第十一話 謝りに行くということ
儂――織田三郎信長は、徳が己に似て気の強い姫だと知っている。
まだ数え七つ。
けれど、儂に似て、言葉を覚えるのも、人の顔色を見るのも早い子だった。
だからこそ、一度教えれば理解できると思っておった。
半刻。
待てるか。
待てぬか。
それだけで、見えるものがある。
儂は文を読みながら、時折、廊下の方へ意識を向けていた。
徳が待っている。
そう聞いた時、まず思ったのは、面白い、だった。
昨日までの徳ならば、待たなかっただろう。
父上に会う。
父上に会わせよ。
今すぐに。
そう言って、奥の者たちを走らせ、己の足でも廊下を進んできただろう。
だが今日は違った。
徳は、八重を通して尋ねてきた。
父上はお手すきか。
お会いする時間を頂けるか。
徳からの伝言を伝えてほしい。
そう言ったらしい。
徳が。
あの徳が。
確認を覚えた。
ならば次は、待つことだ。
儂は平手に言わせた。
静かに待てるなら、半刻後に会う。
待てぬなら、明日に延ばす。
平手は渋い顔をした。
幼い姫君を試されますか、という顔である。
だが、幼いからこそ試す。
これは罰ではない。
待つことを覚えさせるための、父としての試しである。
怒りを持つなとは言わぬ。
会いたいと思うなとも言わぬ。
だが、己の願いで人を動かすなら、待つことも覚えねばならぬ。
人が走るには、時間が要る。
文が届くにも、返事が戻るにも、時間が要る。
姫の言葉で人を動かすなら、その間を待てねばならぬ。
徳には、それを知る必要があった。
半刻が過ぎた。
障子の向こうに、八重の声がした。
「徳姫様がお見えにございます」
儂は、筆を置かなかった。
「入れ」
障子が静かに開く。
徳が入ってきた。
昨日までなら、真っ先にこちらへ駆け寄ってきただろう。
だが今日は違う。
徳は入口のところで膝をつき、頭を下げた。
「父上」
声は、少し震えていた。
目元が赤い。
ずいぶん泣いたのだろう。
頬も少し腫れているように見えた。
お藤に打たれた頬だ。
儂は、それを見て、内心で息を吐いた。
痛かっただろう。
悔しかっただろう。
怖かっただろう。
だが、その痛みを覚えているうちに、覚えねばならぬことがある。
「待てたか」
儂は文を見たまま言った。
徳が一瞬、息を呑む気配がした。
「……はい」
「騒がなかったか」
「はい」
「八重を困らせなかったか」
徳が少しだけ言葉に詰まった。
「困らせては、いないと思います」
「思います、か」
「はい。まだ、よく分からないことがございます。ですから、困らせていたら教えてほしいと……八重に申しました」
儂は、そこでようやく顔を上げた。
徳は、膝の上で手を握っていた。
泣き腫らした目で、けれど逃げずにこちらを見ている。
ほう。
八重に教えを乞うたか。
昨日まで、名も知らなかった侍女に。
儂は、少しだけ口元を緩めた。
「ならば、一つ覚えたな」
徳の目が揺れる。
「一つ、でございますか」
「そうだ。一つだ」
儂は、文を脇へ置いた。
「何の用だ」
徳は背筋を伸ばした。
「お願いがあってまいりました」
「聞こう」
「柴田のお藤の方様に、もう一度会わせていただきたいのです」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
控えていた者たちも、わずかに息を潜める。
儂は徳を見た。
「何ゆえ」
徳は、少しだけ唇を噛んだ。
それから、はっきりと言った。
「謝りたいのです」
儂は、黙った。
謝ることも覚えたか。
いや、昨日、お藤に教えられたのだろう。
間違えたなら謝れ。
叱ることと、嫌うことは違う。
徳は、その言葉を拾った。
拾い、朝まで抱えて、ここへ持ってきた。
「犬叔母上には、昨日、謝りました」
徳は続けた。
