第八話 お前を捨てることはない
柴田権六勝家は、清洲の城内に妙な熱がこもっているのを感じていた。
戦の前のような熱ではない。
勝った負けたの報せでもない。
だが、人の口から口へ、同じ話が何度も運ばれていた。
徳姫様が、また癇癪を起こされたらしい。
身重の犬姫様が倒れられたそうだ。
柴田殿の奥方が、徳姫様の頬を叩いたとか。
信長様の姫を。
清洲の奥で。
その噂は、あまりにも早かった。
城とは、そういう場所である。
人が多い。
耳が多い。
口が多い。
誰かが見れば、誰かが聞く。
誰かが聞けば、また誰かへ渡る。
それが、奥で起きたことであっても、完全に隠しきれるものではない。
権六は、その報せを聞いた時、しばらく黙っていた。
目の前にいた者は、どこか興奮した様子で言った。
「いや、柴田殿。お藤の方様は、ようやられましたな」
権六は、その男を見た。
「ようやった、だと」
「はい。恐れながら、徳姫様のご気性は、近頃いささか……その」
男は言葉を濁した。
濁したが、言いたいことは分かる。
徳姫のわがままは、すでに奥だけの話ではなくなっていた。
父である信長の名を出し、人を動かす。
気に入らぬことがあれば声を荒げる。
周囲の者は、信長の姫であるがゆえに強く諫められない。
そういう話は、権六の耳にも入っていた。
そして今日。
その癇癪が、身重の犬姫にまで及んだ。
「しかも、犬姫様は腹に御子がいらっしゃるとか」
別の者が言う。
「それで物を投げたとなれば、いくら信長様の姫とはいえ……」
「お藤の方様でなければ、止められませなんだろう」
「まこと、見事なご気性で」
「さすがは柴田殿の奥方」
口々に言う。
褒めている。
たしかに、褒めているのだろう。
信長の姫を恐れずに止めた。
身重の犬姫と幼い紫乃を守った。
奥で誰も言えなかったことを、藤乃が言った。
そう見えているのだろう。
権六は、黙って聞いていた。
だが、胸の奥は少しも晴れなかった。
藤乃は、そうは思っておらぬ。
あの女は、己がしたことを軽くは扱えぬ。
必要であったと分かっていても、手を上げた重さを抱える。
他人の子を叩いたと、必ず思う。
しかも相手は信長の娘である。
柴田家に累が及ぶのではないか。
権六の立場を悪くするのではないか。
藤七丸と紫乃に何かあったらどうしようか。
そう考える。
考えて、気を病む。
権六には、分かっていた。
「柴田殿?」
声をかけられ、権六はようやく顔を上げた。
「何だ」
「いえ。その、お藤の方様は、まこと見事な……」
「それを、本人の前で言うな」
低い声だった。
相手が口を閉じる。
「某の前で言う分にはよい。だが、お藤の前で軽々しく申すな」
「は、はい」
「お藤は、己の手を軽く見る女ではない」
そう言うと、周囲の者たちは少し気まずそうに目を伏せた。
褒め言葉のつもりだったのだろう。
だが、藤乃にとってそれが救いになるとは限らない。
権六は立ち上がった。
帰らねばならぬ。
藤乃が帰っているかは分からない。
だが、帰れば必ず顔を見る。
顔を見れば、分かる。
何を抱えているか。
どれほど気を張っているか。
どれほど怯えているか。
権六は、急ぎ柴田邸へ戻った。
藤乃は、帰っていた。
藤七丸と紫乃も無事だった。
それを見た時、権六はまず胸の奥で息を吐いた。
藤乃は、普段通りにしていた。
少なくとも、表向きは。
藤七丸に手を洗わせ、紫乃の髪を整え、夕餉の席では子どもたちに食べる順を教えていた。
紫乃が眠そうに舟を漕ぐと、抱き上げて寝所へ運ぶ。
藤七丸がまだ話したそうにしていると、頭を撫でて言い聞かせる。
「今日はもうお休みなさい。明日、また聞かせてください」
声は穏やかだった。
笑みもあった。
けれど、権六には分かる。
藤乃の手は、時折わずかに震えていた。
目元に疲れがある。
息を吐く間が、いつもより浅い。
子どもたちがいる間、藤乃は崩れなかった。
母として。
柴田家の奥として。
子どもたちを不安にさせぬよう、普段通りであろうとしていた。
やがて、藤七丸と紫乃が寝静まった。
