第十話 吉法師様の頃を思い出します
平手政秀は、隠居という言葉を何度呑み込んだか分からなかった。
本来なら、とっくに退くか、腹を切っていてもおかしくなかった老骨である。
けれど、この織田家では、まだ死ぬ暇も隠居する暇も与えられていない。
数年前までは、いつ織田家が割れるかと心配し続けた。
その心労で何度も命が縮む思いをしたが、幸いにも、こうして老骨はまだ織田家に残っている。
しかし、今は三郎様も、勘十郎様も、互いの足らぬ部分を補い合い、前に進み続けている。
儂のような老骨は隠居。
もう、よいではないか。
そう思う日がないわけではない。
年も重ねた。
若い頃のようには身体も動かぬ。
かつて吉法師様と呼ばれていた三郎様は、今や尾張を動かす殿である。
勘十郎様も生きておられる。
兄弟で争う最悪の道は避けられた。
織田の家は、危ういながらも、前へ進んでいる。
ならば、そろそろ隠居してもよいのではないか。
そう思う。
思うのだが。
現実は、まるでそうさせてくれなかった。
「お祖父様」
朝から、奥の侍女がひどく慎重な顔でやって来た。
平手は、その声だけで顔を上げた。
八重だった。
己の孫娘である。
「務めの場では、そう呼ぶなと申しておろう」
平手が低く言うと、八重ははっとして頭を下げた。
「申し訳ございません、平手様」
「よい。して、何があった」
八重は、徳姫様付きの侍女として奥に上がっている。
そうなるよう願い出たのは、ほかでもない平手自身だった。
徳姫様のご気性は、早くから気にかかっていた。
賢く、気が強く、父君に似て人を動かす力を持っている。
だが、まだ幼い。
幼いまま、三郎様の姫という立場だけを振りかざせば、いずれ奥を乱す。
そう思った平手は、帰蝶様に願い出た。
どうか、八重を徳姫様のおそばに置いていただきたい、と。
平手の家に連なる娘ならば、奥の者たちも扱いに困らぬ。
何より、八重なら逃げぬ。
そう思った。
だが、それは同時に、孫娘に難しい役目を背負わせるということでもあった。
八重は、昨日より少し目元を赤くしていた。
それでも、姿勢は崩していない。
奥向きの侍女として、きちんと膝をつき、頭を下げている。
ただの取次ではない。
何かあった顔だ。
いや、何かあったのは昨日から分かっている。
徳姫様の癇癪。
犬姫様の転倒。
柴田の藤の方が徳姫様の頬を打ったこと。
清洲の中は、その話で持ちきりだった。
平手の耳にも当然入っている。
そして、それを聞いた時、平手は深く息を吐いた。
ついに、そこまで行ったか。
そう思った。
徳姫様は、賢い。
気が強い。
父君に似て、言葉も鋭い。
だが、幼い。
幼く、寂しがりで、父の名の重さをまだ知らぬ。
周りの者は三郎様の姫として気を遣う。
吉乃殿は病がちで、徳姫様が泣いても、以前のようにすぐ抱き上げられぬ日が増えた。
帰蝶様は正室として見守っている。
だが、実母ではないという遠慮がある。
そうしているうちに、徳姫様の声は大きくなった。
人を動かすことを覚えた。
けれど、人を動かす責をまだ知らなかった。
誰かが止めねばならぬ。
そう思っていた。
まさか、藤の方が平手打ちで止めるとは思わなかったが。
「徳姫様より、殿への御目通りのお取次ぎを願いたいとのことでございます」
八重が言った。
平手は目を細めた。
「徳姫様が?」
「はい」
「御前へ、今すぐ向かわれたのではなく?」
「はい」
八重の声が、ほんの少し震えた。
「徳姫様は、三郎様がお手すきか確認し、お会いするお時間を頂きたいと、徳からの伝言をお伝えしてくれ、と仰せでございました」
平手は、しばらく黙った。
聞き間違いではないかと思った。
徳姫様が。
お手すきか確認せよ、と。
時間を頂きたい、と。
「徳姫様は、今どちらに」
「お部屋でお待ちにございます」
「待っておられるのか」
「はい」
八重の声には、驚きと、安堵と、ほんの少しの泣きそうな響きがあった。
