第十二話 拙い文
柴田邸へ戻った翌日。
私は、まだ少し胃が痛かった。
勝家様は、昨夜、私の手を冷やしてくださった。
そのまま横になれと言われ、泣くならそこで泣けとも言われた。
乱暴です。
本当に乱暴です。
けれど、その乱暴さに、どれほど救われたか分からない。
お前を捨てることはない。
そう言われた。
何度でも言う、とも。
その言葉を思い出すだけで、胸の奥が熱くなる。
けれど、それとこれとは別である。
信長様の姫君を叩いた事実は消えない。
徳姫様は、謝ってくださった。
犬姫様も紫乃も、徳姫様の謝罪を受けてくださった。
帰蝶様も、私を責めなかった。
勝家様も、私を捨てないと言ってくださった。
それでも、信長様から何も言われていない。
それが、怖い。
非常に怖い。
私は朝から、柴田邸の奥でいつも通りに動こうとしていた。
米の残りを確認する。
味噌の減りを見る。
布の洗い上がりを確認する。
薬の数を確かめる。
女中たちから、今日の使いの段取りと、足りぬ物を聞く。
紫乃が朝から藤七丸の木の棒を奪おうとしていたので、二人まとめて叱る。
藤七丸は不満そうな顔をし、紫乃は「でも、紫乃も、やりたい」と言った。
やりたいのは分かります。
けれど、その棒は兄上の稽古用です。
紫乃には紫乃用の小さい棒を用意してもらいなさい。
そう言うと、紫乃はしばらく考えた後、藤七丸を見た。
「兄上、かして?」
「だめ」
「じゃあ、紫乃の、つくる」
「そうしろ」
二人は、それで納得したらしい。
子どもは、揉める。
けれど、覚える。
叱れば泣く。
けれど、叱られた意味を少しずつ拾う。
徳姫様も、昨日、拾ってくださったのだろうか。
そう思った瞬間、胸がきゅっとした。
だめです。
今考えると、また胃が痛くなります。
まずは目の前のこと。
そう思っていたところへ、門の方が少し騒がしくなった。
嫌な予感がした。
私は、手にしていた布を畳んだまま動きを止める。
しばらくして、八右衛門殿が現れた。
その手には、文がある。
きちんと封じられた文。
そして、その封を見た瞬間、私は背筋が凍った。
織田家からの文である。
「藤乃様」
八右衛門殿の声は、いつもより少し慎重だった。
「清洲より、信長様の御文が届いております」
信長様。
私の胃が、ぎゅっと縮んだ。
「……勝家様は」
「すでにお呼びしております」
八右衛門殿は、そう言った。
早い。
さすが八右衛門殿。
こういう時、本当に手配が早い。
ありがたい。
ありがたいのですが、怖いものは怖い。
ほどなくして、勝家様が来られた。
いつものように大股で、けれど表情は硬い。
私を見ると、まず顔色を確かめるように目を向けた。
「お藤」
「はい」
「顔色が悪い」
「信長様から文が来たからです」
正直に答えると、勝家様は少しだけ眉を寄せた。
「読むぞ」
「はい」
私は、膝の上で手を握った。
昨日叩いた手は、まだ少し重い気がする。
勝家様は封を開き、文に目を通した。
私は息を止める。
八右衛門殿も、少し離れたところに控えた。
部屋の空気が、じわりと重くなる。
勝家様の目が、文の上を進んでいく。
その眉間の皺が、一度深くなった。
私は、ひゅっと息を吸いそうになった。
何ですか。
何が書いてあるのですか。
やはりお咎めでしょうか。
切腹ですか。
いいえ、さすがにそれはないと信じたいです。
けれど、蟄居。
謹慎。
柴田家の奥から出るな。
清洲へ上がるな。
そういうことは、あるかもしれない。
あばばばば。
心の中が、またそうなった。
勝家様は、最後まで読み終えると、低く息を吐いた。
「やはり、怒ってはおらぬ」
私は顔を上げた。
「……本当でございますか」
「うむ」
勝家様は文を見ながら言った。
「むしろ、止めるべきところを止めた、とある」
全身から力が抜けそうになった。
よかった。
よかったです。
本当に、よかった。
私はその場で崩れ落ちそうになるのを、何とか堪えた。
けれど、勝家様の顔は晴れていない。
