第三話 父の名だけでは立てぬ
「なぜ、叩かれたか、お分かりになりますか?」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
徳姫様は、頬を押さえたまま、呆然としていた。
まだ、泣いてはいない。
怒ってもいない。
ただ、何が起きたのか分からない顔をしている。
信長様の姫君。
清洲城の奥で、誰もが気を遣う姫。
その頬を、柴田家の女が叩いた。
部屋の中は、凍りついたように静まり返っていた。
犬姫様を抱き起こした侍女の震える息。
琴が水を求める声。
帰蝶様が犬姫様の腹へ目を向ける気配。
冬姫様の小さな嗚咽。
紫乃が、私の袖を掴もうとして、けれど掴めずにいる気配。
藤七丸が、妹の前に立ったまま、じっとこちらを見ている気配。
そのすべてを感じながら、私は徳姫様から目を逸らさなかった。
「なぜ、叩かれたか。お分かりになりますか、徳姫様」
もう一度、私は問うた。
徳姫様の目が、ようやく動いた。
揺れる。
次の瞬間、その目に怒りが戻った。
「な、何を……」
声が震えている。
「何をするのです!」
徳姫様は、頬を押さえたまま叫んだ。
「妾は父上の娘です! 信長の姫です! 妾にこのようなことをして、ただで済むと思っているのですか!」
帰蝶様が、息を呑んだ。
琴が私を見る。
犬姫様を支えていた侍女が、顔を青ざめさせる。
けれど、私は頭を下げなかった。
「父上に言いつけます!」
徳姫様は泣きそうな顔で叫んだ。
「父上に言いつけて、あなたを罰していただきます!」
「そうですか」
私は頷いた。
「それは、後ほどなさればよろしいでしょう」
徳姫様が、目を見開いた。
「なっ」
「ですが、その前に、お答えください」
私は一歩、徳姫様へ近づいた。
徳姫様が、わずかに後ずさる。
「なぜ、叩かれたか。お分かりになりますか」
「知らない!」
徳姫様は叫んだ。
「知らない、知らない! 妾は悪くない! 向こうが、妾の前に立ったのです!」
その言葉に、部屋の空気がさらに冷えた。
向こう。
犬姫様のことを。
自分を庇って倒れた、身重の叔母を。
向こう、と呼んだ。
帰蝶様の顔が強張った。
けれど、帰蝶様は言葉を出せなかった。
言えないのではない。
言葉にしようとして、胸の奥で何かが絡まっているのだ。
怒り。
恐怖。
そして、子を宿した犬姫様を見る痛み。
私は、それを見ないふりをした。
今、私が見るべきは徳姫様だった。
「では、逆にお尋ねします」
私は言った。
「姫様。信長様が居らねば、あなたに何が残りますか?」
徳姫様の顔から、怒りが一瞬で抜け落ちた。
「……え?」
「信長様の姫君であること。それは、確かに姫様のお立場です」
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「けれど、それは姫様ご自身が作ったものではございません」
徳姫様の唇が震えた。
「妾は、父上の……」
「はい。信長様の御子です」
私は遮らずに頷いた。
「けれど、信長様の御子であることは、姫様が人を傷つけてよい理由にはなりません」
「傷つけるつもりなど!」
「つもりがなければ、人は傷つかないのですか」
徳姫様は言葉を失った。
私は、少しだけ視線を犬姫様へ向けた。
犬姫様は、侍女に支えられながら、腹に手を当てている。
こめかみには布が当てられ、顔色は悪い。
けれど意識はある。
それだけで、どれほど救われたか分からない。
「徳姫様。犬姫様は、あなたが投げたものから紫乃を庇おうとなさいました」
徳姫様の視線が、初めて紫乃へ向いた。
紫乃は、私の後ろで小さく震えていた。
藤七丸は、その前に立ったまま動かない。
「紫乃は、数え四つです。あなたより幼い子です」
私は続けた。
「犬姫様は、身重でいらっしゃいます」
徳姫様の目が、犬姫様の腹へ向いた。
ようやく。
ようやく、そこを見た。
「身重とは、腹に御子がいるということです。転べば、犬姫様だけでなく、腹の御子にも障ることがございます」
