第十二話 問いは釘より先に打たれます
兄上が、大笑いしていた。
「ははははははは!」
清洲城の一角に、兄上の笑い声が響く。
私は、思わず額を押さえた。
笑い事ではない。
少なくとも、目の前にいる柴田権六の顔を見る限り、笑い事ではない。
権六は、朝から清洲へ来ていた。
いつものように大きい。
いつものように無骨である。
そして、いつも以上に顔が怖かった。
ただでさえ怖い顔が、今日はさらに怖い。
理由は、すぐに分かった。
権六は、懐と袂から何枚もの紙を取り出し、兄上の前へ置いた。
「お藤が書きました」
声が低い。
たいへん低い。
「ほう」
兄上は、紙を手に取った。
「産後二月で、寝ろと言われていたはずだが」
「寝ろと言いました」
「寝なかったか」
「寝ませんでした」
「それで、これか」
「これです」
権六の返事は短い。
しかし、その短さに怒りが詰まっている。
私は、紙へ視線を落とした。
そこには、見慣れぬようで、見慣れたような文字が並んでいた。
右に、明の者たちへ見せるためらしい問い。
左に、こちら側が読むための意味。
汝等姓名。――名を聞く。
汝等相係何。――続柄を聞く。
可作何物。――作れる物を聞く。
西洋火器、曾拆乎。――西洋火器を解いたことがあるか。
尾張住願乎。――尾張に住む意思があるか。
無理不可。――無理をしてはいけない。
私は、目を瞬いた。
これは。
とても分かりやすい。
問いがあり、意味がある。
答え方も書いてある。
可。
不可。
有。
無。
願。
不願。
是。
否。
これなら、言葉が通じなくても、指で示せる。
印をつけられる。
書き足せる。
明の者たちだけではない。
こちら側の者も、何を聞いているのか分かる。
兄上は、その紙を一枚、また一枚とめくった。
そして、さらに笑った。
「ははははは! お藤め! 寝ろと言われて、問いを増やしたか!」
「兄上」
私は、つい口を挟んだ。
「笑い事ではありません」
「笑い事だろう」
「産後二月の方が、夜通し書いたのですよ」
「そこは笑い事ではない」
兄上は、あっさりと言った。
「だが、この紙は笑うしかない」
「兄上」
「信行、見よ」
兄上は、紙を掲げた。
「お藤は、動けぬなら紙を動かした」
その言葉に、私は黙った。
確かに。
藤の方は、今は清洲へ来られない。
いや、来させてはいけない。
産後二月である。
紫乃姫もおられる。
藤七丸もまだ幼い。
それなのに、藤の方は問いを並べた。
自分が動けない代わりに。
紙を、清洲へ送ったのだ。
権六の顔は、なおも怖い。
「殿」
「何だ、権六」
「お藤は寝かせてきました」
「そうか」
「姉上……於光には、まだ知らせておりません」
「知らせたらどうなる」
「たいへん叱られるでしょう」
「お藤がか」
「まず、お藤が」
「次に?」
「某が」
兄上は、また笑った。
「ははははは! 権六も叱られるか!」
「殿が笑うからです」
権六の声は、さらに低くなった。
私は、兄上の横でそっと息を吐いた。
本当に、笑い事ではない。
けれど、兄上が笑うのも分からなくはなかった。
この紙は、藤の方らしすぎる。
無理をするなと言われ。
紙を持つなと言われ。
筆も持つなと言われ。
それでも、炭で問いを書いた。
しかも、右に問い。
左に意味。
答え方まで書いてある。
用意が良すぎる。
そして、実用的すぎる。
「義銀」
兄上が呼ぶと、控えていた義銀殿が頭を下げた。
「はい」
「これを持っていけ」
「承知いたしました」
「ただし、問う順を違えるな」
「はい」
「まず、名と続柄」
「はい」
「次に出自と船」
「はい」
「その後に作れる物」
「はい」
「火器は、その後だ」
「承知いたしました」
兄上は、紙を義銀殿へ渡した。
「権六」
「はっ」
「そなたも来い」
「はっ」
「猿も呼べ」
「すでに控えております」
そう答えたのは、私だった。
木下藤吉郎は、少し離れたところで平伏していた。
昨日よりは落ち着いている。
だが、どこかそわそわしている。
あの明の一団を拾った者として、気が気ではないのだろう。
「猿」
兄上が呼ぶ。
「はっ!」
「声」
「はっ」
少し小さくなった。
「今日も勝手に決めるな」
「肝に銘じております」
「よし」
兄上は立ち上がった。
「では、問いを持っていくぞ」
白い布に囲われた場所へ向かうと、明の一団はすでに起きていた。
女と子、年寄りは休ませている。