於光も下がり、女中たちもそれぞれの役目へ戻る。
部屋には、権六と藤乃だけが残った。
その瞬間だった。
藤乃が、畳に両手をついた。
深く。
あまりにも深く、頭を下げた。
「申し訳ございません、勝家様!」
権六は眉を寄せた。
「お藤」
「私、もしかしたら、勝家様の出世を阻むことをしてしまったかもしれません!」
声が震えていた。
藤乃は顔を上げない。
両手を畳につき、肩を震わせている。
「徳姫様を、叩きました」
権六は黙っていた。
「信長様の姫君です。徳姫様です。癇癪を起こされ、香合を投げ、それが紫乃へ向かい、犬姫様が庇って倒れられて……私は、止めなければと思って」
言葉が途切れる。
「叩きました」
藤乃の声が、さらに小さくなる。
「他人の子を。信長様の姫君を。勝家様の妻である私が」
涙が、畳へ落ちた。
「申し訳ございません」
権六は、ゆっくりと息を吐いた。
「顔を上げよ」
藤乃は上げない。
「できません」
「お藤」
「もし、このことで柴田家に咎が及ぶなら」
藤乃の声が、震えた。
「万が一がありましたら、私を切り捨ててください」
権六の目が、鋭くなった。
藤乃は続ける。
「藤七丸と紫乃を、お願いいたします。私はどうなっても構いません。ですが、あの子たちは、勝家様の子です。柴田の子です。どうか、あの子たちだけは」
「黙れ」
低い声だった。
藤乃の肩が、びくりと震える。
権六は、膝を進めた。
「顔を上げよ」
今度は、藤乃がゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れていた。
唇を噛み、目元を赤くしている。
いつものように軽口を言う余裕など、どこにもない。
権六は、その顔を見て、胸の奥が重くなった。
やはりだ。
やはり、気を病んでいた。
「お前を切り捨てることはない」
藤乃の目が揺れる。
「ですが」
「ない」
権六は、きっぱりと言った。
「万が一などと言うな」
「勝家様」
「もし、殿がこのことでお前を咎めるというなら」
権六は、藤乃の目を見た。
「某は、家の者を伴って他家へ仕官する」
藤乃の顔から、血の気が引いた。
「な、何を」
「聞こえなんだか」
「それは、なりません!」
藤乃が、今度は慌てて身を乗り出した。
「勝家様、それはなりません! そのようなこと、絶対に」
「お前は、某にお前を捨てよと言った」
藤乃は言葉を失った。
権六は続ける。
「ならば、某も言う。お前を捨てるくらいなら、某は今の地位を捨てる」
「勝家様」
「藤七丸と紫乃、それに家の者を連れて、どこへでも行く」
藤乃の目から、また涙がこぼれた。
「そんなことを、言わないでください」
「先に申したのはお前だ」
「私は、勝家様のために」
「某のためと言うなら、二度と己を切り捨てろなどと申すな」
藤乃は、息を呑んだ。
権六は、手を伸ばした。
徳姫を叩いたであろう手を取る。
藤乃の手は、少し冷たかった。
その掌を見て、権六は眉を寄せる。
「痛むか」
藤乃は、また泣きそうな顔になった。
「痛むのは、私ではありません」
「聞いておる。痛むか」
藤乃は、小さく首を横に振った。
「少しだけ」
「ならば、冷やせ」
「勝家様」
「お前の手も、お前のものだ。粗末にするな」
その言葉に、藤乃は声を詰まらせた。
権六は、その手を包むように握った。
「犬姫様は」
「今のところ、大きな障りは見えぬと。頭を打たれたので、数日は安静にと」
「腹の子は」
「産婆殿も、今すぐ危ういとは申しておりません。けれど、しばらくは気をつけねばならないと」
「そうか」
権六は短く息を吐いた。
「紫乃は」
「怖がっておりましたが、怪我はありません。犬姫様が庇ってくださいました」
「藤七丸は」
「紫乃の前に立っていました」
権六の眉が、わずかに動いた。
「そうか」
その一言に、少しだけ誇りが混じった。
藤乃も気づいたのだろう。
涙の中で、ほんの少しだけ表情が緩んだ。
「徳姫様は、謝られました」
「そうか」
「犬姫様に。紫乃に。冬姫様にも。私に叱られ、泣いて、それでも謝ってくださいました」
