第十七話 海に出るしかなかった理由
飯を食べてもらってから、少し時間を置いた。
急に話を聞くのはよくない。
腹が満ちたばかりの身体は、眠くなる。
疲れている者なら、なおさらである。
幼い阿春は、粥を少し食べたあと、王明玉の膝に寄りかかって眠ってしまった。
李雪蘭も、産婆に促されて横になった。
腹の中の子がいる。
まずは休むべきだ。
林玉蘭も、しばらくは李雪蘭のそばから離れなかった。
陳宗鉄は、何度もこちらへ礼をしようとしたが、そのたびに私は手で止めた。
「休む」
そう言って、自分の両手を頬に当て、眠る仕草をする。
「休む。眠る」
発音が通じているかは分からない。
けれど、意味は少し伝わったらしい。
陳宗鉄は、胸の前で両手を組みかけ、それを途中で止めた。
学んでいる。
礼をしたい気持ちはある。
けれど、今はこちらが休めと言っている。
そのことを、彼は読もうとしている。
私は、その様子を見て少しだけ胸が温かくなった。
言葉が通じなくても、人は相手の意図を読もうとする。
それは、とても大事なことだ。
午後になってから、聞き取りを始めることになった。
もちろん、私一人ではない。
勝家様。
於光様。
八右衛門殿。
勝豊。
それから、義銀も来てくれていた。
信長様の側での務めもあるため、長くはいられない。
けれど、陳一家との筆談には義銀の力が欠かせない。
私が無理をしないよう見張る者も、たいへん多い。
たいへん多いです。
「藤乃様」
於光様が言った。
「はい」
「長くはなりません」
「はい」
「筆は持ちません」
「はい」
「帳面は作りません」
「はい」
「顔色が悪くなったら終わりです」
「はい」
「勝豊」
「はい」
「藤乃様が何か書こうとしたら止めなさい」
「承知いたしました」
勝豊はたいへん真面目な顔で頷いた。
味方がいない。
いえ、味方しかいないのかもしれない。
私を休ませるという意味では。
私は椅子に座った。
床に直接座るより、身体が楽だからである。
距離も取った。
陳一家は、離れの前に設けられた場所に座っている。
清洲の白い布とは違う。
ここは柴田邸の離れである。
けれど、火と鉄を扱う場所からは離してある。
病や怪我の有無がはっきりするまでは、念のため、寝起きの場所も分ける。
紫乃と藤七丸には、まだ近づかせない。
当然だ。
守るための距離である。
陳宗鉄が、こちらを見た。
承鋼と承明も、少し緊張した顔で座っている。
私は、ゆっくり息を吸った。
「今日は、話を聞きます」
もちろん、そのままでは通じない。
私は、自分の耳を指し、それから陳宗鉄たちを指した。
「聞く」
次に、自分の口を指す。
「話す」
義銀が、土の上に書く。
問。
答。
ゆっくり。
私は頷いた。
「ゆっくり。少しずつ」
承明が、その言葉を真似しようとした。
「ゆ……くり」
少し違う。
けれど、十分である。
「そうです。ゆっくり」
承明は、嬉しそうに頷いた。
承鋼が、その横で小さく呟いた。
「われ、かじし」
私は、思わず目を瞬いた。
「われ、かじし」
承鋼は、もう一度言った。
我。
鍛冶師。
そう言いたいのだろう。
昨日までは、土に書く方が多かった。
それが、今日は声に出している。
「はい」
私は、少しだけ笑った。
「あなたは、鍛冶師」
義銀がすぐに土へ書く。
我、鍛冶師。
承鋼は、その文字を見て、ゆっくり発音した。
「われ、かじし」
承明も続く。
「われ、かじし」
陳宗鉄は、二人を見て、少しだけ目を細めた。
誇らしそうだった。
学ぶ姿勢があるということは、すばらしい。
やる気のない人間に何かを教えるのは難しい。
けれど、学ぼうとする人間は、こちらが驚くほど早く進む。
