第十一話 確認票は夜に増えます
義銀が帰った後、部屋はようやく静かになった。
藤七丸はもう眠っている。
紫乃も眠っている。
勝豊も下がった。
於光様と八右衛門殿も、私に休むよう念を押してから部屋を出た。
勝家様だけが、少し離れたところに座っていた。
「お藤」
「はい」
「寝ろ」
「はい」
「紙は持つな」
「はい」
「筆も持つな」
「はい」
「考えすぎるな」
「……はい」
少し間が空いた。
勝家様の目が細くなる。
「お藤」
「はい。考えすぎません」
私は素直に布団へ横になった。
勝家様は、しばらく私を見ていた。
そして、紫乃の寝息を確かめるように視線を向ける。
「少し外す」
「はい」
「戻るまで寝ていろ」
「はい」
そう言って、勝家様は部屋を出た。
私は目を閉じた。
寝る。
寝ます。
寝るつもりです。
そう思っていた。
思っていたのだが。
ふと、頭の中に一つの考えが浮かんだ。
問いを、口で伝えるのは難しい。
義銀が土に書くとしても、一つずつ聞いて、一つずつ答えてもらうのは時間がかかる。
それに、相手も疲れる。
こちらも疲れる。
なにより、義銀が大変です。
ならば。
最初から、紙に問いを書いて渡せばよいのでは。
選んで答えられるようにすればよいのでは。
はい。
いいえ。
できる。
できない。
作れるものに印をつける。
名前を書く。
続柄を書く。
出身を書く。
この地に残りたいか。
明に戻りたいか。
ここで働く気があるか。
約定を守れるか。
そういう形なら、言葉が少なくても答えられるのでは。
「……アンケート方式」
思わず呟いた。
しまった。
声に出た。
けれど、誰もいない。
勝家様も部屋を出ている。
於光様もいない。
八右衛門殿もいない。
紙も筆も取り上げられている。
……と思ったのですが。
布団の脇に、藤七丸が昼間に遊んでいた小さな木札と、使い残しの紙片が一枚あった。
なぜあるのでしょう。
いえ。
これはきっと偶然です。
偶然なら仕方ありません。
私は、ゆっくり起き上がった。
筆はない。
しかし、薄い炭が火鉢のそばにある。
……いえ。
これはいけない。
いけないのですが。
明日のために必要です。
少しだけ。
少しだけです。
私は紙片を手に取り、なんちゃって中国語で問いを書き始めた。
まずは、答え方から。
可。
不可。
有。
無。
願。
不願。
知。
不知。
作。
不作。
これなら、丸をつけるなり、指を差すなりできるのではないでしょうか。
良い。
とても良い。
次に、問い。
汝等姓名。
汝等關係。
父乎。
母乎。
兄弟乎。
夫婦乎。
子乎。
孫乎。
ここで、私は少し手を止めた。
父乎。
母乎。
兄弟乎。
夫婦乎。
子乎。
孫乎。
文法が合っている自信はありません。
けれど、意味は何となく拾えるはずです。
たぶん。
いや、拾ってください。
お願いします。
次に、出身。
汝等何處人。
明國何地。
何處出海。
船誰物。
倭寇關係有乎。
金與倭寇乎。
倭寇害汝等乎。
書いていて、だんだん怪しくなってきた。
倭寇害汝等乎、とは何でしょうか。
しかし、意味は分かるのではないでしょうか。
倭寇があなたたちを害したのか。
倭寇に金を渡したのか。
倭寇と仲間なのか。
ここは大事です。
とても大事。
次に、作れるもの。
可作何物。
釘可作乎。
鍬可作乎。
鎌可作乎。
包丁可作乎。
鍋可作乎。
釜可作乎。
蝶番可作乎。
車輪鐵可作乎。
船釘可作乎。
農具刃可作乎。
刀可作乎。
槍可作乎。
ここで、私は少し考えた。
武器についても聞くべきでしょう。
けれど、いきなり武器を作らせる話ではない。
あくまで、知っているかどうか。
作れるかどうか。
そして、作れないものも。
不可作何物。
必要道具有乎。
必要鐵有乎。
火必要乎。
炭必要乎。
これは、かなり雑です。
でも、たぶん分かる。
たぶん。
そして、一番慎重に聞くべきこと。
西洋火器。
私は、紙片の端に小さく息を吹きかけ、炭の粉を払った。
西洋火器、曾見乎。
曾拆乎。
曾作乎。
已成乎。
未成乎。
筒知乎。
火入處知乎。
火藥知乎。
玉知乎。
危險有乎。
他人知乎。
誰見乎。
どんどん怪しい。
だが、ここは聞かねばならない。
西洋の火器を見たのか。
解体したのか。
作ったのか。
完成したのか。
完成しなかったのか。
筒を知っているのか。
火を入れる場所を知っているのか。
火薬を知っているのか。
玉を知っているのか。
危険を知っているのか。
誰が見たのか。
誰が知っているのか。
信長様は、きっと知りたいはずだ。
勝家様も。
信行様も。
そして、これを雑に扱えば危ない。
たいへん危ない。
次に、この地で生きる意思。
尾張住願乎。
此地働願乎。
明國歸願乎。
他處行願乎。
織田殿下守願乎。
約守乎。
逃亡無乎。
勝手火不可。
勝手鐵不可。
道具持出不可。
病隠不可。
傷隠不可。
婦腹痛即言。
食急不可。
眠必要。
無理不可。
最後の方は、ほとんど私の言いたいことです。
