第一話 清洲への呼び出し
紫乃が生まれてから、三年が過ぎた。
三年。
子供の成長は早い。
藤七丸は、もう数え六つになる。
少し前まで、転んでは泣き、抱き上げればすぐに泣き止んでいた子が、今では勝家様の後ろを追いかけ、木の棒を槍のように構えている。
紫乃もまた、数え四つになった。
よく笑い、よく喋り、よく動く子である。
こちらは私に似たのか、勝家様に似たのか、妙なところで頑固である。
藤七丸が譲らぬ時は、紫乃も譲らない。
紫乃が譲らぬ時は、藤七丸も意地を張る。
結果、二人まとめて私に叱られる。
子供は、あっという間に大きくなる。
けれど、それ以上に早かったものがある。
明から流れ着いた、陳一族の馴染み方である。
陳宗鉄殿、そして承鋼殿と承明殿の父子は、今では毎日のように清洲の鍛冶場へ通っていた。
尾張の鍛冶師たちと向かい合い、言葉を探し、絵を描き、手振りを交え、ときに鉄を打ちながら、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を続けている。
最初は、誰もが遠巻きに見ていた。
言葉も違う。
姿も違う。
使う道具も、考え方も違う。
けれど、鉄を前にすると、鍛冶師たちはよく似ていた。
熱を見て、音を聞き、槌を振るう。
よいものを作ろうとする顔は、国が違っても同じらしい。
承鋼殿と承明殿が関わって作り上げた鉄軸の荷馬車は、今では運用確認も兼ねて、清洲と知多を行き来する便になっている。
初めは、ただ走らせるだけで皆が息を呑んだ。
車輪が外れぬか。
鉄輪が割れぬか。
軸が焼けぬか。
馬が嫌がらぬか。
道が悪ければどうなるか。
荷を積みすぎればどうなるか。
帳面には、細かく記された。
荷の重さ。
馬の数。
車輪の傷。
軸に塗った油。
道中で折れた釘。
戻ってきた時の状態。
試すたびに、少しずつ直す。
直すたびに、また試す。
そうしているうちに、荷馬車はただの珍しい道具ではなく、実際に荷を運ぶものになっていった。
先日など、知多の漁村へ、承鋼殿と承明殿が自ら荷馬車を贈ったらしい。
あの、壊れかけの荷馬車の代わりに。
鉄軸と鉄輪の様子を見るためでもあったが、それだけではない。
あの浜で、彼らは初めて尾張の粥を食べた。
あの時、助けてくれた者たちへ礼を言いたかったのだそうだ。
「粥、おいしかった。ありがとう」
そう、片言で告げたらしい。
その話を聞いた時、私は少しだけ泣きそうになった。
生きるために海を渡り、流れ着き、言葉も通じぬ土地で粥を食べた人たちが、今度は自分の足で、いや、自分たちが作った荷馬車で礼を言いに行く。
何というか。
こういうことが、歴史の本には残らないのだろうなと思った。
けれど、私には大事だった。
陳家の女たちも、少しずつ柴田邸に馴染んでいた。
皆、こちらの暮らしに合わせ、姓を陳と名乗るようになった。
我らは、ここで根を張る。
そんな気概を感じさせる名乗りだった。
柴田邸の女中として働き始めた陳家の女たちは、まだ言葉こそたどたどしい。
けれど、毎日、新しい言葉を覚えていく。
水。
火。
米。
布。
薬。
危ない。
熱い。
待つ。
ありがとう。
最初に覚える言葉は、暮らしに近い。
だからこそ、彼女たちが本当にこの家で生き始めているのだと分かる。
柴田邸は、相変わらず忙しい。
清洲は、相変わらず騒がしい。
外では戦の気配が消えたわけではない。
織田家の進む道は、少しも穏やかではない。
それでも、この三年は、私にとって穏やかな日々だった。
藤七丸が走る。
紫乃が笑う。
勝家様が、二人を見て困ったように眉を寄せる。
於光様が笑う。
八右衛門殿が帳面をめくる。
陳家の女たちが、たどたどしい尾張の言葉で水を運ぶ。
明から来た鍛冶師たちが、尾張の鍛冶師たちと鉄を打つ。
戦が続く世の中で、それでも人は暮らしていく。
そんな、穏やかな日々であった。
……少なくとも、私はそう思っていた。
「お藤!」
響いたのは、信長様の声だった。
どすどすと。
本当に、どすどすと。
遠慮の欠片もない足音と声が、柴田邸の奥まで入り込んできた。
私は、手にしていた布を置いた。