徳姫様の顔が、青ざめた。
「でも……」
「姫様が投げたものは、犬姫様に当たりました」
「でも、妾は……」
「紫乃に当たっていたかもしれません」
徳姫様の唇が震える。
「でも……」
「冬姫様に当たっていたかもしれません」
冬姫様が、小さく肩を震わせた。
「琴に当たっていたかもしれません」
琴が、静かに目を伏せる。
「帰蝶様に当たっていたかもしれません」
徳姫様は、帰蝶様を見た。
帰蝶様は、何も言わずに徳姫様を見ていた。
その目は厳しかった。
けれど、悲しそうでもあった。
「怒ることは、悪いことではございません」
私は言った。
徳姫様が、私を見る。
「寂しいと思うことも。悔しいと思うことも。父君を取られたようで嫌だと思うことも。悪いことではございません」
徳姫様の目に、涙が浮かんだ。
「ですが」
私は、声を落とした。
「怒ったからといって、物を投げてよい理由にはなりません」
徳姫様は、何も言えなかった。
「姫君のお言葉は、人を動かします」
私は続けた。
「姫様が欲しいと言えば、誰かが走ります。姫様が嫌だと言えば、誰かが困ります。姫様が怒れば、周りの者は震えます」
徳姫様は、震えていた。
今度は怒りではない。
怖さだった。
自分のしたことの大きさに、ようやく触れた顔だった。
「信長様の姫君であるということは、ただ大事にされるということではございません」
私は、徳姫様の目を見た。
「人を動かす言葉を持つということです」
部屋の誰もが、黙って聞いていた。
「だからこそ、姫様は知らねばなりません。ご自分の言葉が、誰を動かすのか。ご自分の手が、誰を傷つけるのか。ご自分の癇癪が、誰を泣かせるのか」
徳姫様の頬から、涙が一粒落ちた。
私は、息を吸った。
胸の奥に、古い記憶が浮かぶ。
燃える屋敷。
逃げ惑う人々。
抱えた千若。
濡れた義銀。
そして、若い柴田勝家の腕。
「私の父は、尾張の守護でございました」
徳姫様が、涙に濡れた目で私を見た。
「守護の娘。斯波の姫。聞こえはよいでしょう」
私は少しだけ笑った。
笑えたかどうかは、分からない。
「けれど、守護邸が燃えた時、その名だけで甥たちを守ることはできませんでした」
徳姫様は、黙っていた。
「私が守護の姫であったことは、甥たちの腹を満たしてはくれませんでした。怪我人を寝かせてはくれませんでした。燃える屋敷から逃がしてはくれませんでした」
帰蝶様が、静かに目を伏せた。
琴が唇を噛む。
藤七丸が、何かを堪えるように拳を握った。
「家の名は、あなたを守ってくれます」
私は言った。
「父君の名も、あなたを守ってくれるでしょう」
徳姫様は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「けれど、あなたが人を傷つけた時、父君の名は、あなたの代わりに謝ってはくれません」
徳姫様が、息を呑んだ。
「信長様が居らねば、あなたに何が残りますか」
私は、もう一度問うた。
今度の声は、先ほどより少しだけ柔らかかったと思う。
「信長様の姫君であることを取り払った時、あなたは何を持つ姫でありたいのですか」
徳姫様は、答えられなかった。
当然だ。
まだ幼いのだ。
そんな問いに、すぐ答えられるはずがない。
だから私は、続けた。
「今すぐ答えられなくてよろしいのです」
徳姫様が、目を瞬いた。
「ですが、考えなさいませ」
「……考える?」
「はい」
私は頷いた。
「姫様は、信長様の御子です。ならば、信長様の名に恥じぬ姫にならねばなりません」
徳姫様の涙が止まらない。
「人を怖がらせる姫ではなく」
私は言った。
「人を守れる姫に」
冬姫様が、はっと顔を上げた。
紫乃が、私の袖をぎゅっと掴む。
「人に挨拶をされるだけの姫ではなく、ご自分から礼を尽くせる姫に」
徳姫様の肩が震えた。
「怒りを物にぶつける姫ではなく、何が嫌だったのか、言葉で伝えられる姫に」
