第九話 父上に会いたい時は
徳は、朝になっても目が痛かった。
泣いたからだ。
昨日、たくさん泣いた。
藤の方に叩かれた頬は、もう強くは痛まない。
けれど、手で触れると、まだ少しだけ熱い気がした。
痛い。
けれど、それよりも、胸の奥の方が痛かった。
犬叔母上が倒れた。
こめかみに布を当てて、横になっていた。
腹の御子は、今のところ大きな障りはないと医師が言った。
けれど、徳は見た。
犬叔母上が腹を庇って倒れたところを。
紫乃が震えていたところを。
冬が泣いていたところを。
帰蝶様の顔から血の気が引いたところを。
琴が水を取りに動いたところを。
藤の方が、徳の前へ歩いてきたところを。
そして。
ぱしん、と乾いた音。
自分の頬が打たれた音。
徳は、布団の中でぎゅっと手を握った。
嫌だった。
怖かった。
恥ずかしかった。
けれど、昨日、藤の方は言った。
叱ることと、嫌いになることは違う。
嫌いになりません。
その言葉を思い出すと、胸の奥が、また痛くなった。
徳は、藤の方に会いたかった。
もう一度、会いたかった。
謝りたい。
犬叔母上にも謝った。
紫乃にも謝った。
冬にも謝った。
けれど、藤の方には、まだきちんと言えていない気がした。
頬を叩かれて。
叱られて。
頭を撫でられて。
よくできました、と言われた。
けれど、徳はまだ、ちゃんとお礼も言っていない。
だから、会いたい。
父上に頼めば、きっと会わせてくださる。
そう思った瞬間、徳は布団を蹴るように起き上がった。
「父上に……」
言いかけて、止まる。
昨日までなら、そのまま走っていた。
父上に会う。
父上に会わせよ。
藤の方を呼べ。
そう言えば、誰かが走った。
侍女が慌てて廊下へ出る。
小姓が呼ばれる。
父上の居場所を探す。
帰蝶様に知らせる者もいる。
時には、父上の前にいた者が話を止めることもあった。
徳は、それを当たり前だと思っていた。
父上は、徳の父上だ。
徳は、父上の姫だ。
だから、徳が会いたいと言えば、会えるものだと思っていた。
けれど。
藤の方の声が、胸の奥でよみがえる。
姫様が欲しいと言えば、誰かが走ります。
姫様が嫌だと言えば、誰かが困ります。
姫様が怒れば、周りの者は震えます。
徳は、膝の上の手を見た。
昨日、香合を掴んだ手。
投げた手。
犬叔母上を倒した手。
その手が、今は震えている。
父上に会いたい。
でも、父上は今、会えるのだろうか。
会えぬ時に、徳が押しかければ、誰かが困るのではないか。
父上のそばにいる人が、話を止めねばならぬのではないか。
帰蝶様が、また心配するのではないか。
徳は唇を噛んだ。
分からない。
どうすればよいのか、分からない。
今まで考えたことがなかった。
父上に会いたい時に、どうすればよいのか。
そんなこと、誰かに聞いたこともなかった。
障子の近くに控えていた侍女が、徳の様子を見て、そっと声をかけた。
「徳姫様。お目覚めでございますか」
徳は顔を上げた。
いつもなら、すぐ命じていた。
水を。
着替えを。
父上に会う。
早くせよ。
けれど、今日は言葉が喉で引っかかった。
徳は少し黙ってから、小さな声で言った。
「……父上に会いたいのだが」
侍女の肩が、わずかに強張った。
徳はそれを見た。
昨日までなら、見ていなかった。
侍女の肩がこわばることなど、気にしたこともなかった。
けれど、今は分かった。
この者は、また徳が騒ぐと思ったのだ。
走らされると思ったのだ。
困らされると思ったのだ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
徳は、言葉を飲み込み、もう一度言い直した。
「父上に会いたいのだが、その場合は、どうしたらよいのじゃ?」
侍女が、目を見開いた。
「徳姫様」
「分からぬ」
徳は、膝の上で手を握った。
「妾は、いつも父上に会いたいと言えば、そなたたちが走っておった。だが、それは……よくないことなのではないか」
侍女は、一瞬、言葉を失ったようだった。
それから、静かに膝をついた。
「徳姫様が信長様にお会いになりたい時は、まず私どもへお申し付けくださいませ」
「申し付ける」
「はい。ただ、急に御前へ向かわれるのではなく、まずはこうお命じください。信長様がお手すきか確認せよ。お会いするお時間を頂きたいと伝えよ、と」
徳は、眉を寄せた。
「お手すき」
「はい。信長様にも、お話の途中や、お仕事の最中がございます。ですから、今お会いできるか、後ほどがよいかを、まず確かめます」
「父上にも、都合があるのか」
言ってから、徳ははっとした。
