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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第四章 鬼柴田の妻と海を越えた鍛冶師

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第十八話 読み方、教えて

聞き取りが終わったあと、私は少し疲れていた。


陳一家が、なぜ海に出るしかなかったのか。


なぜ倭寇に財を渡したのか。


なぜ船に釘と杭を打ち、裂いた衣で身体を括りつけていたのか。


その理由を知ったからだ。


明の鉄匠。


西洋火器。


疑われた逆。


馴染みの商人、黄瑞祥。


荒れた海。


壊れた船。


我死、船軽。


その文字が、まだ目の奥に残っている。


私の父の手まで思い出してしまった。


大きく、少し皺のある手。


「藤乃は頭がいいな」と、優しく頭を撫でてくれた手。


父が亡くなってから、斯波家はさらに困窮した。


米は減り、人は離れ、兄上は苦しい顔を隠すようになった。


私は、甥たちを食べさせることばかり考えるようになった。


陳宗鉄が海に身を投げようとしたと知った時、私はその父のことを思い出してしまった。


父がいない寂しさを、私は知っている。


だから、陳宗鉄が生きていてよかったと、心から思った。


ただし。


於光様には、かなり心配された。


「藤乃様」


「はい」


「本日は、もう終わりです」


「はい」


「本当に終わりです」


「はい」


「紙も筆も持ちません」


「はい」


「土にも書きません」


「……はい」


少し遅れた。


於光様の目が細くなる。


「藤乃様」


「書きません」


「本当に?」


「本当にです」


私は両手を膝の上に置いた。


勝家様も、私をじっと見ている。


怖い。


いえ、心配してくださっているのは分かる。


分かるけれど、怖いものは怖い。


義銀は、書き留めた紙をまとめていた。


勝豊も、その横で確認している。


勝豊は、私が何か書こうとすると止める役をたいへん真面目に果たしていた。


とても優秀です。


少しだけ困ります。


そんな時だった。


小さな声がした。


「……あ」


振り返ると、王明玉の膝で眠っていた阿春が、目を覚ましていた。


まだ眠そうな顔をしている。


けれど、大きな目でこちらを見ていた。


王明玉が何か優しく声をかける。


阿春は母の袖を握ったまま、少しだけ身を起こした。


粥を食べ、眠り、少し元気が戻ったのかもしれない。


私は、思わず表情を緩めた。


「起きましたか」


当然、通じない。


けれど、阿春は私の声に反応した。


じっとこちらを見る。


それから、少し迷ったように、土の方へ目を向けた。


義銀が気づいて、枝を差し出す。


阿春は小さな手で枝を受け取った。


そして、ゆっくり土に書いた。


読、阿春。


私は、その文字を見た。


読。


阿春。


「阿春の読み方を知りたいのですか」


思わず口に出す。


通じない。


けれど、たぶんそうだ。


自分の名前。


この地の者が、自分をどう呼ぶのか。


それを知りたいのだ。


私は、胸がきゅっとなった。


この子は、もう学ぼうとしている。


怖い場所で。


知らない言葉の中で。


自分の名を呼んでもらう方法を知ろうとしている。


私は、土に書きたくなった。


とても書きたくなった。


しかし、於光様が見ている。


勝家様も見ている。


勝豊も見ている。


私は、義銀を見た。


「義銀」


「はい」


「書いてもらえますか」


「承知しました」


義銀は、土に書いた。


読方、教。


私は、阿春の方を向く。


「読み方、教えて」


ゆっくり言った。


「よみかた」


自分の口を指す。


「おしえて」


教えるように、土の文字を指す。


義銀も繰り返した。


「よみかた、おしえて」


阿春は、義銀の口元をじっと見た。


「よ……み……」


「よみかた」


「よみ……かた」


「教えて」


「おし……えて」


少しずつ。


たどたどしく。


けれど、確かに真似ている。


私は、思わず笑った。


「そうです」


阿春は、もう一度土を指した。


「よみかた、おしえて」


今度は、少しだけ通じる音になった。


王明玉が、口元を押さえた。


承鋼が目を見開いている。


承明は、小さく笑った。


陳宗鉄は、静かに目を伏せた。


泣いているようにも見えた。


私は、土に書かれた名を見た。


阿春。


「阿春」


私は、ゆっくり読んだ。


「あしゅん」


日本の音で読むなら、そうなるだろう。


けれど、それがこの子の本当の音ではないかもしれない。


私は、阿春を指した。


「あしゅん」


阿春は、自分を指した。


「あ……しゅん?」


「はい」


私は頷く。


「あしゅん」


阿春は、少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


けれど、その笑みは、この柴田邸に来てから初めて見た幼い笑みだった。


その瞬間、私は思った。


言葉は、道だ。


名前は、その道の最初の杭だ。


誰かを呼ぶ。


呼ばれて、返事をする。


それだけで、人は少し、この場所に立てるようになる。


阿春は、もう一度言った。


「よみかた、おしえて」


すると、王明玉がそっと手を上げた。


自分を指し、少し迷いながら言う。


「よみかた……おしえて」


私は目を瞬いた。


王明玉は、自分の名を土に書いた。


王明玉。


義銀が読み上げる前に、私はゆっくり言った。


「おう、めいぎょく」


王明玉は、口元に手を当てた。


「おう……めい……ぎょく」


