第八話 帰ったらまず湯浴みです
柴田邸へ戻った瞬間、私は出迎えの声を聞いた。
「ははうえ!」
藤七丸の声だった。
その声を聞いただけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
帰ってきた。
そう思った。
清洲の庭に張られた白い陣幕。
震える異国の家族。
土に書かれた文字。
明国。
鉄匠。
佛郎機の火器。
逆。
妻媳孫無罪。
腹中孫亦無罪。
願救吾家。
それらの文字が、まだ目の奥に残っている。
けれど、柴田邸へ戻った途端、私の耳に届いたのは、幼い息子の声だった。
「ははうえ!」
藤七丸が、こちらへ駆け出そうとした。
私も、思わず手を伸ばしかける。
抱きしめたい。
ただいまと言いたい。
紫乃は大丈夫だったかと聞きたい。
藤七丸の頭を撫でたい。
けれど、その前に。
「藤七丸様」
於光様の声が、静かに響いた。
藤七丸が、ぴたりと止まった。
見事な止まり方である。
さすが、柴田邸の子。
いえ、今は感心している場合ではない。
於光様は、藤七丸の前にそっと膝をついた。
「藤乃様は、まだ湯浴みを済ませておりません」
「ゆあみ」
「はい。お約束でございますね」
藤七丸は、こちらを見た。
目が揺れている。
来たい。
けれど、来てはいけない。
幼い顔に、そう書いてあった。
私の胸が、少し痛んだ。
「藤七丸」
「はい」
「母上は、先に湯浴みをしてきます」
「ははうえ、あらわれる?」
「はい。たくさん洗われてきます」
「たくさん」
「とても、たくさん」
そう言うと、藤七丸は少しだけ目を丸くした。
勝家様が、その後ろにいた。
腕の中には紫乃がいる。
勝家様は、いつものように大きく、無骨で、戦場では鬼柴田と呼ばれる方である。
その方が、小さな紫乃を抱いている。
しかも、たいへん慎重に。
とても慎重に。
まるで、少しでも力を入れたら壊れてしまう宝物を抱えているようだった。
紫乃は、勝家様の腕の中ですやすやと眠っている。
……慣れてきましたね、勝家様。
そう思った瞬間、勝家様と目が合った。
「お藤」
「はい」
「顔色が悪い」
開口一番、それである。
ただいま、ではありませんか。
いえ、ただいまは私が言うべきですね。
「ただいま戻りました」
「うむ」
「約束通り、紫乃にも藤七丸にも、まだ触れておりません」
「うむ」
「これから湯浴みをします」
「うむ」
勝家様は短く頷いた。
けれど、その目は厳しい。
「すぐ行け」
「はい」
「衣も替えろ」
「はい」
「髪も洗え」
「はい」
「手も」
「はい」
「爪も」
「はい」
「耳の後ろも」
「……勝家様」
「何だ」
「於光様のようなことをおっしゃいますね」
勝家様は、一瞬黙った。
それから、低く言った。
「姉上に言われた」
やはり。
於光様は、すでに勝家様へ指示を出していたらしい。
その於光様が、にこりともせずに言った。
「藤乃様」
「はい」
「湯殿へ」
「はい」
「すぐに」
「はい」
「寄り道はなりません」
「はい」
「帳面もなりません」
「……」
「藤乃様」
「はい」
なぜ分かるのでしょうか。
まだ何も言っていません。
いえ。
清洲で聞いたことを、忘れないうちに書き留めたいと思ったのは事実です。
土に書かれた文字。
老父の震える手。
佛郎機の火器。
解いて、その理を知った。
官に疑われた。
一家ごと誅されかけた。
それらを忘れる前に、書き残しておきたい。
そう思った。
思っただけです。
まだ、紙を探してはいません。
たぶん。
「藤乃様」
八右衛門殿の声がした。
振り返ると、八右衛門殿が静かに立っていた。
「はい」
「お手元に隠されているものを、お渡しください」
「……」
私は、袖の中にそっと入れていた小さな紙片を見た。
清洲から戻る道中、義銀に持たせようと思っていた予備の紙である。
まだ何も書いていない。
何も書いていないのだから、帳面ではありません。
「義銀にだけ、清洲で見た文字を少し……」
「藤乃様」
「はい」
「お渡しください」
私は、無言で紙片を差し出した。
八右衛門殿はそれを受け取ると、たいへん穏やかに言った。
「湯浴みの後でございます」
「はい」
「まずは湯浴みでございます」
「はい」
完全に包囲されている。
柴田邸は、戦場ではない。
けれど、こういう時の包囲はたいへん見事である。
逃げ道がない。
木下殿がいたら、感心したかもしれない。
いえ、木下殿ならまず走って捕まるでしょう。
「藤七丸」
勝家様が低く呼んだ。
「はい」
「母上が戻るまで、紫乃を守るぞ」
藤七丸は、ぐっと小さな拳を握った。
「あにうえ、まもる」
「うむ」