腹の大きな女のそばには、産婆がついていた。
若い男二人は、少し離れた場所に座っている。
縄はない。
だが、見張りはいる。
昨日と同じだ。
老いた男が、こちらを見た。
その目には、まだ警戒がある。
それでも、昨日よりは少しだけ落ち着いているように見えた。
義銀殿が、紙を広げた。
藤の方の問いの紙。
まずは一枚目。
汝等姓名。――名を聞く。
汝等相係何。――続柄を聞く。
義銀殿は、紙の文字を見せる。
それから、自分の胸を指し、昨日と同じように土に書いた。
我、義銀。
次に、若い男二人を指す。
我、承鋼。
我、承明。
二人は頷いた。
昨日、すでに互いに名を示していたからだろう。
義銀殿は、老いた男を指した。
そして、紙の問いを指す。
汝等姓名。
名を聞く。
老いた男は、じっと紙を見た。
藤の方が書いた問いと、その横に添えられた意味。
もちろん、日本語の方は読めないはずだ。
けれど、問いの意味は拾えたらしい。
老いた男は枝を取り、土に書いた。
我、陳宗鉄。
妻、林玉蘭。
長子、陳承鋼。
次子、陳承明。
承鋼妻、王明玉。
承鋼子、阿春。
承明妻、李雪蘭。
雪蘭腹中有子。
義銀殿が、その文字を一つずつ写していく。
私は、その様子を見ながら、胸の内で小さく頷いた。
これで、ようやく分かった。
老いた男は、陳宗鉄。
妻は林玉蘭。
若い男二人は、息子。
承鋼が長男。
承明が次男。
幼子は承鋼の子。
腹の大きな女は、承明の妻、李雪蘭。
そして、腹の中に子がいる。
藤の方が言っていたことを思い出す。
分かっていることと、推測を分けるべきです。
その通りだった。
私たちは、彼らを家族らしい一団として見ていた。
だが、家族らしいことと、誰が誰であるかを確認したことは違う。
名と続柄が、ようやく記録になった。
義銀殿は、土の文字を写し終えると、確認するように一つずつ指した。
「陳宗鉄」
発音は違う。
老いた男は、それでも自分の胸に手を当てた。
「……ちん、そうてつ」
少し違う。
けれど、分かる。
義銀殿は頷いた。
「林玉蘭」
老いた女が、驚いたように顔を上げる。
そして、胸に手を当てた。
次々に名を示していく。
承鋼。
承明。
王明玉。
阿春。
李雪蘭。
腹の子は、まだ名がない。
そこまで確認して、義銀殿は紙の次を示した。
汝等何處人。――明のどこの者か。
明國何地。――明国の地名を聞く。
何處上船。――どこから船に乗ったか。
船主誰。――船の持ち主は誰か。
倭寇関係有乎。――倭寇と関わりがあるか。
陳宗鉄は、少し顔を曇らせた。
倭寇。
その文字があるからだろう。
承鋼と承明も、わずかに身体を固くした。
それでも、陳宗鉄は土に書いた。
明國福建。
泉州近地。
夜上船。
財與倭寇。
求逃。
非同賊。
義銀殿は、慎重に写す。
私も、横から紙を見る。
明国、福建。
泉州の近く。
夜、船に乗った。
財を倭寇に与えた。
逃げることを求めた。
賊と同じではない。
そういう意味だろう。
木下藤吉郎が、拳を握った。
「やはり、倭寇そのものではないのですな」
「まだ断じるな、猿」
兄上が低く言った。
「はっ」
藤吉郎は、すぐに頭を下げる。
「書いてあることは、向こうの言い分じゃ」
「はっ」
「だが、聞く値はある」
兄上の声は冷静だった。
次に、義銀殿は三枚目を示した。
可作何物。――作れる物を聞く。
釘可作乎。――釘は作れるか。
鍬可作乎。――鍬は作れるか。
鎌可作乎。――鎌は作れるか。
包丁可作乎。――包丁は作れるか。
鍋釜可作乎。――鍋、釜は作れるか。
車輪鐵可作乎。――車輪の鉄は作れるか。
船釘可作乎。――船釘は作れるか。
戸金具可作乎。――戸の金具は作れるか。
農具刃可作乎。――農具の刃は作れるか。
不可作何物。――作れない物を聞く。
要何道具。――必要な道具を聞く。
要何鐵。――必要な鉄を聞く。
承鋼と承明の目が変わった。
昨日より、はっきりと。
これは自分たちの話だと分かったのだろう。
承鋼が、紙の上の一つ一つを見て、土に書いていく。
釘、可。
鍬、可。
鎌、可。
包丁、可。
鍋釜、可。
車輪鐵、可。
船釘、可。
戸金具、可。
農具刃、可。
大刀、不可。
甲、不可。
火器、未可。
最後の三つで、私は目を止めた。
大刀は不可。
甲は不可。
火器は、まだ可ではない。
つまり、何でもできるとは言わなかった。
この地で生きたいなら、できると言った方が有利だろう。