むしろ、眉間の皺は深いままだった。
「勝家様?」
「ただし」
はい。
来ました。
ただし。
この言葉は怖い。
非常に怖い。
「殿は、徳姫様に謝罪をさせるおつもりだ」
「はい」
それは、分かる。
徳姫様が自分で謝りに来たいとおっしゃるなら、私はお迎えするべきだ。
怖いけれど。
胃は痛いけれど。
それは分かる。
「徳姫様が柴田邸へ参り、お前に謝りたいと申し出ておられるらしい」
「……徳姫様が、こちらへ」
「うむ」
私は、膝の上の手を握った。
徳姫様が。
自分から。
昨日、あれほど泣いていた姫君が、もう一度謝りたいと。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「それならば、お迎えしなければなりませんね」
そう言いかけたところで、勝家様がさらに文へ視線を落とした。
「奇妙丸様と坊丸様も、伴わせるとある」
私は固まった。
「……はい?」
勝家様は、もう一度文を見た。
「奇妙丸様と、坊丸様も伴わせるとある」
「な、何故」
声が裏返りそうになった。
「徳姫様までは、まだ分かります!」
分かります。
分かりますとも。
謝罪ですから。
徳姫様が謝りたいとおっしゃるなら、それはお迎えするべきです。
けれど。
「何故、奇妙様と坊丸様が、せっと……あ、いえ、ご一緒に!?」
危なかった。
せっと、と言いかけました。
いいえ、ほとんど言いました。
勝家様が、わずかに眉を動かした。
「せっと」
「忘れてください」
「分かった」
絶対に分かっていません。
勝家様は、文を畳みながら、低く言った。
「殿は、おそらく見せるおつもりなのだろう」
「何をでございますか」
「柴田邸を」
「柴田邸を?」
「お前を」
私は、さらに固まった。
「私を見せて、どうなさるのですか」
「徳姫様に謝罪をさせるだけでなく、奇妙丸様と坊丸様に、柴田家の奥を見せるおつもりだ」
「柴田家の奥を」
「うむ」
「……何故、柴田邸を見せる必要が?」
私が本気でそう言うと、部屋の空気が少し止まった。
勝家様が、こちらを見る。
八右衛門殿も、こちらを見る。
ちょうど知らせを受けて入ってこられた於光様まで、こちらを見る。
……何でしょうか。
その、何を言っているのですか、という顔は。
「藤乃様」
於光様が、静かに言った。
「本当に、お分かりにならないのですか」
「はい」
分かりません。
まったく分かりません。
私は柴田邸で、いつも通りに暮らしているだけである。
米の残りを見て、味噌の減りを見て、布の傷みを見て、薬の数を確かめ、子供たちを叱り、女中たちと相談し、八右衛門殿に帳面を見せてもらう。
それだけだ。
奇妙丸様や坊丸様にお見せするようなものなど、何もない。
「何故、皆様そのようなお顔をなさるのですか」
勝家様が、深く息を吐いた。
「お藤」
「はい」
「いつも通りでよい」
「いつも通り、でございますか」
「うむ」
勝家様は、呆れたように言った。
「いつも通り、帳簿を見ていればよい」
「帳簿を?」
「それだけで、奇妙丸様たちは学ばれる」
私は、目を瞬いた。
「……帳簿で、でございますか」
「そうだ」
勝家様は短く答えた。
「米がどれだけあり、味噌がどれだけ減り、布が何枚使われ、薬がどれだけ残っているか。誰が何を食い、誰が何を運び、どこへ何を回すか。お前は、いつもそれを見ている」
「それは、奥を預かる者として当然では」
「その当然を、学ばせるのだ」
勝家様は言った。
「殿は、そうお考えなのだろう」
私は、言葉を失った。
当然のこと。
毎日のこと。
米櫃の底を見て、足りぬものを数え、足りるように回すこと。
それを、学ぶものとして見られるなど、思ったこともなかった。
「……胃が痛いです」
「知っておる」
勝家様は、またため息を吐いた。
「だが、断るわけにはいかぬ」
「分かっております」
徳姫様が、自分から謝りたいとおっしゃっている。
それを断るのは、違う。
謝りたい気持ちを、こちらの恐れで折ってはいけない。