「紫乃にも、冬にも謝りました。けれど、まだ足りませぬ。帰蝶様にも、犬叔母上にも、冬にも、もう一度謝らねばなりません」
「ほう」
「ですが、お藤の方様だけは、会う手段がございません」
徳は、膝の上で手を握った。
「お藤の方様は、柴田のお屋敷におられます。徳が勝手に行くことはできませぬ。呼びつけるのも……違うと思いました」
儂は、目を細めた。
「なぜ違う」
徳は少し考えた。
すぐには答えない。
それでよい。
考えろ。
「謝る相手だからです」
徳は言った。
「徳が謝りたいのに、お藤の方様をこちらへ呼ぶのは、また徳のために人を動かすことになると思いました」
部屋の中に、静かな驚きが広がった。
控えの者たちの気配が、わずかに変わる。
平手がいれば、また渋い顔で頷いたかもしれぬ。
儂は徳を見たまま、内心で笑った。
昨日の今日で、そこまで考えたか。
お藤。
お前は、どこまで徳の心に響かせた。
「ならば、どうする」
「徳が参ります」
即答だった。
「柴田のお屋敷へ参り、お藤の方様に謝ります」
「柴田邸は、儂の城ではない」
儂は言った。
「お前が行きたいと言って、すぐ行ける場所ではない」
「はい」
「権六の屋敷だ。お藤にも、お藤の都合がある。藤七丸も紫乃もおる。柴田の奥もある」
「はい」
「謝りたいからと言って、押しかければよいものではない」
徳は、深く頭を下げた。
「はい。ですから、父上にお願いにまいりました」
「儂に、何をしてほしい」
「お藤の方様に、お文を書いていただきたいのです」
徳の声は震えていた。
けれど、逃げなかった。
「徳が謝罪に伺いたいと。お時間を頂けるならば、伺わせてほしいと。父上から、お伝えいただきたいのです」
儂は、しばらく何も言わなかった。
面白い。
実に、面白い。
昨日まで父の名を振り回していた姫が、今日は父の名を借りる手順を覚えようとしている。
己の願いで誰かを動かすには、筋を通さねばならぬ。
それを、たった一晩で考えた。
いや。
考えざるを得ぬほど、お藤に打たれた言葉が効いたのだろう。
「徳」
「はい」
「お藤は、こちらが呼べばすぐ来る者ではない」
徳は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
「謝罪するというのなら、お前が行くしかない」
「はい」
「そこまでするか」
徳は顔を上げた。
「いたします」
迷いのない声だった。
「ならば、儂がお藤へ文を書く」
徳の顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます、父上!」
「礼はまだ早い」
儂が言うと、徳ははっとして口を閉じた。
「はい」
「権六にも伝えねばならぬ。お前が柴田邸へ行くとなれば、先触れもいる。供もいる。帰蝶にも話を通す。犬の具合も見てからだ」
「はい」
「それから」
儂は、徳をじっと見た。
「お前一人では行かせぬ」
徳が目を瞬いた。
「はい」
「お目付け役をつける」
「お目付け役、でございますか」
「そうだ」
儂は口元を緩めた。
「奇妙と坊丸をつける」
控えていた者たちの気配が、また動いた。
徳も驚いた顔をした。
「奇妙兄上と、坊丸様を?」
「そうだ。お前がまた非礼を働かぬか、二人に見張らせる」
徳の肩が、少しだけ強張った。
「徳は……そんなに、信用がございませんか」
「昨日、身重の犬に物を投げた」
徳の顔が、青ざめる。
儂は容赦せずに言った。
「紫乃にも当たりかけた。冬も怖がらせた。お藤に手を上げさせた。信じろと言う方が無理だ」
徳は、唇を噛んだ。
涙が浮かびかける。
だが、こぼれなかった。
「……はい」
「それでも行くか」
「はい」
今度も、答えは早かった。
「奇妙兄上にも、坊丸様にも、見ていただきます。徳が、きちんと謝れるか」
「ほう」
「もし、また間違えたら、その場で叱っていただきます」