平手は、その顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。
この孫娘は、昨日までどれほど困っていたのか。
どれほど徳姫様の声に振り回され、それでも役目として耐えていたのか。
平手は、それを知っていた。
知っていて、八重を置いた。
だからこそ、この変化を無駄にしてはならない。
「八重」
「はい」
「徳姫様は、そなたの名を呼ばれたか」
八重の目が、わずかに揺れた。
それだけで、答えは分かった。
「……はい」
「そうか」
平手は、短く息を吐いた。
徳姫様が、八重の名を呼んだ。
ただの侍女としてではなく。
命じれば動く者としてではなく。
名のある一人として。
それは、小さなことではない。
奥で人を動かす姫君にとっては、なおさらだ。
「よく伝えてくれた」
平手が言うと、八重は深く頭を下げた。
「お願いいたします」
その所作は、いつもより丁寧だった。
いや。
徳姫様が変わろうとしていることを、無駄にしたくないのだろう。
平手は、その気持ちが痛いほど分かった。
殿の部屋へ向かうと、三郎様はすでに政務についていた。
文を広げ、いくつかの報告を聞いている。
相変わらず、朝から目が鋭い。
だが、平手を見ると、口元に笑みが浮かんだ。
「爺。朝から難しい顔だな」
「殿の御前へ上がる時は、たいてい難しい顔になります」
「それは儂のせいか」
「他に何がございます」
三郎様は声を立てて笑った。
周囲の者が、少しだけ肩の力を抜く。
だが、平手は笑わなかった。
「殿。徳姫様より、お取次にございます」
三郎様の目が、すっと細くなった。
「徳が?」
「はい」
「今度は何を騒いだ」
「騒いでおられませぬ」
三郎様の眉が、わずかに動く。
「ほう」
「三郎様がお手すきか確認し、お会いするお時間を頂きたいと、徳からの伝言を伝えてくれ、とのことでございます」
部屋の中が、一瞬静かになった。
三郎様も、すぐには笑わなかった。
それから、ゆっくりと口元を上げた。
「ほう。徳が確認を覚えたか」
面白そうな声だった。
けれど、その奥に少しだけ驚きがある。
平手は、静かに頷いた。
「部屋で待っておられるそうにございます」
「待っておるのか」
「はい」
「はは」
三郎様は短く笑った。
「一晩で、随分と変わったものだ」
「変わったのではございませぬ」
平手は言った。
「変わる入口に立たれただけにございます」
三郎様は、平手を見た。
「厳しいな、爺」
「入口に立っただけで褒めすぎれば、また転びます」
「それもそうだ」
三郎様は楽しげに頷いた。
平手は、少しだけ目を伏せた。
「徳姫様は、吉法師様の頃を思い出します」
三郎様の笑みが、深くなった。
「なんだ、爺。まだ姫な分、可愛かろう?」
「養育する儂の身にもなってくださいませ」
平手は、心からそう言った。
「儂は、もう隠居しようとしていたのです。それを、まさか姫君の養育係のような真似までさせられるとは」
「お前ほど癇癪持ちの扱いに慣れた者はおらぬ」
「その癇癪持ちの筆頭であられた方が、それを仰いますか」
「儂で鍛えられただろう」
「鍛えられたというより、寿命を削られました」
三郎様は、実に楽しそうに笑った。
平手は、笑えなかった。
笑えないが、どこか懐かしくもあった。
吉法師様。
かつて、そう呼ばれていた子。
奇妙な格好をし、周りを困らせ、誰の言うことも聞かず、それでいて誰よりも物を見ていた子。
あの頃の三郎様を知っているからこそ、平手には徳姫様の危うさが分かる。
気性が激しい。
頭が回る。
自分の言葉で人が動くことを覚えるのが早い。
だが、幼いままそれを持てば、人を傷つける。
昨日のように。
「徳姫様は、殿に似ておられます」
平手は言った。
「よいところも、悪いところも」
「悪いところなどあるか」
「ございます」
即答した。