それは分かっている。
分かっているのですが。
「奇妙丸様と坊丸様も、となると、こちらも支度が要ります」
「姉上」
勝家様が言うと、於光様はすぐに頷いた。
「茶の支度はこちらで見ます。御子方にも口にしやすいものを用意しましょう」
「八右衛門」
「はい」
八右衛門殿が静かに頭を下げる。
「座の整え、道の掃除、台所の手配、女中の配置。すぐに取りかかります」
さすがです。
本当にさすがです。
「それから、藤七丸様と紫乃様にも、お話ししておく必要がございます」
「そうですね」
紫乃は、きっと徳姫様を見ると少し怯える。
昨日、香合が飛んできた。
犬姫様が庇ってくださった。
その記憶は、小さな身体に残っているはずだ。
藤七丸は、紫乃の前に立っていた。
あの子もまた、何かを感じたはずだ。
徳姫様を迎えるなら、藤七丸と紫乃にもきちんと話さなければならない。
謝りに来ること。
その謝罪を聞くこと。
怖ければ無理に近くへ行かなくてよいこと。
けれど、謝る人を笑ってはいけないこと。
許すかどうかは、急がなくてよいこと。
考えることは、山ほどある。
私は、頭の中で必要なことを並べ始めた。
その時だった。
外から、また足音がした。
今度は少し慌ただしい。
八右衛門殿が顔を向ける。
侍女が障子の外で膝をついた。
「清洲より、もう一通、文が届いております」
「もう一通?」
私と勝家様は、同時に声を出した。
侍女が、文を差し出す。
先ほどの信長様の文とは違う。
小さな文だった。
封も、どこかぎこちない。
八右衛門殿がそれを受け取り、私へ差し出す。
「藤乃様宛てにございます」
「私に?」
胸がどきりとした。
私は文を受け取った。
封を開く手が、少し震える。
勝家様が、静かに見ている。
開いた紙には、拙い字が並んでいた。
一文字、一文字。
大きさも揃っていない。
墨の濃さも違う。
ところどころ、線が震えている。
けれど。
必死に書いたのだと、ひと目で分かった。
私は、息を呑んだ。
そこには、こう書かれていた。
『せんじつは、もうしわけございませんでした。
父うえにおねがいして、あやまりにうかがいたいです。
とく』
私は、しばらく何も言えなかった。
ただ、その拙い字を見ていた。
もうしわけございませんでした。
あやまりにうかがいたいです。
小さな姫君が、きっと何度も筆を止めながら書いたのだろう。
字がうまく書けない。
言葉が分からない。
どう書けばよいのか、誰かに聞いたかもしれない。
けれど、文の言葉はきっと徳姫様自身のものだ。
父上にお願いして。
呼びつけるのではなく。
自分が伺いたいと。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
私は、文を持つ手に力を入れないよう気をつけた。
「……徳姫様が」
声が、少し震えた。
「ご自分で、書いてくださったのですね」
勝家様は、私の横から文を見た。
その表情が、少しだけ和らぐ。
「拙いが、よく書いてある」
「はい」
私は、目元が熱くなるのを感じた。
昨日、徳姫様は泣いていた。
怒りではなく、怖さで。
嫌われたくないと。
見捨てられたくないと。
小さな声でそう尋ねた。
私は、嫌いになりませんと言った。
その言葉を、徳姫様は覚えていてくださったのだろうか。
だから、もう一度会いたいと思ってくださったのだろうか。
謝りに来たいと。
自分の手で、拙い文を書いて。
「勝家様」
「何だ」
「私、また泣きそうです」
「泣けばよい」
「今は泣いている場合ではありません」
「ならば、後で泣け」
相変わらず乱暴です。
けれど、その乱暴さに、少しだけ笑いそうになった。
私は文を丁寧に畳んだ。
その時、勝家様が静かに言った。
「徳姫様の母上、吉乃様は、近頃、ご体調がすぐれぬ」
私は、顔を上げた。
「吉乃様が」
「うむ」
勝家様は、少しだけ眉を寄せる。
「表へ出られぬ日が増えておると聞く。徳姫様が荒れていたのも、そのせいが大きいのだろう」