いや、かなり私の言いたいことです。
婦腹痛即言。
腹の大きな女に痛みがあれば、すぐに言う。
食急不可。
急に食べてはいけない。
眠必要。
眠ることは必要。
無理不可。
無理は駄目。
……これは、私にも言われていることですね。
一瞬、於光様の顔が浮かんだ。
八右衛門殿の顔も浮かんだ。
勝家様の顔も浮かんだ。
私は、少しだけ目を逸らした。
紙から。
いえ、誰もいないのに。
私は悪くありません。
これは大事な確認票です。
私は、さらに小さく書き足した。
婦、子、老人、先休。
これも大事です。
女、子、老人は先に休ませる。
意味が通じるかは分かりません。
けれど、通じてほしい。
途中から、かなり怪しい。
働、などと混ぜてしまっている。
尾張住願乎、とは何でしょうか。
文法は、たぶんおかしい。
いや、確実におかしい。
けれど、意味は拾えるかもしれない。
藤乃式なんちゃって中国語。
漢文とも中国語とも言いきれない何かである。
私は、書き上げた紙片を見て、少しだけ満足した。
良いのでは。
とても良いのでは。
これなら、義銀が一つずつ聞かなくても済む。
承鋼殿や承明殿が読めば、答えられるかもしれない。
父と思われる老いた方も、文字を書ける。
ならば、紙に書けばいい。
最初から、そうすればよかったのでは。
私は、紙片を畳もうとした。
その瞬間だった。
「お藤」
背後から低い声がした。
私は固まった。
とても固まった。
ゆっくり振り返る。
勝家様が立っていた。
いつ戻られたのでしょうか。
足音がしませんでした。
鬼ですか。
いえ、鬼柴田でした。
「お藤」
「はい」
「寝ていろと言った」
「はい」
「紙は持つなとも言った」
「はい」
「筆も持つなと言った」
「炭です」
「お藤」
「はい」
言い訳は通じませんでした。
勝家様は近づき、私の手元の紙を見た。
そこに並ぶ、たいへん怪しい文字たち。
汝等姓名。
汝等關係。
可作何物。
西洋火器、曾作乎。
尾張住願乎。
無理不可。
勝家様は、しばらく黙っていた。
かなり長く黙っていた。
それから、深く息を吐いた。
「……何だ、これは」
「確認票です」
「確認票」
「相手に答えていただく形にすれば、早いかと」
「お藤」
「はい」
「寝ろ」
「ですが」
「寝ろ」
「はい」
勝家様は、紙をそっと取り上げた。
取り上げた。
また取り上げられました。
しかし今度は、破られなかった。
勝家様は、その紙を丁寧に畳んだ。
「これは、某が清洲へ持っていく」
「勝家様が?」
「うむ」
「でも」
「お前は寝ろ」
「……はい」
勝家様は、私を布団へ戻した。
本当に、そっと。
まるで紫乃を寝かせる時のように。
布団をかけられる。
肩まで。
しっかりと。
「勝家様」
「何だ」
「役に立つと思います」
「であろうな」
意外な返事だった。
私は目を瞬いた。
勝家様は、畳んだ紙を懐に入れた。
「だから、某が持っていく」
「はい」
「お前は寝る」
「はい」
「朝まで起きるな」
「……はい」
勝家様の目が細くなる。
「お藤」
「朝まで寝ます」
「よし」
勝家様は、紫乃の寝息を確かめ、私の布団をもう一度整えた。
そして、低く言った。
「行ってくる」
「今からですか」
「朝、清洲へ向かう。支度をする」
「はい」
「お前は来るな」
「分かっています」
「本当だな」
「本当です」
「輿も出さぬ」
「……分かっています」
少し考えたのが、ばれた。
勝家様は、呆れたように息を吐いた。
けれど、その目は少しだけ柔らかかった。
「お前の問いは、某が届ける」
「はい」
「だから寝ろ」
「はい」
私は目を閉じた。
今度こそ、本当に。
清洲の白い布。
土に書かれた文字。
釘、我打。
そして、私の書いた怪しい確認票。
それらが頭の中をぐるぐると回る。
けれど、勝家様の気配がそばにある。
紫乃の寝息がある。
遠くで、藤七丸が寝返りを打つ小さな音がした。
私は、ようやく力を抜いた。
翌朝。
目を覚ました時、勝家様はすでに支度を整えていた。
懐には、昨夜の紙が入っている。
私が書いた、なんちゃって中国語の確認票。
それを持って、鬼柴田が清洲へ行く。
……どういう状況でしょうか。
自分で書いたのに、少しだけ頭を抱えたくなった。
勝家様は、そんな私を見て言った。
「寝ていろ」
「はい」
「清洲へは、某が行く」
「はい」
「お前の紙は、渡す」
「お願いします」
勝家様は短く頷いた。
そして、襖の方へ向かう。
「勝家様」
私が呼ぶと、勝家様は振り返った。
「何だ」
「いってらっしゃいませ」
勝家様は、一瞬だけ目を細めた。
それから、静かに言った。
「行ってくる」
そうして、勝家様は清洲へ向かった。
私を布団に寝かせたまま。
なんちゃって中国語の確認票を懐に入れて。
本当に。
どうしてこうなるのでしょうか。
けれど、少なくとも。
問いは、清洲へ向かう。
ならば今は、寝るしかない。
私は、紫乃の寝息を聞きながら、もう一度布団に身を沈めた。