儂は、思わず笑った。
「叱られることも覚えたか」
徳は、少しだけ目を伏せた。
「叱られることと、嫌われることは違うと……藤の方様が」
声が小さくなる。
「そう教えてくださいました」
お藤。
やはり、お前は面白い。
人の子を叱り、叱った後に捨てぬと言ったか。
それを徳は拾った。
ならば、この機を逃す手はない。
徳には、お藤をもう一度見せる。
謝罪のために。
そして、学ばせるために。
奇妙と坊丸にも見せる。
あの女が、何を見て、何を動かしているのかを。
米櫃の底を知る女。
腹を満たすことを知る女。
人を叱る時、怒りだけで終わらせぬ女。
守護の姫でありながら、米も布も薬も荷も見る女。
義銀と義冬を変えた女。
柴田権六を、あれほど柔らかくした女。
あれを、次の子らに見せておくのは悪くない。
「徳」
「はい」
「行くなら、ただ謝って帰るだけでは済まぬ」
徳が瞬きをする。
「何を見たか、帰ってから儂に話せ」
「何を、見たか」
「そうだ」
儂は言った。
「お藤が何をしておったか。柴田の屋敷がどう動いておったか。藤七丸と紫乃が何をしておったか。権六がどうしておったか。於光がどうしておったか。見てこい」
徳は、真剣な顔になった。
「はい」
「ただし、邪魔はするな」
「はい」
「勝手に命じるな」
「はい」
「分からぬことがあれば、まず尋ねよ」
徳は、少しだけ息を吸った。
「はい」
「よし」
儂は筆を取った。
「文を書く。そこで待て」
「はい」
徳は、その場で静かに座った。
本当に待つ。
少し前までなら、文を書いている間にも、何を書くのか、いつ行けるのか、早くしてほしいと口を出しただろう。
だが、今日は黙っている。
膝の上で手を握り、こちらを見ている。
待つことを覚えようとしている顔だった。
儂は文を書いた。
権六へ。
そして、お藤へ。
徳が謝罪に伺いたいと言っていること。
昨日のことについて、儂はお藤を咎めぬこと。
むしろ、止めるべきところを止めたと見ていること。
ただし、徳には謝罪をさせねばならぬこと。
都合がつくならば、奇妙丸と坊丸を伴わせ、柴田邸へ向かわせたいこと。
そう書いた。
お藤は、気を病むだろう。
権六は、眉間に皺を寄せるだろう。
だが、文があれば少しはましだ。
儂は文を畳み、封をさせた。
「これを先に届ける」
控えの者が頭を下げる。
徳がその文をじっと見た。
「徳も、文を書いた方がよろしいでしょうか」
儂は、徳を見る。
「書けるか」
「……字は、まだあまり上手ではございません」
「ならば、書けるだけ書け」
徳の目が丸くなる。
「よいのですか」
「謝るのだろう」
「はい」
「ならば、下手でもよい。己の手で書け。会って言う前に、文でも謝れ」
徳は、深く頭を下げた。
「はい」
よし。
文も覚える。
謝罪も覚える。
待つことも覚える。
これだけ覚えれば、昨日の平手打ちも無駄にはなるまい。
「父上」
「何だ」
「藤の方様は、徳に会ってくださるでしょうか」
その声は、幼かった。
昨日までの怒りに満ちた声ではない。
ただ、不安な子の声だった。
儂は、少しだけ考えた。
「お藤は、会うだろう」
徳の目が揺れる。
「本当でございますか」
「お藤は、叱った相手を見捨てる女ではない」
徳の顔が、また泣きそうに歪んだ。
「はい」
「だが」
儂は続けた。
「会ってもらえることと、許されることは同じではない」
徳は、息を呑んだ。
「謝れば、それですべて終わりではない。お前がどう変わるかを、これから見られる」
「はい」
「分かるか」
「……少しだけ」
「少しでよい。残りは覚えろ」
徳は、深く頭を下げた。
「はい、父上」
その所作は、まだ幼い。
ぎこちない。
だが、昨日よりはよい。
いや。
昨日までとは違う。
入口には立った。
あとは、転びながらでも歩かせるしかない。
「下がれ」
