私は、言葉に詰まった。


犬姫様は、腹へ手を当てて微笑む。


「それに、しばらくは清洲で世話になるつもりです。ならば、こちらで少しずつ教わればよいのでしょう?」


「……はい」


「柚の湯も、ひ、ひ、ふう、も、この衣も。私が覚えて、佐治へ戻る時に伝えます」


犬姫様は、少しだけ楽しそうに笑った。


「けれど、新しい布は、この子の産着に使わせてくださいませ」


その言葉に、於光様が目を細めた。


「まあ。よい母になられますね」


犬姫様は、少し照れたように笑った。


「まだ、なれるかどうかも分かりませぬ」


「なれます」


私は、思わず言っていた。


犬姫様が、私を見る。


「犬姫様は、もう腹の御子のことを一番に考えておられます。ならば、もう母の顔でございます」


犬姫様の目が、少しだけ潤んだ。


「……ありがとうございます、藤の方様」


その声は、震えていた。


けれど、嬉しそうでもあった。


私は、少しだけ目を伏せる。


母になる。


簡単なことではない。


産めばすぐ母になるわけでもない。


けれど、子のために何かを選ぼうとするその瞬間から、人はきっと少しずつ母になっていく。


犬姫様は今、自分のためではなく、腹の御子のために新しい布を残そうとした。


その姿は、もう十分に母だった。


「しばらく清洲におられるなら、必要なものは少しずつ整えましょう」


於光様が言った。


「産着も、寝具も、湯を冷まさぬ器も。城の奥だけで足りぬものがあれば、柴田邸からも手を回します」


「ありがとうございます」


犬姫様は深く礼をしようとしたが、於光様がまた止めた。


「身重の方は、そのままで」


「……はい」


犬姫様は、少し笑って頷いた。


「母上」


藤七丸が、そっと私の袖を引いた。


「帰らないのですか」


私は顔を上げた。


もう、だいぶ時が過ぎている。


帰蝶様も琴も、まだこちらへは戻っていない。


信長様への報告は、帰蝶様がするとおっしゃっていた。


私は、徳姫様を叩いた。


そのことは必ず信長様の耳に入る。


今すぐ呼ばれるかもしれない。


そう思うと、胃がきゅっと縮んだ。


けれど、犬姫様の着替えは済んだ。


柚の湯も飲めている。


医師と産婆の指示も受けた。


これ以上、私がここでうろうろしていても、犬姫様を休ませる邪魔になるだけかもしれない。


帰蝶様へは、犬姫様が落ち着かれたことと、私たちが柴田邸へ戻ることを伝えていただくよう、侍女へ頼んだ。


私は、そろそろお暇を告げようと犬姫様へ向き直った。


けれど、私が口を開くより先に、犬姫様が腹へ手を添えたまま、こちらを見た。


「藤の方様」


「はい」


「佐治へ戻りましたら、今日教わったことを、向こうの女たちにも伝えます」


その声は、まだ少し弱い。


けれど、確かだった。


「産む者が、少しでも怖くなくなるように」


私は、言葉に詰まった。


犬姫様は、自分が休まねばならない身でありながら、もう次の誰かへ渡すことを考えている。


この方は、ただ守られるだけの姫ではない。


守られたものを、次の誰かへ渡そうとする方なのだ。


「……きっと、役に立ちます」


私は静かに言った。


「犬姫様が持ち帰られたなら、佐治の女たちは心強いでしょう」


犬姫様は、少し照れたように笑った。


「そうなれば、嬉しゅうございます」


於光様が、畳まれた残りの衣を侍女へ預ける。


「こちらは清洲に置いてまいります。使い方は、産婆衆にも伝えておきましょう」


「ありがとうございます、於光様」


犬姫様は礼をしようとしたが、於光様がすぐに止めた。


「身重の方は、そのままで」


「……はい」


犬姫様は、今度は素直に頷いた。


その様子を見て、私は少しだけ笑った。


私が怖くて口にしたこと。


勝家様が心配して用意してくださったもの。


八右衛門殿が形にし、於光様が残してくださった衣。


それらが今度は、犬姫様の手で佐治へ渡ろうとしている。


どうしてこうなったのでしょうか。


本当に。


私は、犬姫様へ深く頭を下げた。


「どうか、今はお休みくださいませ」


「はい」


犬姫様は、腹へ手を添えたまま、穏やかに微笑んだ。


「藤の方様も、どうかお休みください。今日は、たくさん働かれましたもの」


私は、思わず苦笑しそうになった。


働いた。


そう言ってよいのでしょうか。


信長様の姫君を叩き、犬姫様の帯を解かせ、柴田邸から身重用の衣を持ってこさせた。


働いたというより、騒ぎを増やした気がしてならない。


けれど、犬姫様の顔は柔らかかった。


それに少しだけ救われる。


「ありがとうございます」


私はもう一度、頭を下げた。


紫乃が、最後に小さく言った。


「犬姫さま、赤ちゃんも、ねんね」


犬姫様の顔が、ふわりとほどけた。


「ええ。赤子も、ねんねいたします」


紫乃は満足そうに頷いた。


藤七丸が、その手を取る。


私たちは、静かに部屋を出た。


障子が閉まる直前、犬姫様が腹へ手を添え、柚の香りの湯気の中で目を閉じるのが見えた。


その姿に、胸の奥が少しだけ温かくなる。


今日、何かが動いた。


それは、きっと小さなことではない。


でも今の私に分かるのは、ただ一つ。


犬姫様と腹の御子が、どうか無事でありますように。


私は、徳姫様を叩いた手をそっと握りしめたまま、清洲城の奥を後にした。


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