第二話 お父様のお気に入り
清洲城へ上がるのは、いつまで経っても慣れない。
もちろん、以前よりはずっと通うようになった。
信長様に呼ばれることもある。
帰蝶様に呼ばれることもある。
琴のこと。
義銀のこと。
子供たちのこと。
時には、清洲の奥のこと。
私が関わることは、少しずつ増えていた。
けれど、慣れたかと言われると、話は別である。
清洲城は、やはり清洲城なのだ。
人が多い。
声が多い。
足音が多い。
そして何より、信長様の気配が濃い。
城というものは、主の気配をまとうものらしい。
柴田邸には勝家様の気配がある。
どっしりしていて、無骨で、けれど不思議と温かい。
清洲城には、信長様の気配がある。
鋭く、騒がしく、油断がならない。
……落ち着かない、とも言う。
「母上」
隣から声がした。
見下ろせば、藤七丸がこちらを見上げている。
今日はいつもよりきちんとした小袖を着せているためか、本人もどこか得意げだった。
数え六つ。
まだ幼い。
けれど、以前よりも背筋を伸ばすことを覚えた。
「どうしました」
「清洲は、人が多いです」
「そうですね」
「柴田の屋敷より、多いです」
「お城ですから」
「父上は来ないのですか」
「勝家様はお仕事です」
藤七丸は、少しだけ口を尖らせた。
「父上も来ればよいのに」
「勝家様が来られたら、信長様とお話が長くなります」
「それは困ります」
分かっているのですね。
私は思わず笑いそうになった。
反対側では、紫乃が私の袖を握っている。
紫乃は数え四つ。
今日は姫君たちの遊び相手として連れて来られた。
本人は、まだそれをよく分かっていない。
分かっていないが、清洲城の広さに目を輝かせている。
「母上、ここ、ひろい」
「走ってはいけませんよ」
「はしらない」
そう言いながら、足がすでに走りたそうにしている。
私は紫乃の手を、少し強めに握った。
頼みますから、今日はどうか大人しくしていてください。
無理かもしれませんが。
案内された先は、奥の一室だった。
障子の向こうから、女たちの静かな声が聞こえる。
侍女が膝をつき、頭を下げた。
「藤の方様がお見えにございます」
「通して」
声は、帰蝶様のものだった。
私は藤七丸と紫乃を連れて中へ入る。
「帰蝶様。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
深く頭を下げると、帰蝶様は穏やかに頷いた。
「よく来てくれました、藤乃」
その声に、少しだけ安堵する。
帰蝶様は、いつも通り美しかった。
凛としていて、無駄がない。
ただ座っているだけで、場の空気が整う。
濃姫。
帰蝶。
信長様の正室。
この方の前では、私はいつも少し背筋が伸びる。
「藤七丸も、紫乃も、よう来ましたね」
「はい」
藤七丸が、少し緊張しながら頭を下げる。
紫乃も、それを見て慌てて頭を下げた。
「こんにちは、でございます」
帰蝶様が、ほんの少し笑った。
「ええ。こんにちは」
よかった。
今のところ、紫乃は走っていない。
よくできました。
そう思ったところで、私は帰蝶様の隣に座る女性へ目を向けた。
若い女性だった。
柔らかな顔立ちで、どこか信長様に似た目元をしている。
けれど、信長様のような鋭さではない。
もっと穏やかで、優しい。
その女性は、私を見ると、にこりと笑った。
「藤の方様。お初にお目にかかります」
「こちらこそ。失礼ながら……」
「犬、と申します」
犬。
お犬の方。
信長様の妹君だ。
以前から名は聞いていた。
佐治家へ嫁がれた、信長様の妹君。
知多の海と縁の深い家へ嫁いだ姫君。
私はすぐに頭を下げた。
「犬姫様でいらっしゃいましたか。お目にかかれて光栄にございます」