「ははうえ、あらわれる」
「……うむ」
勝家様が、少しだけ言葉に詰まった。
藤七丸の中では、私はこれから“洗われるもの”になったらしい。
間違ってはいない。
間違ってはいないのですが。
「藤七丸」
「はい」
「母上は、すぐに戻ります」
「はい」
「紫乃をお願いしますね」
「あにうえ、まもる」
その言葉に、私はようやく笑えた。
そして、於光様に連行された。
連行。
ええ、連行である。
湯殿には、すでに支度が整っていた。
湯。
布。
替えの衣。
洗い流すための湯桶。
髪を洗うための香草。
そして、侍女たち。
全員、やる気である。
私は、湯殿の入口で少しだけ足を止めた。
「於光様」
「何でしょう」
「自分で洗えます」
「信用しておりません」
即答だった。
ひどい。
けれど、言い返せない。
「産後二月で、清洲へ行き、異国の者と対面し、土に文字を書き、顔色を悪くして戻られた方が、自分で十分に洗えると?」
「……」
「藤乃様」
「はい」
「信用できると思いますか」
「思いません」
自分で答えてしまった。
於光様は満足そうに頷いた。
「では、失礼いたします」
そこから先は、たいへん丁寧だった。
丁寧すぎた。
まず、清洲へ行く時に着ていた衣はすべて分けられた。
「これは」
「洗います」
「こちらは」
「念入りに洗います」
「羽織は」
「よく干します」
「捨てるわけでは」
「状態を見ます」
状態。
私の羽織に、そんな診断が下る日が来るとは思いませんでした。
次に、手を洗われた。
土に触れた手。
枝を握った手。
老父の文字を書き返した手。
指の間。
爪の先。
手首。
丁寧に湯で流される。
「痛くはありませんか」
「大丈夫です」
「しみませんか」
「大丈夫です」
「本当に」
「本当にです」
心配されているのか、尋問されているのか、少し分からなくなってくる。
それから髪。
髪も、丁寧に洗われた。
「そこまでしなくても」
「します」
「しかし」
「します」
「はい」
短い。
強い。
私は湯の中で、ただ洗われるしかなかった。
まるで魚です。
いえ、魚は洗われた後に焼かれますね。
私は焼かれません。
たぶん。
「藤乃様」
於光様の声が飛ぶ。
「今、何か余計なことをお考えになりましたね」
「いいえ」
「本当に?」
「少しだけ」
「湯に集中してくださいませ」
湯に集中。
湯に集中とは何でしょうか。
けれど、湯は温かかった。
清洲の庭で冷えていた身体が、少しずつほどけていく。
白い陣幕。
震える家族。
土に書かれた文字。
老父の涙。
それらが、湯気の向こうで少しだけ遠くなる。
消えるわけではない。
忘れるわけでもない。
けれど、今の私は柴田邸に戻ってきている。
藤七丸と紫乃がいる家に。
勝家様が待つ家に。
於光様と八右衛門殿が、これでもかと私を守ろうとする家に。
私は、ようやく少しだけ息を吐いた。
「藤乃様」
於光様の声が、少しだけ柔らかくなった。
「お疲れになったでしょう」
「……はい」
「怖かったですか」
私は、すぐには答えられなかった。
怖かった。
たぶん、怖かった。
異国の言葉が分からないこと。
分かったふりをしてはいけないこと。
土に書かれた文字の重さ。
処刑。
逆。
一家。
腹の中の孫。
命を助けてほしい。
そのすべてが、怖かった。
「少し」
私は答えた。
「怖かったです」
於光様は、何も言わなかった。
ただ、私の髪に湯をかける手が、少しだけ優しくなった。
「ですが」
私は続けた。
「行ってよかったとは思います」
「そうでしょうね」
「止めても、私は気にしたと思います」
「知っております」
知っておられる。
「ただし」
於光様の声が、すぐに強くなる。
「次からは、もう少し早く顔色を悪くしてくださいませ」
「それは難しくありませんか」
「無理をする前に、無理だと顔に出してください」
「それも難しいです」
「藤乃様」
「はい」
「努力なさいませ」
「はい」
私は湯の中で小さく頷いた。
湯浴みは、思っていた以上に長かった。
いえ、たぶん必要な時間だったのだろう。
だが、私には長く感じた。
早く藤七丸に会いたい。
紫乃を抱きたい。
勝家様に、ただいまともう一度言いたい。
けれど、焦ってはいけない。
約束したのだ。
戻ったら湯浴み。
衣を替える。
それまでは、子らに触れない。
守るための約束。
ならば、守らねばならない。
ようやく湯殿を出る頃には、私はすっかり力が抜けていた。
洗われた。
たいへん洗われた。
新しい衣を着せられ、髪も整えられ、爪も確認され、耳の後ろまで確認された。
本当に確認されました。
勝家様。
於光様。
耳の後ろも、確かに洗われました。