あるに決まっている。
父上は、城で一番偉いのだ。
清洲の殿だ。
家臣たちが集まり、文を読み、話をし、決めることがたくさんある。
それなのに徳は、今までそんなことを考えたことがなかった。
父上は父上で。
父上は徳の父上で。
会いたいと言えば、会えるものだと思っていた。
「……妾は、父上のお邪魔をしていたのか」
侍女は、すぐには答えなかった。
答えにくいのだろう。
徳にも、それくらいは分かった。
「よい」
徳は言った。
「嘘は、いらぬ」
侍女は、少しだけ目を伏せた。
「お邪魔、とまでは申しませぬ」
「でも、困ったことはあったのじゃな」
侍女は、さらに深く頭を下げた。
「困ることは、ございました」
徳の胸が、ぎゅっと痛んだ。
やはり。
やはり、そうだった。
徳が父上に会いたいと言えば、誰かが走った。
徳が嫌だと言えば、誰かが困った。
徳が怒れば、誰かが震えた。
藤の方の言葉は、本当だった。
「妾は」
徳は、小さく言った。
「そなたたちを、たくさん困らせていたのか」
侍女は顔を上げなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
徳は、膝の上の手をぎゅっと握った。
痛い。
頬ではなく、胸が痛い。
犬叔母上を傷つけたこと。
紫乃を怖がらせたこと。
冬を泣かせたこと。
帰蝶様を困らせたこと。
藤の方に叱らせたこと。
それだけではなかった。
もっと前から。
徳は、たくさんの人を困らせていた。
「……知らなかった」
徳の声は、震えていた。
「知らなかったのじゃ」
侍女が、そっと顔を上げた。
「徳姫様」
「知ろうとしなかった」
藤の方なら、きっとそう言う。
知らなかっただけなら、これから知ればよい。
でも、知ろうとしなかったことは、考えねばならない。
徳は、涙が出そうになるのをこらえた。
泣けば、また誰かが困る。
そう思った。
けれど、少し違う気もした。
泣くことが悪いのではない。
怒ることが悪いのでもない。
物を投げることが悪いのだ。
人を傷つけることが悪いのだ。
藤の方は、そう言っていた。
徳は袖で目元を押さえた。
泣いてもよい。
でも、泣きながら人を困らせてはいけない。
それが、とても難しいことのように思えた。
「では」
徳は、ゆっくりと顔を上げた。
「父上にお会いしたいので、お時間を頂けませぬか、と」
言いながら、自分の言葉を確かめる。
「徳からの伝言を、父上に伝えてくれ」
侍女は、驚いたように徳を見た。
それから、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
徳は、少しだけ息を吐いた。
胸がどきどきしている。
ただ伝えただけなのに。
いつもより、ずっと難しかった。
「それから」
徳は、侍女を見た。
「もし父上が今はならぬとおっしゃったら、待つ」
侍女の目が、また少し大きくなった。
「はい」
「待つ。怒らぬ」
「はい」
「……たぶん」
そう付け加えると、侍女が一瞬だけ目を瞬いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「はい。その時は、私どももお待ちするお手伝いをいたします」
徳は、侍女のその笑みを見た。
昨日までは、あまり見たことのない顔だった。
怯えた顔。
困った顔。
慌てた顔。
そういうものは、よく見た気がする。
けれど、今のように、少しだけ安心したような笑顔は、あまり見ていなかった。
いいえ。
見ていなかったのは、徳の方なのかもしれない。
徳は、また胸が痛くなった。
「そなた」
「はい」
「名は」
侍女が、はっとしたように顔を上げる。
徳は、そこで気づいた。
自分は、この侍女の名を知らなかった。
毎日そばにいる。
水を運び、着替えを整え、髪を結い、泣けば布を差し出し、怒れば慌てて周りへ知らせる。
それなのに。
名を知らない。
「……妾は、そなたの名も知らぬのか」
侍女は、少しだけ困ったように微笑んだ。
「お知りになる必要は、ございませんでしたから」
その言葉は、責めるものではなかった。
けれど、徳には刺さった。
必要がなかった。
徳にとって、この侍女は、名を呼ぶ相手ではなかった。
命じれば動く者。
泣けば来る者。
怒れば下がる者。
そう扱っていたのだ。
藤の方の言葉が、また胸の奥で響く。
姫君のお言葉は、人を動かします。
徳は、唇を噛んだ。
「知りたい」
侍女が、目を見開いた。
「そなたの名を、知りたい」
侍女は、少しだけ震える声で答えた。
「……八重にございます」
「八重」
徳は、その名を口にした。