前世で、誰かから聞いたことがある。
やる気がない人間と、やる気がある人間では、教育速度が五倍違う、と。
本当に五倍かどうかは分からない。
けれど、今の承鋼と承明を見ていると、その言葉を信じたくなる。
彼らは、言葉を覚えようとしている。
自分たちがこの場所で生きるために。
守られるだけでなく、働くために。
「では」
私は、義銀へ目を向けた。
「まず、なぜ明を出たのか。もう一度、確認しましょう」
義銀が頷く。
土に書く。
何故、明、出。
陳宗鉄の顔が少し硬くなった。
承鋼と承明も、互いに視線を交わす。
私は、静かに言った。
「急ぎません」
義銀が書く。
急不可。
ゆっくり。
陳宗鉄は、その文字を見て、長く息を吐いた。
それから、枝を取った。
土に、ゆっくりと文字を書いていく。
我等、鐵匠。
常作釘、農具、鍋釜。
西洋火器、見。
承鋼、承明、拆。
作欲。
我止。
子不聽。
官疑逆。
捕欲。
私は、一つずつ目で追った。
我らは鉄匠。
常に釘、農具、鍋釜を作る。
西洋火器を見た。
承鋼、承明が解いた。
作ろうとした。
自分は止めた。
子は聞かなかった。
官が逆と疑った。
捕らえようとした。
そこまで読んで、私は息を呑んだ。
「西洋火器」
私は、ゆっくりと言った。
「こちらでは、種子島。あるいは、火縄銃」
義銀が土へ書く。
西洋火器。
此地名、種子島。
又、火縄銃。
承明が、口を動かした。
「たね……しま」
承鋼が眉を寄せる。
「ひ……なわ……じゅう」
少しずつ。
本当に少しずつだ。
でも、彼らは覚えようとしている。
「そうです」
私は頷いた。
「こちらでは、そう呼ぶことがあります」
もちろん、この説明がどこまで伝わっているかは分からない。
けれど、彼らが知っている西洋火器と、こちらで扱われている火縄銃が近いものだということは、示す必要がある。
誤解があれば危うい。
火器は、釘や鍋とは違う。
人を殺す道具である。
「作れる?」
私は単語で尋ねた。
すぐに義銀が土に書く。
火縄銃、作可乎。
承鋼と承明は顔を見合わせた。
陳宗鉄は目を伏せる。
承明が土に書く。
未可。
筒、可近。
火入、半。
火藥、少知。
危。
まだ作れない。
筒は近いものが作れる。
火を入れる仕組みは半ば。
火薬は少し知る。
危うい。
やはり、清洲で確認した時と同じだった。
何でもできるとは言わない。
それは、信じられる点だった。
勝家様が、静かに言った。
「火器はまだ触らせぬ」
「はい」
私は頷いた。
「まずは、釘、農具、荷車ですね」
「うむ」
「火器は、信長様の許しがなければ、話だけです」
「当然だ」
私は陳一家へ向き直った。
「火縄銃」
単語を示す。
「今は、作らない」
義銀が書く。
今、火縄銃、作不可。
殿命、後。
今は火縄銃を作ってはいけない。
信長様の命があってから。
承鋼と承明は、それを読んだ。
少し緊張した顔で頷く。
陳宗鉄も頷いた。
そこは通じたらしい。
よかった。
本当によかった。
私は、もう一度、土に書かれた文字へ視線を戻した。
我止。
子不聽。
父は止めた。
子は聞かなかった。
その言葉を、承鋼と承明がどんな思いで見ているのか。
私は、少しだけ胸が痛くなった。
承鋼は土を見ていた。
承明は、自分の膝の上で拳を握っている。
彼らは、後悔している。
それは分かった。
技術を知りたい。
作ってみたい。
その気持ちは、きっと悪だけではない。
けれど、それが家族を危うくした。
父を。
母を。
妻を。
子を。
腹の中の子まで。
「それから」
私は義銀に言った。
「どう逃げたのかを」
義銀が頷き、土に書く。
如何、逃。
陳宗鉄は、少しだけ目を閉じた。
そして、また枝を取った。