「はい」
徳は立ち上がり、もう一度深く頭を下げた。
「父上。お時間を頂き、ありがとうございました」
ほう。
礼まで言ったか。
儂は口元が緩むのを抑えなかった。
「下がれ。帰蝶にも顔を出せ。犬には、医師の許しが出てからだ。騒ぐなよ」
「はい」
「八重を困らせるな」
「はい」
「文を書くなら、八重に手伝わせてもよい。だが、言葉は自分で考えろ」
「はい」
徳は、もう一度頭を下げて部屋を出ていった。
障子が静かに閉じる。
廊下の向こうで、八重の小さな声が聞こえた。
徳姫様、こちらへ。
徳は、何か小さく返事をしたようだった。
部屋に静けさが戻る。
控えていた者たちは、どこか感心した顔をしていた。
口には出さぬ。
だが、皆、思っただろう。
徳姫様が、変わった。
藤の方は、もしや姫君の教育に向いているのではないか、と。
儂は内心で笑った。
お藤が聞いたら、青ざめるだろうな。
やめてください。
無理です。
胃が痛いです。
あの女なら、そう言うに違いない。
だが、向いているかどうかで言えば、向いている。
人を甘やかすだけではない。
叱るだけでもない。
腹を満たし、手を動かし、謝らせ、背負わせる。
そういう女は、そう多くない。
しばらくして、入れ替わるように障子の外から声がした。
「兄上」
勘十郎だった。
「入れ」
障子が開き、勘十郎が入ってくる。
「徳姫様と入れ替わりとは、何とも間が悪い」
「盗み聞きでもしておったか」
「まさか」
勘十郎は苦笑した。
それから、徳が下がった方へ視線を向ける。
「ただ、奇妙丸と坊丸を柴田邸へ向かわせると聞きまして」
「耳が早いな」
「兄上のなさることは、たいてい騒ぎになりますので」
「言うようになった」
儂が笑うと、勘十郎は少しだけ真面目な顔になった。
「兄上、もしや子供たちにお藤の方を見せるおつもりですか」
「まあ、そういうことだ」
儂は文を畳ませながら、口元を緩めた。
「子らが、化けるかもしれぬからな」
勘十郎は、少しだけ目を伏せた。
それから、静かに言った。
「すでに、義銀殿と義冬殿は充分化けられているかと」
その言葉に、儂は笑った。
たしかに。
守護の名に押し潰されかけていた若造と、兄の影に隠れていた弟は、今やそれぞれの足で立とうとしている。
義銀は、己の名で人と向き合うようになった。
義冬は、兄の後ろに隠れるだけの子ではなくなった。
その背に、あの忙しない女の手があったことは疑いようもない。
「ならば、なおさらだ」
儂は言った。
「奇妙にも、坊にも、徳にも見せておく。人の腹を満たすこと。人の手を動かすこと。怒りを止め、謝らせ、その後まで背負うこと」
勘十郎は、静かに頷いた。
「それは、確かに学ばせる価値がございます」
「だろう?」
「ただし、兄上」
「何だ」
「お藤の方が胃を痛められぬ程度になさいませ」
儂は声を立てて笑った。
それは無理だろう。
お藤は、どうせ胃を痛める。
権六も眉間に皺を寄せる。
だが、それでも。
あの女がまた、誰かの目を開かせるなら。
少しくらい、忙しくなってもよかろう。
「徳が謝りに行く」
儂は言った。
「そして、奇妙と坊が見る」
「はい」
「さて」
儂は、口元を緩めた。
「柴田の屋敷が、また騒がしくなるな」
勘十郎は、ため息をついた。
「兄上がなさっているのです」
「そうだったか」
「そうでございます」
儂は笑った。
織田の子らを、どこまで化けさせられるか。
徳は、入口に立った。
奇妙と坊も、いずれそれぞれの道へ立つ。
その時、あの忙しない女の視野を一度でも見ておくことは、きっと無駄にはならぬ。
儂は、文を運ぶ者の背を見送りながら思った。
お藤。
また少し、忙しくなるぞ。
そう心の中で告げると、なぜか権六の低い声が聞こえた気がした。
殿。
ほどほどになされよ、と。
儂は、また笑った。