呼ぶだけで、少し不思議な気がした。
今まで、ただそこにいると思っていた者に、名があった。
当たり前のことなのに。
当たり前だと、思っていなかった。
「八重」
「はい」
「八重は、どこの者じゃ」
八重の目が、わずかに揺れた。
徳は、そこでまた気づいた。
名だけではない。
この者にも、家がある。
父母がいる。
祖父母がいる。
徳が知らなかっただけで、八重はどこかの家の娘なのだ。
八重は、少しだけ姿勢を正した。
「平手の家に連なる者にございます」
「平手」
徳は、その名を繰り返した。
聞いたことがある。
父上の口から。
帰蝶様の口から。
古くから織田に仕えた家。
父上が、時折、難しい顔で名を出される家。
「中務様の縁者か」
「孫筋にございます」
徳は、息を呑んだ。
平手。
父上のそばに、昔からあった名。
織田のために働き、父上を支えた者の名。
その家に連なる娘が。
毎日、徳のそばで水を運び、髪を結い、布を差し出していた。
徳は、何も知らなかった。
知らぬまま、命じていた。
「……平手の孫であったのか」
「はい」
八重は静かに頭を下げた。
「祖父の縁で徳姫様にお仕えするよう、仰せつかっております」
「父上が?」
「奥向きのことは帰蝶様のお差配もございます。けれど、徳姫様のおそばに置いていただけることは、我が家にとっても誉れにございます」
誉れ。
その言葉に、徳は胸がきゅっとした。
徳は今まで、八重を誉れある役目につく者として見ていなかった。
ただ、そばにいる者だと思っていた。
命じれば動く者だと思っていた。
平手の家に連なる娘。
父上が名を知る家の娘。
その八重を、自分は困らせていた。
走らせていた。
怯えさせていた。
徳は、唇を噛んだ。
「八重」
「はい」
「妾は、そなたを困らせてばかりであったな」
八重は、すぐには答えなかった。
徳は続けた。
「昨日、藤の方に言われた。妾の言葉は、人を動かすと」
八重は、静かに聞いている。
「八重にも、家があったのじゃな。名があったのじゃな。平手の孫であったのじゃな」
「徳姫様」
「妾は、それを知らずに、命じていた」
徳の目に、また涙が浮かんだ。
「ごめんなさい」
八重の顔が、はっきりと揺れた。
「徳姫様」
「昨日、藤の方が言った。間違えたら、謝るのだと」
徳は袖で目を拭った。
「妾は、まだ何をどれだけ間違えたのか、全部は分からぬ。けれど、八重をたくさん困らせたことは分かる。だから、ごめんなさい」
八重は、深く頭を下げた。
その肩が、ほんの少し震えているように見えた。
「……もったいなきお言葉にございます」
「もったいなくはない」
徳は、首を横に振った。
「悪いことをしたから、謝ったのじゃ」
八重は顔を上げた。
その目は少し赤かった。
「徳姫様」
「はい」
徳は、思わず返事をした。
返事をしてから、自分で少し驚いた。
八重が、ほんの少しだけ笑った。
「父上への伝言を、頼む」
徳は改めて言った。
八重は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
今度の承知は、昨日までと少し違って聞こえた。
徳は、その背が下がっていくのを見送った。
走ってはいない。
急いではいるが、乱れてはいない。
きっと、父上のところへ行くまでに、何人もの者へ声をかけるのだろう。
信長様がお手すきか。
徳姫様がお目通りを願っておられる。
お時間を頂きたいと。
そうやって、徳の言葉は、八重の足で運ばれていく。
徳は、部屋に一人残され、膝の上の手を見た。
父上に会いたい。
藤の方に会いたい。
犬叔母上が大丈夫か知りたい。
冬にも、もう一度謝りたい。
思うことは、たくさんある。
けれど。
その一つ一つで、人が動く。
徳は、初めてそれを知った。
いや。
藤の方に教えられて、ようやく見たのだ。
自分の言葉が、どれほど人を動かしていたのか。
自分の癇癪が、どれほど人を困らせていたのか。
そばにいる者にも、名があること。
家があること。
祖父がいて、父母がいて、仕える理由があること。
それを、今まで知らずにいたこと。
父上の姫だから。
そう思っていた。
けれど、父上の姫だからこそ、知らねばならなかったのだ。
徳は、袖で目元を押さえた。
頬は、もうあまり痛くない。
けれど、その奥に残ったものは、まだ痛かった。
きっと、この痛みは忘れてはいけない。
徳は、そう思った。
そして、部屋の中で静かに待った。
父上からの返事を。
八重が戻ってくるのを。
初めて、自分が命じた後に誰かが動いている時間を、考えながら待った。