「はい。王明玉」


彼女は少し照れたように笑った。


承鋼が、その隣で妻を見ていた。


緊張していた顔が、少しだけ柔らかくなる。


すると、林玉蘭も静かに手を上げた。


老いた手で、自分の胸を指す。


それから、ゆっくり言った。


「よみかた、おしえて」


私は、思わず胸が温かくなった。


「はい」


義銀が土の名を指す。


林玉蘭。


「りん、ぎょくらん」


林玉蘭は、ゆっくり繰り返した。


「りん……ぎょく……らん」


少し違う。


けれど、音を掴もうとしている。


「はい。林玉蘭」


林玉蘭は、胸の前で両手を組みかけたが、私が休むようにと言ったことを思い出したのか、途中で止めた。


そして、ただ静かに微笑んだ。


次に、横になっていた李雪蘭が、少しだけ身を起こそうとした。


産婆がすぐに止める。


「起きなくてよろしい」


言葉は通じないが、圧は通じる。


李雪蘭は少し困った顔で、横になったまま手を上げた。


「よみかた……おしえて」


小さな声だった。


私は頷く。


「り、せつらん」


李雪蘭は、腹に手を添えながら繰り返した。


「り……せつ……らん」


「はい。李雪蘭」


その声を聞いて、承明の顔が少し緩んだ。


妻の名が、この地の音で呼ばれた。


ただそれだけなのに、彼には大きなことだったのだろう。


最後に、陳宗鉄が枝を取った。


自分の名をもう一度土に書く。


陳宗鉄。


そして、こちらを見た。


「よみかた、おしえて」


発音は、たどたどしかった。


けれど、はっきりしていた。


私は、背筋を伸ばした。


「ちん、そうてつ」


陳宗鉄は、じっと私の口元を見た。


「ちん……そう……てつ」


「はい。陳宗鉄」


陳宗鉄は、何度かその音を口の中で転がすように呟いた。


それから、胸の前で両手を組み、深く身を折った。


今度は止めなかった。


これは、彼にとって必要な礼なのだと思ったからだ。


承鋼も自分の名を指した。


陳承鋼。


「ちん、しょうこう」


「ちん……しょう……こう」


承明も続く。


陳承明。


「ちん、しょうめい」


「ちん……しょう……めい」


二人は、互いの名を聞き合って、少しだけ照れたような顔をした。


不思議な光景だった。


自分の名なのに、別の音で呼ばれる。


それを、何度も確かめる。


まるで、この地にもう一つの名札を作っていくようだった。


私は、ひとりひとりの名を、もう一度ゆっくり呼んだ。


「陳宗鉄」


「林玉蘭」


「陳承鋼」


「王明玉」


「阿春」


「陳承明」


「李雪蘭」


そして、少しだけ迷ってから、李雪蘭の腹に視線を向ける。


「腹の子は……まだですね」


義銀が、土に書く。


腹中子、名、後。


名は後で。


それを見た李雪蘭が、柔らかく笑った。


承明も、腹にそっと手を当てる妻を見て、静かに頷いた。


その時、阿春が私を指した。


「よみかた、おしえて」


私は、少し驚いた。


「私ですか」


阿春は、こくりと頷いた。


私は自分の胸に手を当てた。


「藤乃」


義銀が土に書く。


藤乃。


「ふじの」


阿春は、じっと私の口元を見た。


「ふ……じ……の」


「はい。藤乃です」


阿春は、得意げに笑った。


「ふじの」


その声に、胸の奥がふわりと温かくなる。


私の名が、異国の幼子の口から出た。


ただそれだけなのに、不思議と嬉しかった。


勝家様が、横で低く言った。


「長くはするな」


「はい」


於光様も続ける。


「藤乃様、そろそろ休憩です」


「はい」


私は素直に頷いた。


本当に素直に。


今日は、十分だった。


重い話を聞いた。


泣いた。


父を思い出した。


黄瑞祥という名を書き残した。


そして今、陳一家の名を呼んだ。


それだけで、十分すぎるほどだった。


「今日は、ここまで」


私は言った。


義銀が土に書く。


今日、終。


また、後。


陳宗鉄が、それを読む。


そして、ゆっくり顔を上げた。


何かを言おうとしている。


承鋼と承明も、顔を見合わせた。


林玉蘭が、王明玉の背をそっと押す。


李雪蘭も、横になったまま微笑んでいる。


阿春が、まず小さく言った。


「あ……り……がと」


私は息を止めた。


承鋼が続く。


「あり……がとう」


承明も。


「ありがとう」


王明玉が、少し照れながら。


「ありがとう」


林玉蘭が、ゆっくり。


「ありがとう」


李雪蘭も、柔らかな声で。


「ありがとう」


最後に、陳宗鉄が両手を胸の前で組み、深く身を折った。


「ありがとう」


それは、たどたどしい音だった。


けれど、確かに日本語だった。


私は、胸がいっぱいになった。


「どういたしまして」


そう返してから、すぐに思った。


しまった。


次はこれを教えなければならないかもしれない。


すると、阿春が首を傾げた。


「どう……?」


私は、思わず口を押さえた。


勝家様が低く言う。


「お藤」


「はい」


「今日は終いだ」


「はい」


於光様も、すかさず頷いた。


「続きは明日です」


「はい」


私は、名残惜しさを飲み込んだ。


陳一家は、また胸の前で手を組み、こちらへ身を折った。


日本の礼ではない。


けれど、もう見慣れ始めた礼だった。


この家に、少しずつ新しい音が増えていく。


われ、かじし。


よみかた、おしえて。


ふじの。


ありがとう。


そのたどたどしい言葉たちが、柴田邸の離れに小さく残った。


柴田邸は、また忙しなくなった。


けれど、その忙しさの中に、今日は優しい音が混じっていた。


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