商人、黄瑞祥。
旧知。
彼、告危。
彼、夜助。
我等、財尽。
財與倭寇。
求船。
逃。
私は、文字を追った。
商人、黄瑞祥。
旧知。
彼が危ういと知らせた。
彼が夜に助けた。
我らは財を尽くした。
財を倭寇へ与えた。
船を求めた。
逃げた。
「黄瑞祥」
私は、その名を口にした。
「商人」
陳宗鉄は、強く頷いた。
承鋼も、承明も頷いた。
この名は、大事だ。
私は直感した。
この人がいなければ、陳一家は逃げられなかった。
危険を知らせ、夜に助け、船へ繋いだ。
そして、陳一家は家にあった金目のものを尽くし、倭寇に渡して船に乗った。
倭寇と関わった。
けれど、同じ賊ではない。
清洲で彼らがそう書いた意味が、少しずつ形になっていく。
「義銀」
「はい」
「この名は、必ず残してください」
「黄瑞祥、ですね」
「はい」
義銀は、丁寧に書き留めた。
黄瑞祥。
商人。
旧知。
夜助。
その筆を見て、陳宗鉄の目が少しだけ揺れた。
自分たちを救った者の名が、この地でも残る。
そのことが、伝わったのかもしれない。
だが、話はそれで終わりではなかった。
義銀が次を書いた。
船、後。
船に乗った後。
陳宗鉄の手が止まった。
承鋼と承明の顔も強張る。
林玉蘭が、静かに目を伏せた。
私は、少しだけ息を詰める。
ここから先が、海の話なのだ。
陳宗鉄は、長く沈黙したあと、枝を握り直した。
海荒。
船破。
人重。
我老。
我死、船軽。
その文字を読んだ瞬間、息が止まった。
海が荒れた。
船が壊れた。
人が多すぎた。
自分は老いている。
自分が死ねば、船は軽くなる。
陳宗鉄は、そこまで書いて、目を伏せた。
承鋼が唇を噛む。
承明の拳が震えている。
林玉蘭は、胸元を押さえていた。
私は、土に書かれた文字から目を離せなかった。
我死、船軽。
たった五つの文字なのに、胸の奥を強く掴まれた。
ふいに、父の手を思い出した。
今生の父。
私にとっては、父というより、祖父と言ってもおかしくないほど年の離れた人だった。
落ち目の斯波家に生まれた姫。
米櫃の底を気にしながら生きる家。
それでも父は、私の頭を撫でてくれた。
大きく、少し皺のある手だった。
「藤乃は頭がいいな」
そう言って、父は笑った。
「お前が男だったら……いや」
そこで父は、少しだけ寂しそうに目を細めた。
「こんな家でなければ、お前は、いい旦那の隣で家を回せるのだろうな」
私は、その時、何と答えればよいか分からなかった。
父は、困ったように笑って、もう一度私の頭を撫でた。
「すまんな、藤乃」
謝らないでください。
そう言いたかった。
けれど、子供だった私は、うまく言葉にできなかった。
父が亡くなってから、斯波家はさらに困窮した。
米は減り。
人は離れ。
兄上は苦しい顔を隠すようになり。
私は、甥たちを食べさせることを考えるようになった。
父の手の温かさは、いつの間にか遠くなっていた。
それなのに。
今、土の上に書かれた文字を見た瞬間、あの手の感触が戻ってきた。
我死、船軽。
自分が死ねば、家族が助かる。
そんなことを、父が思ったら。
そんなことを、父が海の上で書いたら。
私は、きっと耐えられなかった。
ぽろりと、涙が落ちた。
自分でも驚いた。
土の上に、小さな染みができる。
「藤乃様」
於光様の声がした。
「お藤」
勝家様の声も、すぐ近くで低く響く。
義銀が、はっと息を呑む気配がした。
陳宗鉄たちも、驚いた顔でこちらを見ている。
いけない。
驚かせてしまった。
そう思ったのに、涙は止まらなかった。
私は慌てて袖で目元を押さえた。
「大丈夫です」
声が震えた。
大丈夫ではない声だった。
けれど、言わずにはいられなかった。