「ならば、よかった」
「よかった、のでしょうか」
「謝れたなら、よかったのだろう」
権六は言った。
「だが、それとお前の手が重いことは別だ」
藤乃が、また目を伏せる。
「はい」
「重いままでよい」
「……はい」
「軽く忘れるな。だが、己だけを責めるな」
藤乃は、ゆっくりと頷いた。
「はい」
権六は、藤乃の手を離さなかった。
「殿は、お前を罰せぬ」
藤乃が顔を上げる。
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「殿は、そういう男ではない」
「ですが」
「殿は、徳姫様が悪ければ悪いと言う」
藤乃は黙った。
「それに、帰蝶様が報告なさるのだろう」
「はい」
「ならばなおさらだ」
権六は、低く言った。
「帰蝶様が、お前を守る」
藤乃の目が揺れた。
「帰蝶様が」
「そうだ」
権六は頷いた。
「お前がしたことを、軽くは扱わぬ。だが、必要であったことも隠さぬ。そういう方だ」
藤乃は、ぽろぽろと涙をこぼした。
「私、怖かったのです」
「うむ」
「犬姫様に何かあったらどうしようと。紫乃に当たっていたらどうしようと。徳姫様を叩いたことが、勝家様や子どもたちに返ってきたらどうしようと」
「うむ」
「でも、あの時は、止めなければと思って」
「うむ」
「止めた後で、怖くなりました」
権六は、その言葉を黙って聞いた。
藤乃は、ようやく少しだけ息を吐いた。
「私は、正しかったのでしょうか」
権六は、すぐには答えなかった。
正しかった。
そう言えば、藤乃は少し救われるだろう。
だが、手を上げたことを軽くしてしまうかもしれない。
間違っていた。
そう言えば、藤乃の心を折る。
だから権六は、別の言葉を選んだ。
「必要であった」
藤乃が、権六を見る。
「少なくとも、あの場では必要であったのだろう」
「……はい」
「ならば、その後は背負え」
藤乃の涙が止まる。
「背負うのですか」
「そうだ」
権六は、藤乃の手を握ったまま言った。
「お前が徳姫様を叩いたこと。犬姫様が倒れたこと。徳姫様が謝ったこと。お前が重いと思うなら、背負え」
「はい」
「ただし、一人で背負うな」
藤乃の目が、大きく開いた。
「某も背負う」
「勝家様」
「夫だ」
それだけ言った。
藤乃の顔が、くしゃりと歪む。
権六は、少し困った。
泣かせたいわけではない。
だが、藤乃は泣いた。
声を殺し、肩を震わせて泣いた。
権六は、ただその手を握っていた。
やがて、藤乃が小さく呟いた。
「勝家様」
「何だ」
「捨てないでくださいますか」
「捨てぬ」
「本当に」
「何度でも言う」
権六は、藤乃の手を強く握った。
「お前を捨てることはない」
藤乃は、また泣いた。
今度は、少しだけ違う涙だった。
恐れだけではない。
安堵が混じった涙だった。
権六は、深く息を吐いた。
外では、まだ清洲の噂が飛び交っているだろう。
徳姫のこと。
犬姫のこと。
藤乃のこと。
明日になれば、殿から何か言葉があるかもしれない。
帰蝶様からも、使いが来るかもしれない。
それでも、今この部屋で決めることは一つだった。
藤乃を、一人で震えさせぬこと。
それだけだった。
「お藤」
「はい」
「まず、手を冷やす」
「……はい」
「それから、寝る」
「眠れる気がしません」
「横になれ」
「はい」
「泣くなら、そこで泣け」
藤乃は、涙で濡れた顔のまま、少しだけ笑った。
「勝家様は、相変わらず乱暴です」
「そうか」
「はい」
「ならば、その乱暴な夫の言うことを聞け」
藤乃は、ようやく小さく頷いた。
「はい」
権六は、藤乃の手を離さなかった。
この女は、守護邸が燃えた日から、いつも何かを抱えて走っている。
甥を守り。
家を守り。
子を産み。
人を食べさせ。
時には、他人の子まで叱る。
忙しない女だ。
本当に、忙しない。
だが。
権六は、その手を包みながら思った。
だからこそ、捨てられるはずがない。
お前を捨てることは、某にはできぬ。
たとえ、どこへ行くことになろうとも。
この手を離すことだけは、ない。




