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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第五章 鬼柴田の妻と米櫃の底を知らぬ姫

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第四話 藤の方様秘伝ではございません


医師が来た。


産婆も来た。


それだけで、部屋の空気が少しだけ動いた。


犬姫様は、侍女に支えられながら横になっている。


こめかみには布が当てられていた。


顔色はまだ悪い。


けれど、意識はある。


それだけで、どれほど胸を撫で下ろしたか分からない。


帰蝶様は犬姫様のそばに座っていた。


背筋は伸びている。


声も乱れていない。


けれど、その指先は、膝の上でほんの少しだけ強張っていた。


琴は水と布を受け取り、産婆の指示に従って動いている。


先ほどまで泣いていた徳姫様は、冬姫様と並んで部屋の隅に座っていた。


膝の上で手を握りしめ、犬姫様の方をじっと見ている。


騒がない。


立ち上がらない。


泣き声を噛み殺しながら、必死に静かにしている。


先ほど、私が言ったからだ。


犬姫様が休めるように。


声を荒げない。


怖がらせない。


できることを、一つずつする。


徳姫様は、その言葉を守ろうとしていた。


幼い。


まだまだ幼い。


けれど、先ほどまでの徳姫様とは、もう少し違って見えた。


藤七丸は、紫乃の手を握っている。


紫乃は、よく分かっていないながらも、兄の横で大人しく座っていた。


ときどき犬姫様を見て、心配そうに眉を寄せる。


「犬姫様、いたい?」


小さな声で紫乃が言う。


私は紫乃の頭を撫でた。


「今は、医師殿と産婆殿が診てくださっています。静かに待ちましょう」


「はい」


紫乃は、小さく頷いた。


医師は犬姫様のこめかみを確かめ、脈を見た。


産婆は犬姫様の腹の様子を慎重に確かめる。


腹の張り。


痛み。


血の気配。


犬姫様の表情。


一つずつ確かめていく。


部屋の中にいる誰もが、息を潜めていた。


徳姫様は、唇を噛みしめている。


冬姫様は、その袖をそっと握っていた。


やがて、医師が静かに息を吐いた。


「大きな障りは、今のところ見えませぬ」


その言葉に、部屋の空気が一気に緩んだ。


犬姫様も、目を閉じて息を吐く。


帰蝶様の肩からも、ほんの少し力が抜けた。


私も、膝の上で握りしめていた手をほどいた。


よかった。


本当に、よかった。


「ただし、数日は安静になさいませ」


医師は続けた。


「頭を打っておられます。腹にも力が入ったはず。無理をしてはなりませぬ」


「はい」


犬姫様が、小さく答える。


「腹が強く張る。痛みが増す。血の気配がある。そうした時は、すぐに知らせていただきたい」


「承知いたしました」


帰蝶様が答えた。


医師は頷き、それからこちらを見た。


「……と、申し上げたいところですが」


そこで、なぜか私を見た。


「藤の方様がいらっしゃるならば、養生の心得については、すでに十分お分かりでございましょう」


私は、瞬きをした。


「……はい?」


思わず、間の抜けた声が出た。


医師は、当然のような顔をしている。


産婆も、なぜか頷いている。


帰蝶様は、少しだけ目を細めた。


琴は、何かを察したように口元を押さえた。


「いえ、医師殿」


私は首を傾げる。


「私がいても、医師殿のお力は必要でございますが」


「もちろん、怪我や病は私どもの役目にございます」


医師は真面目な顔で頷いた。


「ですが、懐妊中の養生、産の支度、食の整え、息の合わせ方につきましては、藤の方様の心得が広まっておりますゆえ」


「……私の心得?」


何ですか、それは。


私は、まったく聞き覚えのない言葉に固まった。


医師は、少し意外そうな顔をした。


「ご存じありませんでしたか」


「はい」


即答した。


知りません。


まったく知りません。


「藤の方様が木下殿の奥方様へお伝えになった、懐妊前後の養生のことです」


医師は言った。


「身体を冷やさぬこと。月のものを記すこと。食を抜かぬこと。夫も酒を控え、過労を避けること。女だけを責めぬこと。懐妊した後は、急に動かさず、食べられる物を少しずつ与えること」