「大丈夫です」
もう一度そう言ってから、私は土に残る文字を指した。
我死、船軽。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「いいえ」
もちろん、この言葉は通じない。
私は枝を取った。
筆は持たない約束だった。
けれど、これは土に書くだけです。
……たぶん、許してください。
震える手で、土に文字を書く。
我父、已死。
無父、寂。
汝生、善。
父生、善。
書いてから、少し迷った。
これで伝わるだろうか。
私の父は、もう死んでいる。
父がいない寂しさを、私は知っている。
貴方が生きていてよかった。
父が生きていることは、よいことだ。
そう伝えたかった。
義銀が、横で小さく息を呑んだ。
勝家様が、何も言わずに私の肩へ手を置く。
止めるためではない。
支えるための手だった。
陳宗鉄は、土の文字をじっと見ていた。
何度も。
何度も。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その目が赤くなっていた。
承鋼が、堪えきれないように父を見た。
承明も、顔を歪める。
陳宗鉄は、枝を取った。
手が震えている。
それでも、土に書いた。
子不許。
承鋼、承明、不許我死。
少し間を置いて、さらに書く。
父、不可死。
母、不可失。
妻、不可失。
子、不可失。
腹中子、不可失。
その文字を見た瞬間、承鋼が顔を伏せた。
承明は、唇を噛みしめたまま、涙をこぼしていた。
私は、また涙が落ちそうになるのを堪えた。
父は死んではならない。
母を失ってはならない。
妻を失ってはならない。
子を失ってはならない。
腹の中の子も、失ってはならない。
だから、息子たちは父を海へ沈ませなかった。
木下殿が清洲で話していたという、船板のことを思い出した。
板に打ち込まれていた釘。
杭のような木片。
裂かれた衣。
船から落ちぬよう、身体を括りつけた跡。
私はそれを、ただ嵐の中で必死に生き延びた跡なのだと思っていた。
けれど、違った。
あれは、家族を失わせまいとした手の跡だったのだ。
父を。
母を。
妻を。
子を。
まだ生まれていない命を。
誰も喪わせまいとして、息子たちは釘を打った。
杭を打った。
裂いた衣で、家族の身体を船へ括りつけた。
その手が、承鋼と承明の手だったのだ。
私は、深く息を吸った。
「……生きていて、よかったです」
言葉は通じない。
けれど、声に出したかった。
義銀が、土に書く。
生、善。
陳宗鉄は、その文字を見て、両手を胸の前で組んだ。
右の拳を左の掌で包むようにして、深く身を折る。
その背は、老いていた。
けれど、生きていた。
私は、そのことに、どうしようもなく安堵していた。
聞き取りが終わる頃、私は少し疲れていた。
けれど、陳一家の過去は、ようやく少しだけ形になった。
彼らは、ただ流れ着いたのではない。
逃げてきた。
守ってきた。
失わないために、海を越えてきた。
陳宗鉄は、最後にもう一度、土に書いた。
黄瑞祥。
商人。
恩。
私は、その名を見つめた。
黄瑞祥。
馴染みの商人。
危険を知らせ、夜に逃がし、船への道を作った者。
この名は、消してはいけない。
「義銀」
「はい」
「この名は、もう一度、別に書き残してください」
「承知しました」
義銀は、静かに頷いた。
黄瑞祥。
その名が、丁寧に紙へ写される。
この時の私は、まだ知らなかった。
その名が、いつか再び海を越えて、尾張へ届くことを。
ただ、この日。
私は、土に書かれた名を見ながら思った。
人を救う縁は、時に海を越える。
ならば、この名も。
いつか、どこかへ届くのかもしれない。