それなのに、できないものをできないと書いた。
そこに、少し信用できるものがあった。
兄上も同じことを思ったのか、目を細めている。
「ほう」
兄上が呟いた。
「何でも可とは書かぬか」
承明が、さらに土へ書き足した。
要火。
要鐵。
要槌。
要砧。
要水。
要炭。
義銀殿が写していく。
火。
鉄。
槌。
砧。
水。
炭。
道具の名が並ぶ。
権六が、低く言った。
「鍛冶場が要るな」
「うむ」
兄上が頷く。
「だが、まだ火を持たせるには早い」
「当然にございます」
権六の声は硬い。
藤の方が寝ずに作った紙を持ってきた怒りは、まだ消えていないのだろう。
だが、その目は真剣に紙を見ていた。
怒っていても、仕事は見る。
権六は、そういう方である。
次に、火器の紙が開かれた。
白い布の内側の空気が、明らかに変わった。
佛郎機火器、曾見乎。――西洋火器を見たことがあるか。
曾拆乎。――解いたことがあるか。
曾作乎。――作ったことがあるか。
已成乎。――完成したか。
未成乎。――未完成か。
何處知。――どこまで知っているか。
火藥知乎。――火薬を知っているか。
筒知乎。――筒を知っているか。
火入仕組知乎。――火を入れる仕組みを知っているか。
玉知乎。――玉について知っているか。
承鋼と承明は、顔を見合わせた。
陳宗鉄は、目を伏せた。
この問いが、彼らにとってどれほど重いものか。
私は、その沈黙だけで少し分かった。
彼らは、この火器のことで追われたのだ。
藤の方が土の文字から拾った通りならば。
承明が、震える手で枝を取った。
だが、承鋼がその手を押さえた。
二人は短く言葉を交わす。
早くて、もちろん分からない。
やがて、陳宗鉄が深く頷いた。
承鋼が土に書いた。
曾見、有。
曾拆、有。
曾作、有。
已成、無。
未成、有。
火藥、少知。
筒、知。
火入、半知。
玉、知。
危。
最後の一字で、場が静かになった。
危。
危うい。
彼らは、火器を見た。
解いた。
作ろうとした。
完成はしていない。
火薬は少し知る。
筒は知る。
火を入れる仕組みは半ば知る。
玉は知る。
そして、危ういと書いた。
兄上は、その文字をじっと見ていた。
「未成か」
落胆した声ではなかった。
むしろ、面白がっている声だった。
「完成しておらぬなら、こちらで育てればよい」
「兄上」
私は思わず呼んだ。
「軽くおっしゃいますが」
「軽くはない」
兄上は言った。
「だから、まず釘じゃ」
その言葉に、私は黙った。
兄上は、火器の文字を見ている。
けれど、すぐに火器へ飛びつかない。
釘で手を見る。
嘘を見分ける。
暮らしの鉄を打てるか見る。
その上で、火器の話に進む。
恐ろしいほど早く、筋を立てておられる。
次に、尾張に関する紙が開かれた。
此地働願乎。――この地で働く意思があるか。
尾張住願乎。――尾張に住む意思があるか。
明國帰願乎。――明へ帰りたいか。
他處行願乎。――他の地へ行きたいか。
逃亡無乎。――逃げるつもりはないか。
約守乎。――約束を守れるか。
勝手火鐵不可。――勝手に火や鉄を扱ってはいけない。
道具持出不可。――道具を持ち出してはいけない。
病隠不可。――病を隠してはいけない。
傷隠不可。――怪我を隠してはいけない。
承明が、紙の一行を指した。
尾張住願乎。――尾張に住む意思があるか。
その横には、藤の方の手で小さく日本語が添えられている。
尾張に住む意思があるか。
問いとしては、分かりやすい。
だが、承明は眉を寄せた。
承鋼も、同じ文字を見ている。
尾張。
その二字の前で、二人の目が止まっていた。
承明が枝を取り、土に書く。
尾張、何。
私は、その文字を見て、ああ、と思った。
そうだ。
この者たちは、尾張を知らない。
ここが何という地なのかも知らない。
藤の方の問いは正しい。
だが、問いの中にある地名を、相手が知っているとは限らない。
私がそう思った時には、義銀殿がすでに動いていた。
義銀殿は、承明の書いた文字の横に、枝で書いた。
尾張、此地。
それから、紙に書かれた「尾張」の二字を指差した。
「おわり」
ゆっくりと、はっきり発音する。
次に、自分たちの足元を指した。
白い布に囲われたこの場所。
その向こうにある清洲。
そして、この国。
義銀殿は、もう一度「尾張」の文字を指差す。
「おわり」
承鋼と承明は、義銀殿の口元をじっと見た。