私は、口を開けたまま固まった。


それは。


たしかに。


寧々殿に話した。


話しました。


ええ、話しましたとも。


けれど、それは寧々殿が苦しんでいたからで。


藤吉郎殿が一人で変な方向に頑張っていたからで。


女だけのせいにするなとか、身体を冷やすなとか、食べられるものを食べろとか、そういう話をしただけで。


それが、なぜ。


尾張の医師の口から出てくるのでしょうか。


「それが、広まっているのですか」


私の声は震えていた。


医師は頷いた。


「木下殿の奥方様に良き知らせがあった後、子を望む家々の女房衆の間で話が広まりましてな」


「……広まりまして」


「はい。実際に、ここしばらくで良い知らせも数件ございました」


「数件」


まじで?


いや、いけません。


私は藤の方。


藤の方です。


まじで、などと声に出してはなりません。


けれど、心の中では完全にそう思っていた。


まじで?


「藤乃」


帰蝶様が、少しだけ笑みを含んだ声で言った。


「あなた、本当に知らなかったのですね」


「知りませんでした」


「でしょうね」


どういう意味でしょうか。


いえ、だいたい分かります。


私は自分がしたことを、だいたい後から知る女です。


よくない。


非常によくない。


産婆が、犬姫様の腹から手を離し、こちらへ向いた。


「ひ、ひ、ふう、の息合わせも助かっております」


私は、さらに固まった。


「……それも?」


「はい」


産婆は真剣な顔で頷いた。


「産の痛みが強くなると、息を止めてしまう方が多くいらっしゃいます。身体を固め、顔色を悪くし、ますます苦しくなる。そこで、藤の方様がなさったように、周りの者が声を合わせるのです」