どうかご安心ください。
部屋へ戻ると、藤七丸が待っていた。
紫乃のそばに座り、小さな背を伸ばしている。
兄上の顔である。
勝家様は、紫乃を抱いたまま座っていた。
たいへん慎重に。
まだ緊張している。
けれど、紫乃は相変わらずよく眠っていた。
「ははうえ」
藤七丸が、そっと声を出した。
駆け出さない。
待っている。
私は、胸がいっぱいになった。
「藤七丸」
「ははうえ、あらわれた?」
「はい。たいへん洗われました」
藤七丸は、真剣な顔で頷いた。
「きれい?」
「綺麗になったと思います」
藤七丸は於光様を見た。
「おばうえ、ははうえ、きれい?」
於光様が、ようやく少し笑った。
「ええ。綺麗になられました」
藤七丸の顔がぱっと明るくなる。
それから、こちらへ歩いてきた。
走らない。
歩いて。
とことこと。
私の前で立ち止まり、両手を伸ばす。
「ははうえ」
私は、膝をついた。
そして、藤七丸を抱きしめた。
小さな身体。
温かい。
湯の香でも、清洲の庭の土の匂いでもない。
藤七丸の匂いだった。
我が子の匂い。
私は思わず目を閉じた。
「ただいま、藤七丸」
「おかえり、ははうえ」
その一言で、胸の奥がほどけた。
勝家様が、紫乃を抱いたままこちらへ近づいてくる。
「お藤」
「はい」
「もう、よいか」
於光様と八右衛門殿が顔を見合わせた。
それから、八右衛門殿が静かに頷いた。
「湯浴みも済まされました。衣もすべて替えられました。もうよろしいかと」
勝家様は、ほっとしたように息を吐いた。
そして、紫乃を私へ渡した。
相変わらず慎重に。
本当に慎重に。
私は紫乃を抱いた。
小さい。
温かい。
眠っている。
ほんのりと甘い、赤子の匂いがする。
紫乃の頬に触れると、胸の奥に残っていた清洲の冷たさが、ゆっくり溶けていくようだった。
「紫乃」
小さく呼ぶ。
紫乃は、少しだけ口を動かした。
返事のつもりでしょうか。
ええ、そういうことにしておきます。
藤七丸が、私の横から覗き込んだ。
「しの、まもった」
「はい。ありがとう、藤七丸」
「あにうえ、まもった」
「とても頼もしい兄上です」
藤七丸は、誇らしそうに頷いた。
勝家様も、ほんの少しだけ目元を和らげている。
私は、紫乃を抱き、藤七丸をそばに座らせ、勝家様を見た。
「勝家様」
「何だ」
「ありがとうございました」
「礼を言うことではない」
「いいえ」
私は首を振った。
「私が外へ出ている間、二人を守ってくださったので」
勝家様は、少しだけ黙った。
それから、短く言った。
「当然だ」
当然。
その一言が、とても勝家様らしかった。
私は少し笑った。
「清洲のことは」
勝家様が言った。
「後で聞く」
「はい」
「今は休め」
「はい」
私は素直に頷いた。
素直に。
本当に素直に。
紫乃を抱いているから、帳面は作れない。
藤七丸が横にいるから、紙も取れない。
於光様も見ている。
八右衛門殿も見ている。
勝家様も見ている。
完全に包囲されている。
けれど、今はそれでよかった。
清洲で、私は異国の家族の命に触れた。
土に書かれた願いを読んだ。
命を救ってほしい。
我が家を救ってほしい。
その願いは、重かった。
けれど、私にも守るべき命がある。
藤七丸。
紫乃。
この小さな温もりを守るために、私は湯殿へ直行させられた。
髪も。
手も。
爪も。
耳の後ろも。
たいへん丁寧に洗われた。
それは、私を叱るためではない。
私を閉じ込めるためでもない。
守るためだ。
紫乃を。
藤七丸を。
私を。
そして、柴田邸の皆を。
「藤乃様」
於光様が言った。
「湯冷めなさらぬよう、すぐお休みくださいませ」
「はい」
「帳面は」
「作りません」
「本当に?」
「本当にです」
「八右衛門」
「紙と筆は離してございます」
「よろしい」
徹底している。
大変徹底している。
「義銀にだけ、清洲で聞いたことを少し」
「明日でございます」
「……はい」
明日。
明日ならよいのですね。
そう思った瞬間、於光様が私を見た。
「明日も、顔色次第です」
「……はい」
柴田邸は、本当に厳しい。
けれど、悪くない厳しさだった。
私は紫乃を抱きながら、藤七丸の頭を撫でた。
藤七丸は、安心したように私の膝に寄りかかる。
勝家様は、黙ってその様子を見ていた。
清洲の白い陣幕。
土に書かれた文字。
海を渡った家族。
それらは、まだ終わっていない。
むしろ、始まったばかりだ。
けれど今だけは。
今だけは、湯の香と我が子の温もりの中にいたかった。
なお。
私がこっそり隠していた紙片は、八右衛門殿によって没収されたままである。
柴田邸は、本日もたいへん厳しい。