「そのように畏まられますと、こちらが困ってしまいます。兄上からは、藤の方様は気安い方だと聞いておりましたのに」
どの信長様ですか。
そのような紹介は、あまり喜んでよいものではない気がする。
帰蝶様が、わずかに目を細めた。
「三郎様の言葉を、そのまま信じてはなりません」
帰蝶様、信長様のことを三郎様と呼ばれるのですね。
「まあ」
犬姫様が楽しげに笑う。
その笑い方は、信長様とは違う。
けれど、どこか織田の血を感じさせた。
「犬姫様は、里帰りをなさっているのですか」
私が尋ねると、犬姫様は少しだけ頬を染めた。
そして、無意識のように腹のあたりへ手を添えた。
その表情が、ふわりとほどける。
幸せそうな顔だった。
私は、その仕草を見て、息を呑みそうになった。
ああ。
そういうことですか。
「……おめでとうございます」
私が静かに言うと、犬姫様は目を見開いた。
「まあ。まだ何も申し上げておりませんのに」
「お顔を見れば、なんとなく」
「藤乃は、そういうところがよく見えますね」
帰蝶様が言う。
その声は穏やかだった。
けれど、ほんの少しだけ、何かが沈んでいるようにも聞こえた。
犬姫様は、少し照れたように腹を撫でる。
「はい。まだ月は浅いのですが、子ができたようです」
「まことに、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
犬姫様は、嬉しそうに笑った。
その笑顔は、本当に柔らかかった。
嫁いだ先で大事にされているのだろう。
そう思うと、こちらまで温かくなる。
「本日は、そのご報告で?」
「それもございます」
犬姫様は頷いた。
「それから、出産の折には、できれば尾張へ戻ってはどうかと勧められまして」
「尾張へ」
「ええ。こちらでは、産婆衆の支度がよいと聞きました。藤の方様のご出産の折に、いろいろと新しい心得が広まったとか」
私は固まった。
「……私の?」
帰蝶様が、少しだけ笑う。
「あなたが自分の出産の時に、ずいぶん口を出したそうですね」
「口を出したというか、その、必死だっただけで……」
「産婆衆には役立ったようですよ」
私は額を押さえたくなった。
確かに、私は藤七丸の時も紫乃の時も、かなり騒いだ。
息を止めるなとか。
湯を冷ますなとか。
布を多めに用意してほしいとか。
産後すぐに起き上がらせないでほしいとか。
痛みが来たら、ひ、ひ、ふう、と息を合わせるとか。
言った。
言ったけれど。
あれは、私が怖かったからである。
「最近では、産婆たちが、痛みが来ると声を合わせるそうです」
犬姫様が言う。
「ひ、ひ、ふう、でございましたか」
「……広まっているのですね」
「はい。佐治の方でも、その話を聞きました。尾張の産婆は、産婦の息を乱さぬよう声をかけると」
私は遠い目になった。
まさか、私の半ば悲鳴のような呼び声が、産婆衆の心得になっているとは。
歴史とは、どこから変わるか分からない。
「ですが、よいことです」
帰蝶様が静かに言った。
「産は、女だけで耐えるものではない。支える者がいるなら、それに越したことはありません」
「……はい」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
帰蝶様は、犬姫様を祝っている。
それは間違いない。
けれど、その声の奥にあるものを、私は見落とせなかった。
子を宿した義妹。
それを祝う正室。
けれど、自分の腹にはまだ子がいない。
帰蝶様は、それを誰にも見せないようにしている。
笑っている。
美しく、正しく、穏やかに。
けれど、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、寂しそうだった。