「ひ、ひ、ふう、と?」


「はい。短く二つ、長く一つ。息を吐かせるには分かりやすい」


私は、遠い目になった。


あれは。


あれはですね。


正しい知識として広めようと思ったわけではないのです。


前世の記憶の端っこにあった、出産時の呼吸法のようなものを、怖さのあまり必死に口にしただけなのです。


藤七丸の時など、痛いし怖いし、息は乱れるし、しかも夜で真っ暗でした。


紫乃の時は、勝家様は外で熊のようにうろうろしているし、私は半分泣きながら叫んでいた。


「ひ、ひ、ふう、です! 息を止めないでください! 私も合わせます!」


などと、産婆にまで言っていた気がする。


言ったけれど。


それが。


産婆衆の間で、心得になっているとは。


「最近では、産婦の母君や姉君にも、あらかじめ教えることがございます」


産婆は誇らしげに言った。


「産む者だけが苦しむのではなく、周りも息を合わせる。怖がる産婦には、それだけでも違いますゆえ」


「……それは、よいことですね」


私は、ようやくそう言った。


心の中は、まだ混乱していた。


けれど、産婦が一人で怖がらずに済むのなら、それはよいことだ。


息を止めて真っ青になるよりは、ずっといい。


「はい」


産婆は頷いた。


「ですから犬姫様も、産の折はご安心ください。こちらで、ひ、ひ、ふう、と声を合わせまする」


犬姫様が、横になったまま少しだけ笑った。


「その時は、よろしくお願いいたします」


「お任せくださいませ」


産婆は、どこか頼もしい顔をしていた。


私は、また遠い目になった。


お任せくださいませ。


その頼もしさはありがたい。


ありがたいのですが。


私発祥なのですか。


本当に。


どうしてこうなったのでしょうか。


「それから」


医師が、さらに続けた。


嫌な予感がした。


「犬姫様には、しばらく藤の方様秘伝の、身重の方のための食と湯をお勧めいたします」


「秘伝?」


今度こそ、声が裏返りかけた。


秘伝。


秘伝とは何ですか。


私に、そのようなものはありません。


「食が進まぬ時には、乾かした柚の皮を湯に浮かべたものがよろしいでしょう」


医師は真面目な顔で言った。


「香りで胸のむかつきが和らぐ方もおられます。粥に少し加えてもよい。梅を少し使うのもよい。味噌湯を薄くして、少しずつ飲ませるのもよい」


待ってください。


それは。


「……それは、私の秘伝ではありません」


私は言った。


「勝家様が、用意してくださったものです」


部屋の空気が、少しだけ変わった。


犬姫様が、目を瞬く。


帰蝶様が、こちらを見る。


琴が、柔らかい顔になった。


「藤七丸の時、私はあまり食べられませんでした」


私は、少しだけ視線を落とした。


思い出す。


何を食べても気持ち悪い。


米の匂いがつらい。


魚も肉も重い。


けれど、食べなければ勝家様が心配する。


於光様も、八右衛門殿も、女中たちも、皆が心配する。


そんな中で、勝家様が屋敷中を巻き込んだ。


「食えるものを探せ」


ただ、それだけだった。


けれど、その一言で、柴田邸は大騒ぎになった。


柚を乾かしたもの。


薄い粥。


梅を少し入れた湯。


薄い味噌湯。


湯冷まし。


香りのきつくない汁。


食べられたものは帳面につけられ、食べられなかったものは次から外された。


勝家様は、不器用な顔で何度も聞いた。


「これは食えるか」


「無理なら、残せ」


「吐くなら言え」


言葉は無骨だった。


けれど、あの時の私は、どれほど救われただろう。


「勝家様が、食べられるものを探してくださっただけです」


私は言った。


「だから、秘伝などではございません」


犬姫様が、ふわりと笑った。


「まあ」


その声は、どこか楽しげだった。


「柴田殿は、お優しいのですね」


私は、頬が熱くなるのを感じた。


「……勝家様は、心配性でいらっしゃるだけです」


「それを、優しいと言うのではありませんか?」


犬姫様が、さらに笑う。


帰蝶様まで、ほんの少し口元を緩めた。


琴は、完全に笑っている。


「藤乃様」


「琴」


「勝家様らしいです」


「笑わないでください」


「笑っておりません」


嘘です。


完全に笑っています。


徳姫様と冬姫様は、きょとんとしていた。


徳姫様が、小さな声で尋ねる。


「食べられないと、困るの?」


私は徳姫様を見た。


徳姫様は、まだ目を赤くしている。


けれど、先ほどのように怒ってはいない。


本当に分からないから、聞いている顔だった。


「困ります」


私は答えた。


「腹の御子も、母も、力が要ります。けれど、食べられない時もあります」


「なぜ?」


「身体が変わるからです。匂いが嫌になることもあります。食べると気持ち悪くなることもあります」


徳姫様は、犬姫様を見た。


「犬叔母上も?」


犬姫様は、腹に手を当てて頷いた。


「少し、胸がむかむかすることはありますね」


徳姫様の顔が曇った。


「……では、柚の湯を飲むといいの?」


「飲めるなら、ですね」


私は言った。


「無理に飲ませてはいけません。犬姫様が飲めるものを、少しずつ探すのです」