徳姫様は、しゃくり上げた。
「そんな……」
「難しいでしょう」
私は言った。
「私も、いつもできるわけではありません」
徳姫様が、驚いたように私を見た。
「私も怒ります。泣きます。間違えます。勝家様に心配をかけます。藤七丸と紫乃を叱りながら、自分も間違えることがあります」
藤七丸が、少しだけ目を丸くした。
紫乃は、よく分かっていない顔をしている。
「ですが、間違えたら、謝るのです」
私は徳姫様を見た。
「姫様。今、あなたが最初にすべきことは何ですか」
徳姫様は、私を見た。
帰蝶様を見た。
冬姫様を見た。
紫乃を見た。
そして、犬姫様を見た。
犬姫様は、侍女に支えられながら、静かに徳姫様を見ていた。
怒っている顔ではなかった。
悲しそうな顔だった。
それが、徳姫様には一番堪えたのだと思う。
徳姫様は、唇を震わせた。
「……犬叔母上」
声は、小さかった。
けれど、部屋の誰もが聞いていた。
「ごめんなさい」
犬姫様の目が、柔らかくなった。
徳姫様は、もう一度、今度は少し大きな声で言った。
「ごめんなさい。投げて、ごめんなさい。お腹の子に、怖いことをして、ごめんなさい」
犬姫様は、ゆっくりと息を吐いた。
「分かれば、よいのです」
その声は、少し震えていた。
「けれど、次は投げる前に、言葉になさい。嫌だと。寂しいと。怒っていると。そう言えばよいのです」
徳姫様は、泣きながら頷いた。
「はい……」
「それから」
犬姫様は、腹に手を添えたまま微笑んだ。
「紫乃様にも」
徳姫様が、紫乃を見る。
紫乃は私の後ろに隠れかけていたが、藤七丸にそっと背を押されて、少しだけ前へ出た。
徳姫様は、唇を噛む。
「……紫乃」
紫乃が、瞬きをした。
「ごめんなさい」
紫乃は、私を見上げた。
どうすればよいのか、分からない顔だった。
私は頷いた。
紫乃は、少し考えてから、徳姫様を見た。
「いたいの、だめ」
徳姫様が、また泣きそうになる。
「うん……」
「なげるの、だめ」
「うん」
「でも、ごめん、できた」
紫乃は、にこりと笑った。
「よくできました」
部屋の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
私は、思わず目を閉じそうになった。
まさか、私の言葉を紫乃が使うとは。
藤七丸が、小さく息を吐く。
琴が、泣きそうな顔で笑った。
冬姫様も、涙を拭いている。
徳姫様は、まだ泣いていた。
私は、その前に膝をついた。
徳姫様が、びくりと肩を震わせる。
また叱られると思ったのかもしれない。
私は、ゆっくりと手を伸ばした。
先ほど叩いた頬ではなく、頭へ。
そっと撫でる。
徳姫様の目が、大きく見開かれた。
「よくできました」
私が言うと、徳姫様の顔がくしゃりと歪んだ。
「……怒って、いないの?」
「怒っています」
私は正直に答えた。
徳姫様が固まる。
「ですが、謝れたことは、よくできました」
「怒っているのに?」
「はい」
私は頷いた。
「叱ることと、嫌いになることは違います」
徳姫様の涙が、またこぼれた。
「……嫌いに、ならない?」
その声は、あまりに小さかった。
ああ。
やはり。
この子は、怒っていたのではない。
怖かったのだ。
父を取られることが。
大人たちに見放されることが。
叱られることが、嫌われることだと思っていたのだ。
私は、もう一度、徳姫様の頭を撫でた。
「嫌いになりません」
徳姫様は、泣いた。
今度は、怒りではなく。
悔しさでもなく。
ただ、子どものように泣いた。
冬姫様が、おずおずと近づく。
「姉上……」
徳姫様は、冬姫様を見た。
「冬……」
冬姫様は、徳姫様の袖をそっと掴んだ。
「怖かったです」
その一言に、徳姫様は泣きながら頷いた。
「ごめん」
「はい」
冬姫様も泣き出した。
琴がそっと二人の近くへ寄り、布を差し出す。
帰蝶様は、その様子を黙って見ていた。
その顔には、怒りも、安堵も、痛みもあった。