三郎様は、また笑った。
「ならば、どう育てる」
「奥を回す者に学ばせるべきにございます」
平手は言った。
「徳姫様に必要なのは、ただ強く言うことではございません。誰に命じれば、誰が動くのか。何を言えば、誰が傷つくのか。どこで待ち、どこで引き、どこで礼を尽くすのか。それを覚えねばなりませぬ」
「兵法だな」
「奥の兵法にございます」
三郎様の目が、面白そうに光った。
「徳は、いずれ松平へ嫁がせる」
平手は頷いた。
「はい」
「松平は戦乱の多い家だ。あの娘には、兵法を覚えさすべきだ」
「戦場の兵法ばかり覚えても、奥は回りませぬ」
平手は、はっきり言った。
「姫君が嫁いだ先で動かすのは、槍だけではございません。侍女、女房衆、台所、薬、産、客、文、使者。奥が乱れれば、家も乱れます」
三郎様は、黙って聞いていた。
「徳姫様は、殿の御名を振り回すことを覚えかけておられました。昨日、藤の方様に叱られ、ようやくその重さに触れた。ならば今、教えねばなりませぬ」
「お藤は、よく叱った」
「はい」
平手は、そこは認めた。
「ただし、あれは藤の方様一人に背負わせることではございませぬ」
三郎様の目が、少し細くなる。
「帰蝶か」
「帰蝶様にも、お辛いところがございましょう」
平手は慎重に言った。
「吉乃殿がお元気ならば、徳姫様にとって一番近い母は吉乃殿にございます。帰蝶様は正室。奥を預かる方。けれど、実母ではない。そこに、どうしても踏み込みきれぬところがあったのでございましょう」
「分かっておる」
三郎様は短く言った。
その声は、少しだけ低かった。
平手は、ちらりと三郎様を見た。
「それより、昨夜は帰蝶様とは」
三郎様の口元が、にやりと動いた。
「爺。お前も踏み込むな」
「殿ほどではございませぬ」
「まあ、分からん」
三郎様は肩をすくめた。
「だが、試してみるのも一興」
平手は、一瞬目を閉じた。
これは、何かあった。
間違いなく何かあった。
帰蝶様にとって良いことであればよいが、と平手は心の中で思った。
「殿」
「何だ」
「何でも一興で済ませようとなさるのは、ほどほどになさいませ」
「つまらぬことを言うな」
「つまらぬことを言う者が一人はおりませぬと、織田家は燃えます」
三郎様は、また声を立てて笑った。
その笑い声を聞きながら、平手は思う。
まったく。
この方は、幾つになっても吉法師様であられる。
だが、その吉法師様が尾張を動かしている。
ならば、自分はまだ隠居できぬのだろう。
腹立たしいことに。
「それで」
三郎様が文を畳んだ。
「徳はいつ来る」
「時間を整え、こちらよりお呼びする形がよろしいかと」
「ならば、半刻後だ」
「承知いたしました」
「いや」
三郎様は、ふと笑った。
「その侍女に、こう伝えよ。徳が静かに待てるなら、半刻後に会う。待てぬなら、明日に延ばすとな」
平手は、思わず眉を寄せた。
「試されますか」
「試す」
「幼い姫君でございます」
「だからだ」
三郎様は言った。
「待つことを覚えたなら、次は待ち切ることを覚えさせる」
平手は、しばし黙った。
確かに、それは必要だった。
昨日、徳姫様は痛みを知った。
今朝、確認を覚えた。
ならば次は、待つことを覚える。
人を動かす言葉には、待つ時間が伴うのだと。
「承知いたしました」
平手は頭を下げた。
八重へ伝えるよう、控えの者に命じた。
しばしの間、部屋には文をめくる音だけが戻った。
平手は、廊下の方を一度だけ見た。
半刻。
徳姫様は待てるだろうか。
途中で怒らぬだろうか。
やはり父上に会う、と飛び出してこぬだろうか。
そして八重は、そのそばでどう支えるだろうか。
孫娘に難しい役を背負わせたのは、自分だ。
そう思えば、知らぬ顔などできない。
平手は、胸の奥で深く息を吐いた。
隠居は、また遠のいた。
まったく。
織田家とは、どうしてこうも人を休ませてくれぬのか。