徳姫様は、真剣な顔で頷いた。


「少しずつ」


「はい」


「無理に、しない」


「はい」


徳姫様は、小さく息を吸った。


そして、侍女の方を向いた。


「犬叔母上に、柚の湯を……」


言いかけて、はっと口を閉じた。


そのまま私を見る。


「……お願い、します?」


私は頷いた。


「よくできました」


徳姫様の顔が、泣きそうに歪む。


けれど、今度は泣かなかった。


侍女が静かに頭を下げる。


「承知いたしました」


冬姫様が、ほっとしたように笑った。


紫乃も、よく分からないまま笑う。


「柚、すき」


「紫乃はまだ飲みません」


藤七丸が小声で言う。


「ええ?」


紫乃が不満そうにする。


こんな時でも、子どもたちは子どもである。


そのことに、少しだけ救われた。


医師と産婆は、犬姫様へ改めて安静を告げた。


数日は清洲で休むこと。


頭を打っているので、強い痛みや吐き気があればすぐ知らせること。


腹が張る時は、無理に起き上がらぬこと。


食べられるものを少しずつ取ること。


身体を冷やさぬこと。


声を荒げる者を近づけぬこと。


最後の一つで、徳姫様がびくりと肩を震わせた。


けれど、医師は徳姫様を責めるようには見なかった。


ただ、淡々と続けた。


「産婦は、不安で腹が張ることもございます。周りが騒げば、なおさらです。静かな部屋、温かな布、飲める湯。それだけでも違います」


徳姫様は、膝の上で手を握りしめた。


「……はい」


小さな返事だった。


医師が帰った後、部屋には少しだけ穏やかな空気が戻った。


侍女が運んできた柚の湯は、湯気とともに淡い香りを立てていた。


乾かした柚の皮を湯に浮かべただけの、薄いものだ。


犬姫様はそれを少し口にして、ほっと息を吐いた。


「よい香りですね」


「飲めそうですか」


私が尋ねると、犬姫様は頷いた。


「はい。少しずつなら」


「それはよかったです」


徳姫様は、それをじっと見ていた。


犬姫様が湯を飲むたび、少しだけ安心した顔になる。


先ほどまで、徳姫様の癇癪は、周りを震えさせるだけだった。


けれど今は、犬姫様が何を飲めるか、何を嫌がるか、何をすればよいかを見ている。


それは、とても小さな変化だった。


けれど、小さくはない一歩だった。


帰蝶様は、その様子を静かに見ていた。


犬姫様を見ている。


徳姫様を見ている。


冬姫様を見ている。


紫乃と藤七丸を見ている。


そして、ほんの少しだけ、目を伏せた。


その顔を、私は見た。


琴も、見ていた。


犬姫様が腹の子を守られ、周囲に気遣われ、柚の湯を少しずつ飲んでいる。


徳姫様がそれを見て、何かを覚えようとしている。


それは、よいことだ。


とても、よいことだ。


けれど、帰蝶様の胸の奥には、きっと別の痛みもある。


子を宿した義妹。


子を叱ることに迷う自分。


祝いたい気持ちと、寂しさ。


そのすべてを、帰蝶様は静かに飲み込んでいる。


琴の指先が、膝の上で小さく動いた。


何かを言いたそうに。


けれど、まだ言わない。


まだ、その時ではないと分かっているのだろう。


私は、琴を見た。


琴は、私と目が合うと、ほんの少しだけ頭を下げた。


その目には、迷いがあった。


けれど、逃げる目ではなかった。


ああ。


この子は、気づいている。


帰蝶様の寂しさに。


犬姫様の喜びに。


徳姫様の幼さに。


そして、自分が何かを言わねばならぬ時が来るかもしれないことに。


私は、何も言わなかった。


言葉にするには、まだ早い。


今はただ、犬姫様を休ませること。


徳姫様を静かにさせること。


子どもたちを怯えさせないこと。


できることを、一つずつすること。


それが、今この場で私たちにできることだった。


「藤の方様」


犬姫様が、湯を手にしたまま私を見た。


「はい」


「佐治へ戻りましたら、この柚の湯の作り方を伝えてもよろしいでしょうか」


「もちろんでございます」


「それから、ひ、ひ、ふう、も」


「……それも、どうぞ」


もう、止められません。


止められる気がしません。


犬姫様は、嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます。佐治の者たちにも、きっと役に立ちます」


佐治。


知多の海。


船。


私は、ほんの少しだけその言葉を胸に留めた。


まだ、その意味を深く考えたわけではない。


けれど、犬姫様がこの日、尾張の産の心得と、食の養生を佐治へ持ち帰ろうとしていることだけは分かった。


人の命を守る知恵は、屋敷の奥だけに留まらない。


海の向こうへも、川筋へも、きっと広がっていく。


そんな予感がした。


そして私は、心の中で小さく呟いた。


勝家様。


あなたが私のために用意してくださった柚の湯が、なぜか佐治家へ渡ることになりそうです。


まじで?


本当に、まじで?


私は藤の方としての顔を保ちながら、ただ静かに、柚の香りの立つ湯気を見つめていた。


本当に、どうしてこうなったのでしょうか。


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