私は、何も言えなかった。
その時、別の気配がした。
「失礼いたします」
聞き慣れた声に顔を上げる。
入ってきたのは琴だった。
「琴」
思わず声が出る。
琴は私を見ると、少しほっとしたような顔をした。
「藤乃様」
「あなたも呼ばれていたのですか」
「はい。帰蝶様より、姫君方の相手も兼ねて、こちらへと」
琴は以前より、ずいぶん落ち着いていた。
清洲で叩き込まれた礼法は、今もきちんと身についている。
背筋。
袖。
目線。
嫁いだばかりの頃のぎこちなさはまだ残るが、逃げるような怯えはない。
帰蝶様が琴を見て頷いた。
「琴。よく来ました」
「はい。お招きいただき、ありがとうございます」
琴は深く頭を下げた。
犬姫様にも挨拶をする。
「犬姫様。お久しゅうございます」
「琴殿も、お元気そうで何よりです」
「犬姫様こそ。此度はまことにおめでとうございます」
琴の言葉に、犬姫様が柔らかく笑う。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、琴の目がほんの少し揺れた。
琴も気づいたのだろう。
犬姫様の幸せと。
帰蝶様の静かな寂しさに。
けれど、今はまだ何も言わない。
言えない。
言葉にしてよいものと、まだ触れてはならぬものがある。
奥の空気とは、そういうものだ。
しばらくは、穏やかな話が続いた。
犬姫様の佐治家での暮らし。
知多の海のこと。
清洲と知多を行き来する荷馬車の話。
陳家の鍛冶師たちの話。
帰蝶様は、藤七丸と紫乃にも目を向けた。
「藤七丸は、槍の稽古を始めたとか」
「木の棒を振り回しているだけでございます」
「父君の真似ですね」
「はい。困ったことに」
藤七丸は、少し得意げに胸を張った。
「父上のようになります」
「まあ」
犬姫様が笑う。
「では、立派な武者になりますね」
藤七丸の頬が少し赤くなった。
紫乃は、その横で琴の袖を触っている。
「琴さま、きれい」
「ありがとうございます、紫乃様」
「紫乃も、きれい?」
「はい。とても」
紫乃は満足そうに笑った。
平和だった。
少なくとも、その時までは。
廊下の向こうから、ぱたぱたと足音が聞こえた。
侍女が慌てて顔を上げる。
帰蝶様の眉が、ほんの少し動いた。
次の瞬間、障子が勢いよく開いた。
「帰蝶様!」
高い声が、部屋に飛び込んでくる。
現れたのは、徳姫だった。
信長様の娘。
まだ幼い姫君である。
けれど、その目は父親に似ていた。
強い。
まっすぐで、怖いもの知らず。
そして今は、明らかに機嫌が悪かった。
その後ろには、冬姫がいる。
冬姫は徳姫より少し小さく、困ったような顔で姉の袖を掴もうとしていた。
けれど、徳姫はそれを振り払う。
「徳」
帰蝶様の声が低くなる。
「障子は、静かに開けなさい」
「そんなことより、聞きましたわ!」
徳姫は部屋の中を見回した。
その視線が、私に止まる。
「お父様が、お気に入りの女を連れて来たと聞きました!」
一瞬、部屋の空気が止まった。
私ですか。
私のことですか。
どうしてそうなるのですか。
琴が小さく息を呑む。
犬姫様は目を丸くしている。
帰蝶様は、静かに徳姫を見た。
「徳」
「何ですか」
「まず、挨拶をなさい」
徳姫は、むっと唇を尖らせた。
「なぜ私が先に挨拶するのですか?」
「あなたが後から入ってきたからです」
「私は父上の姫です」
帰蝶様の目が、少し細くなる。
「それでも、後から入った者が先に挨拶をするものです」
「いやです」
冬姫が小さく震えた。
「姉上……」
「冬は黙っていなさい!」
徳姫の声が鋭くなった。
紫乃が、私の袖をぎゅっと掴む。
藤七丸も、黙って徳姫を見ていた。