承明が、小さく真似をする。
「お……わり」
音は違う。
だが、覚えようとしている。
義銀殿は頷き、さらに土に書いた。
此地名、尾張。
この地の名は、尾張。
承鋼は、その文字をしばらく見つめていた。
それから、紙の問いへ視線を戻す。
尾張住願乎。
尾張に住む意思があるか。
今度は、意味が通じたのだろう。
承鋼は承明を見た。
承明は、陳宗鉄を見る。
陳宗鉄は、しばらく目を伏せた。
そして、震える手で紙の端に印をつけた。
願。
尾張。
此地。
この地に住むことを、彼らは望むと答えた。
私は、義銀殿を見た。
義銀殿は、ただ静かにその印を紙へ写している。
誇るでもなく。
慌てるでもなく。
足りなかった言葉を補い、相手が理解できるように置き直し、答えを記録している。
……なるほど。
兄上が義銀殿をそばに置くわけだ。
藤の方の教えを受け、文字を扱え、場を見て、足りぬものに気づける。
そして、気づいたらすぐに動ける。
この臨機応変さは、兄上の側近に向いている。
私は、しみじみそう思った。
その後も、問いは続いた。
此地働願乎。
この地で働く意思があるか。
陳宗鉄は、願と印をつけた。
さらに、土に書いた。
願働。
願守約。
願生。
働きたい。
約を守りたい。
生きたい。
そういう意味だろう。
木下藤吉郎が、ぐっと拳を握った。
何か言いたそうだった。
だが、兄上に叱られた記憶があるのだろう。
勝手には口を出さなかった。
よろしい。
成長している。
少しずつだが。
病や怪我についての紙も確認した。
婦腹痛有乎。――妊婦に腹痛はあるか。
食可。――食べること。
眠可。――眠ること。
無理不可。――無理をしてはいけない。
李雪蘭は、腹を庇いながら首を横に振った。
陳宗鉄が土に書く。
腹痛、無。
疲、有。
眠要。
腹痛はない。
疲れはある。
眠りが必要。
それを見た産婆が、こちらの言葉で強く言った。
「ならば、休ませるべきです」
当然である。
兄上も頷いた。
「女と子は、これ以上問うな」
「はい」
義銀殿が頭を下げる。
「雪蘭には休ませよ。腹の子がある」
兄上はそう命じた。
承明が、その言葉の意味を完全には分からずとも、何かを感じ取ったのだろう。
深く頭を下げた。
すべての問いが終わる頃には、日が高くなっていた。
藤の方の問いの紙は、六枚。
怪しい漢字もあった。
変な言い回しもあった。
それでも、役に立った。
いや、非常に役に立った。
名が分かった。
続柄が分かった。
出身地が分かった。
船のことが分かった。
倭寇に財を渡したが、同じ賊ではないと主張していることが分かった。
作れるものが分かった。
作れないものが分かった。
火器について、どこまで知っているか分かった。
尾張を、この地として理解させた。
そして、この地で生き、働き、約を守りたいという意思を示させた。
兄上は、しばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「よし」
全員が顔を上げる。
兄上は、土に残る文字と、紙に残された印を見た。
「まず、釘を打たせる」
木下藤吉郎が、顔を輝かせた。
権六の眉間の皺は、少しだけ深くなった。
だが、反対はしなかった。
「場所は隔てる」
兄上が続ける。
「火を扱わせる。見張りを増やせ。道具は必要なものだけ。鉄も少量。女と子は近づけるな」
「承知しました」
私は頭を下げた。
「信行」
「はい」
「そなたが場を整えよ」
「承知しました」
「義銀」
「はい」
「書き残せ」
「はい」
「猿」
「はっ」
「走るな」
「はっ」
「権六」
「はっ」
兄上は、少しだけ笑った。
「お藤に伝えよ。役に立ったとな」
権六は、低く答えた。
「寝ていれば、伝えます」
兄上は、また笑った。
「まだ怒っておるな」
「怒っております」
「であろうな」
私は、藤の方の紙を見た。
右に、問い。
左に、意味。
ところどころ怪しい文字。
炭で書かれた跡。
夜通しで書いたのだと分かる乱れ。
だが、その乱れた問いは、たしかに道を作った。
火器へ飛びつく前に。
異国の者たちを疑うだけで終わらせる前に。
まず、名を聞き。
続柄を確かめ。
できることとできないことを分け。
生きる意思を尋ねた。
藤の方が夜通しで並べた問いは、釘より先に打たれた。
言葉の通じない者たちと尾張との間に、最初の小さな留め金を打ったのである。