「……そうでしたか」
私は、徳姫様の顔を思い出した。
お父様は、私の父上です。
私だけのお父様です。
そう叫んだ顔。
あれは、ただの我儘ではなかった。
父を取られたくない。
母に甘えられない。
誰かに見捨てられたくない。
そういう幼い不安が、癇癪になっていたのだ。
「子どもは、親に左右されますね」
私は、小さく言った。
勝家様は、黙って聞いていた。
「母が病なら、不安になる。父が忙しければ、もっと見てほしくなる。叱ってくれる人がいなければ、どこまでしてよいか分からなくなる」
徳姫様は、信長様の姫だ。
けれど、その前に、まだ幼い子どもなのだ。
数え七つ。
藤七丸より一つ上なだけ。
紫乃より三つ上なだけ。
大人が思うより、ずっと幼い。
「私、昨日、徳姫様を叩きました」
「うむ」
「必要だったと思います」
「うむ」
「でも、それだけでは足りませんね」
勝家様が、私を見る。
私は、畳の上に置いた徳姫様の文へ視線を落とした。
拙い字。
震える線。
それでも、自分で書いた謝罪。
「叱ったなら、その後も見なければ」
勝家様は、静かに頷いた。
「そうだな」
「謝りに来るなら、お迎えしましょう」
「うむ」
「徳姫様を」
私は、一度息を吸った。
「奇妙丸様と、坊丸様も」
胃が痛い。
非常に痛い。
けれど、もう逃げるわけにはいかない。
徳姫様が自分で書いた。
父上にお願いして、謝りに伺いたいと。
ならば、私も向き合わねばならない。
「八右衛門殿」
「はい」
「支度をお願いします。徳姫様が謝りにいらっしゃいます。奇妙丸様と坊丸様もご一緒です。子どもたちにも、あとで私から話します」
「承知いたしました」
八右衛門殿は深く頭を下げる。
その目は、どこか柔らかかった。
「於光様」
「はい」
「お茶と菓子は、子どもでも食べやすいものを。あまり堅苦しくしすぎず、けれど失礼のないように」
「承知いたしました」
「藤七丸と紫乃が怖がった時のために、すぐ下がれる部屋も用意してください」
「ええ。整えておきます」
言葉にしていくと、不思議と少し落ち着いた。
やることがある。
そう思うと、動ける。
怖くても。
胃が痛くても。
忙しくても。
私は、やることを一つずつ並べれば動ける。
勝家様が、そんな私を見ていた。
「お藤」
「はい」
「無理はするな」
「します」
「お藤」
「いえ、違います」
私は慌てて首を振った。
「無理ではなく、必要なことをします」
勝家様は、じっと私を見た。
「ならば、某も見る」
「はい」
「お前一人で背負うな」
「……はい」
昨日の言葉が、胸に戻ってきた。
一人で背負うな。
某も背負う。
夫だ。
私は、少しだけ笑った。
「勝家様」
「何だ」
「ありがとうございます」
勝家様は、少しだけ視線を逸らした。
「礼を言われることではない」
「いいえ。言わせてください」
勝家様は、何も言わなかった。
その沈黙が、少しだけ照れているように見えて、私はまた泣きそうになった。
いけません。
今は支度です。
泣くのは後です。
私は、徳姫様の拙い文をもう一度そっと開いた。
せんじつは、もうしわけございませんでした。
父うえにおねがいして、あやまりにうかがいたいです。
とく
拙い。
けれど、まっすぐな文だった。
私は、その文を胸元へそっと寄せた。
「三人を、お迎えしましょう」
そう言うと、勝家様は静かに頷いた。
「うむ」
外では、柴田邸の者たちが動き始めている。
茶を用意する者。
部屋を整える者。
子どもたちの支度をする者。
於光様の指示を受けに走る者。
八右衛門殿が帳面を開き、女中たちが静かに動く。
また、忙しくなる。
本当に、忙しない。
けれど、今度の忙しさは、少しだけ違っていた。
叱った後の、忙しさだ。
謝ろうとする子を迎えるための、忙しさだ。
そして、米櫃の底を知らぬ姫君たちに、米櫃の底を見せるための忙しさなのかもしれない。
私は、徳姫様の拙い文を大切に畳みながら、もう一度深く息を吸った。