徳姫は、私を睨む。
「あなたが藤の方?」
「はい。柴田勝家の妻、藤乃にございます」
私は静かに頭を下げた。
「お初にお目にかかります、徳姫様」
「ほら。向こうが先に挨拶したではありませんか」
徳姫は勝ち誇ったように言った。
帰蝶様の声が、さらに低くなる。
「徳。それは藤の方が礼を尽くしてくださっただけです。あなたが挨拶をしなくてよい理由にはなりません」
「どうしてですか」
「姫であるからです」
「姫なら、皆が私に挨拶するものでしょう」
部屋の空気が、じわりと重くなった。
帰蝶様は怒っている。
それは、はっきりと分かった。
けれど、その怒りの奥で、何かが帰蝶様の言葉を止めているようにも見えた。
徳姫は信長様の娘。
帰蝶様は、その正室。
けれど、徳姫の実母ではない。
その距離が、ほんのわずかに、帰蝶様の言葉を鈍らせているのが分かった。
「徳姫様」
琴がそっと口を開いた。
「こちらには犬姫様もいらっしゃいます。ご挨拶を」
「犬叔母上には、後でします」
犬姫様が困ったように笑う。
「徳。私は急ぎませぬが、帰蝶様のお言葉は聞きなさい」
「犬叔母上まで、私を叱るのですか」
「叱っているのではありません」
「皆、私ばかり!」
徳姫の声が震えた。
怒っている。
悔しがっている。
そして、おそらく寂しがっている。
けれど、その寂しさを言葉にするには、徳姫はまだ幼すぎた。
「お父様は、私の父上です! 私だけのお父様です!」
徳姫は叫んだ。
「なのに、皆、お父様がお気に入りだと言って、この女を褒める!」
この女。
帰蝶様の目が、はっきりと怒りに染まった。
「徳」
その一声に、部屋の空気が震えた。
「藤の方に、そのような口を利いてはなりません」
「いやです!」
徳姫は近くにあった小さな香合を掴んだ。
「徳!」
帰蝶様が鋭く呼ぶ。
犬姫様が、咄嗟に身を乗り出した。
「徳、なりません!」
次の瞬間。
徳姫の手から、香合が投げられた。
時間が、妙にゆっくりに見えた。
香合は、私の方へ飛んできた。
いや。
私の手前にいた紫乃の方へ。
紫乃は、動けなかった。
私が紫乃を引き寄せようとした瞬間、犬姫様が立ち上がった。
身重の身で。
咄嗟に。
犬姫様は、片腕で腹を庇いながら、もう片方の腕を紫乃の前へ伸ばした。
けれど、そのために、自ら身をかわすのが遅れた。
鈍い音がした。
香合が、犬姫様のこめかみのあたりに当たった。
犬姫様の身体が傾ぐ。
「犬姫様!」
琴が叫んだ。
侍女たちが一斉に動く。
帰蝶様の顔から、血の気が引いた。
犬姫様は、腹を庇ったまま、畳の上へ崩れ落ちた。
「犬!」
帰蝶様が立ち上がる。
琴が駆け寄る。
侍女が悲鳴を噛み殺す。
「腹は」
誰かが、掠れた声で言った。
その一言で、部屋の空気が凍った。
犬姫様は、腹を庇ったまま、苦しげに息をしている。
紫乃は、私の袖を握ったまま震えていた。
藤七丸が、紫乃の前に立つ。
徳姫は、呆然としていた。
自分が何をしたのか、まだ分かっていない顔だった。
いや。
分かりたくない顔だった。
私は、紫乃の手を、そっと自分の袖から外した。
「医師を。産婆も。水と布を」
声だけは、自分でも驚くほど冷静だった。
けれど、足は徳姫様の前へ向かっていた。
止めなければならないものがあった。
私は、徳姫の前へ歩いた。
徳姫が、はっとこちらを見る。
その頬を。
私は、叩いた。
ぱしん、と乾いた音がした。
部屋中が、静まり返った。
徳姫の顔が、横を向く。
私の手のひらが、じんと熱を持った。
誰も、声を出さなかった。
帰蝶様も。
琴も。
冬姫も。
藤七丸も。
紫乃も。
ただ、倒れた犬姫様を抱き起こす侍女の震える息だけが、部屋の中に残っていた。