私は、帰蝶様へ頭を下げた。
「帰蝶様」
「……何です」
「出過ぎた真似をいたしました」
部屋がまた静かになった。
私は、深く頭を下げる。
「徳姫様の頬を打ちました。信長様の姫君に手を上げたこと、いかなる罰も受けます」
帰蝶様は、しばらく何も言わなかった。
長い沈黙だった。
やがて、帰蝶様は静かに息を吐いた。
「顔を上げなさい、藤乃」
私は顔を上げた。
帰蝶様は、私を見ていた。
厳しく。
けれど、どこか苦しげに。
「私が、叱らねばならぬことでした」
その声は、低かった。
「私が、止めねばならぬことでした」
「帰蝶様」
「けれど、私は一瞬、言葉を失いました」
帰蝶様の視線が、犬姫様へ向く。
犬姫様は、少しだけ首を振った。
帰蝶様は続けた。
「犬が倒れたことも、腹の子のことも、徳のことも、すべてが一度に胸へ来て……私は、動けなかった」
それは、帰蝶様が初めて見せる弱さだった。
完璧な正室ではなく。
ただ、一人の女としての痛みだった。
「あなたは、動きました」
帰蝶様は言った。
「ならば、この場であなたを責めることはいたしません」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし」
帰蝶様の声が、少し鋭くなる。
「三郎様には、私から申し上げます」
私は、少しだけ固まった。
「……信長様に、でございますか」
「当然です」
帰蝶様は静かに言った。
「徳のことも、犬のことも、あなたが手を上げたことも、隠すことではありません」
それは、そうである。
そうであるが。
信長様に説明するのですか。
私が、徳姫様を叩いたことを。
胃が痛い。
非常に痛い。
琴が、少しだけ同情するような顔をした。
藤七丸が、心配そうに私を見る。
紫乃は、まだよく分かっていない。
「母上、いたい?」
「少しだけ」
主に胃が。
そう言いたいのを堪えた。
その時、廊下の向こうが騒がしくなった。
医師と産婆が来たのだろう。
侍女が障子の外から声をかける。
「医師が参りました」
「通しなさい」
帰蝶様の声は、すぐに正室のものへ戻った。
犬姫様が横になれるよう、座布団が動かされる。
琴が水を持つ。
侍女が布を替える。
私は徳姫様の頭から手を離し、立ち上がった。
徳姫様が、袖を掴んだ。
「藤の方」
小さな声だった。
「はい」
「犬叔母上、大丈夫?」
私は、犬姫様を見た。
医師が入り、産婆が腹の張りを確かめようとしている。
まだ何も分からない。
軽々しく大丈夫とは言えない。
だから、私は徳姫様の目を見て言った。
「皆で、大丈夫にするのです」
徳姫様が、息を呑んだ。
「皆で?」
「はい。犬姫様が休めるように、静かにする。必要なものを運ぶ。声を荒げない。怖がらせない。できることを、一つずつするのです」
徳姫様は、涙を拭った。
そして、小さく頷いた。
「……妾も、する」
「では、まずは座って、静かにお待ちなさいませ」
「はい」
徳姫様は、素直に座った。
冬姫様が、その隣に寄り添う。
藤七丸は紫乃の手を握り、二人で部屋の隅へ下がった。
琴が、こちらへ小さく頷く。
帰蝶様は、犬姫様のそばに座った。
私は、その姿を見ながら、ゆっくりと息を吐いた。
叱るとは、難しい。
叩くことが正しいなどとは思わない。
けれど、止めねばならぬ時がある。
そして、止めた後に、教えねばならぬことがある。
怒りの置き場所。
言葉の使い方。
謝ること。
許されること。
見捨てられないこと。
徳姫様は、まだ幼い。
冬姫様も、紫乃も、藤七丸も幼い。
この子たちは、これから覚えていくのだ。
自分の名が、誰かを動かすことを。
自分の言葉が、誰かを傷つけることを。
そして、自分の手で、誰かを守れるようにもなることを。
私は、犬姫様のそばへ向かった。
今はまず、犬姫様と腹の御子を守らねばならない。
忙しい。
本当に、忙しい。
けれど、これもまた、姫君を育てるということなのだろう。
私は、そっと袖をまくった。