勝家様が、露骨に眉を寄せる。
「殿」
「権六、そこにいたか」
「おります。ここは某の屋敷にございますので」
「そうか」
そうか、ではありません。
信長様は、何一つ気にした様子もなく、こちらへ歩いてきた。
後ろには、申し訳なさそうな顔をした信行様がいる。
ああ。
またですか。
また、兄弟揃ってですか。
信行様と目が合う。
信行様は、小さく頭を下げた。
その顔には、はっきりと書いてあった。
止められませんでした、と。
分かります。
分かりますとも。
信長様を止められる人間など、この尾張に何人いるのでしょうか。
私は立ち上がり、頭を下げた。
「信長様。信行様。ようこそお越しくださいました」
「うむ」
信長様は頷いた。
「お藤、城に上がれ」
「……はい?」
思わず、間の抜けた声が出た。
信長様は気にしない。
「帰蝶の話し相手として、城に上がれ」
「帰蝶様の、話し相手でございますか」
「そうだ」
信長様は、当然のように言った。
「姫どもが騒がしい」
嫌な予感がした。
とても、嫌な予感がした。
「姫ども、でございますか」
「徳が、まあ、よく騒ぐ。儂が見る分には面白いが、帰蝶はそうもいかぬらしい」
信長様は面白そうに笑った。
「冬はそれを見ておる。見ておるだけならよいが、最近は少し真似をする」
私は、静かに息を吸った。
つまり。
信長様の姫君たちが、何やら城で騒いでいる。
帰蝶様がそれを見ている。
そして私が呼ばれた。
これは、面倒な話である。
間違いなく、面倒な話である。
「恐れながら、信長様」
勝家様が低い声で言った。
「お藤は、柴田家の奥を預かる身にございます」
「知っておる」
「ならば」
「だから呼びに来た」
勝家様の眉間の皺が深くなった。
信長様は笑っている。
「帰蝶が言うた。藤乃なら、子を叱る時に逃げぬだろうとな」
私は、目を瞬いた。
帰蝶様が。
「……私を、そのように?」
「うむ」
信長様は楽しげに頷いた。
「それに、紫乃も連れてこい」
「紫乃を、でございますか」
「姫どもの遊び相手が要る」
今度こそ、勝家様がはっきりと嫌な顔をした。
「殿」
「権六、そう睨むな。取って食いはせぬ」
「当然にございます」
「それに、藤七丸は連れてくるなとは言っておらぬ」
「連れていけとも言っておられませぬ」
「では連れてこい」
話が雑です。
あまりにも雑です。
私は、額を押さえたくなった。
藤七丸は数え六つ。
紫乃は数え四つ。
二人とも、まだ手のかかる年頃である。
清洲城へ連れて行けば、静かに座っているはずがない。
いや、藤七丸はまだ何とかなるかもしれない。
問題は紫乃である。
あの子は、笑顔でとんでもない方向へ走る。
「信長様」
私は慎重に口を開いた。
「帰蝶様は、本当に私をお呼びなのでしょうか」
「呼んでおる」
「姫君方の遊び相手として、紫乃も」
「そうだ」
「藤七丸も」
「ついでだ」
ついで。
勝家様の眉間の皺が、さらに深くなった。
信行様が、そっと目を逸らした。
私は、静かに悟った。
これは、断れないやつである。
信長様は、もう決めている。
帰蝶様も、おそらく何か考えがある。
そして姫君方が騒がしいということは、清洲の奥で何かが起きている。
面倒なことになる予感しかしない。
けれど。
帰蝶様が私を呼んだ。
そう聞いて、無視できるはずもなかった。
琴が清洲で礼法を叩き込まれた時、帰蝶様は厳しくもよく見てくださった。
その帰蝶様が、子を叱る時に逃げぬだろうと、私を呼んだ。
ならば、行かねばならない。
私は、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
勝家様が、こちらを見る。
「お藤」
「大丈夫です、勝家様」
たぶん。
きっと。
おそらく。
「藤七丸と紫乃を連れ、清洲へ上がります」
信長様は満足そうに笑った。
「うむ。それでよい」
本当に、よいのでしょうか。
私は、まだ何も知らなかった。
この城で出会う姫君たちが大きく流れを変えることを。
ただ一つだけ、分かっていた。
また、忙しくなる。
それだけは、間違いなかった。




