第七話 海を渡った鉄匠
老父は、白い布に囲まれた場所で、震える手を膝の上に置いていた。
その国の言葉は、分からなかった。
ここが何という場所なのか。
自分たちを囲む白い布が、何のためのものなのか。
外に立つ男たちが、兵なのか、役人なのか、処刑人なのか。
何を言われているのか。
誰が何を命じているのか。
自分たちがこの後どうされるのか。
何一つ、分からなかった。
それでも、老父には一つだけ分かった。
今すぐには、殺されない。
湯が運ばれてきた。
薄い粥も運ばれてきた。
妻には布が渡された。
幼い孫には、温かい粥が少しずつ与えられた。
腹の大きな嫁のそばには、年配の女がついた。
産婆なのだろう。
その女は言葉こそ通じぬが、腹を庇う嫁の姿を見るなり、すぐに周囲へ何かを命じた。
座る場所が整えられた。
身体を冷やさぬよう、布がかけられた。
老父の息子たちは、少し離された。
だが、縄はかけられていない。
道具は取り上げられた。
見張りもいる。
それでも、縄はない。
老父は、それだけで喉の奥が熱くなった。
殺されなかった。
少なくとも、今すぐには。
妻が、震える手で老父の袖を掴んだ。
老父は、その手に自分の手を重ねた。
冷えている。
海を渡る間も。
浜に流れ着いてからも。
ずっと、冷えていた手だった。
「……生きている」
老父は、自分の国の言葉で小さく呟いた。
もちろん、この国の者には通じない。
だが、妻には通じた。
妻は、目を閉じた。
涙が、皺の刻まれた頬を伝った。
老父は、白い布の向こうを見た。
先ほどまでそこにいた女。
この国の女。
輿で運ばれ、低い腰掛けに座り、こちらの言葉を聞き取れずに困った顔をし、それでも土に書いた字を読んだ女。
彼女は、もういない。
顔色を悪くしたため、周囲の者に促され、戻されていった。
その女は、最後に土へ書いた。
吾必再來。
汝家暫休。
今不殺汝等。
文は少し不思議だった。
だが、意味は分かった。
必ず、また来る。
お前たちの家は、しばらく休め。
今は、お前たちを殺さない。
老父は、その文字を何度も頭の中でなぞった。
今は殺さない。
その言葉が、これほど重く、これほどありがたいものだとは。
老父は、知らなかった。
いや。
知っていた。
ほんの少し前まで、老父たちは殺されるところだったのだから。
老父の家は、鉄を打つ家だった。
代々、鉄を扱って生きてきた。
だが、武器ばかりを作っていたわけではない。
むしろ、老父の家が多く打ってきたのは、暮らしの鉄だった。
釜。
鍋。
包丁。
鎌。
鍬。
釘。
蝶番。
荷車の金具。
船を直すための留め具。
戸を支える小さな金物。
農具の刃。
家を建てるための釘。
飯を炊くための釜。
畑を耕すための鍬。
魚を干す棚を支えるための金具。
そういうものを打ってきた。
鉄は、人を殺すためだけのものではない。
鉄は、人の暮らしを支えるものだ。
老父は、そう信じていた。
熱した鉄を打つ音。
火の赤。
水に入れた時の白い湯気。
槌を振るう息子たちの背中。
まだ幼かった頃、火を怖がって老父の後ろに隠れていた息子たちが、いつの間にか老父よりも力強く鉄を打つようになった。
老父は、それを見るのが好きだった。
長男の名を、承鋼といった。
慎重な手をしていた。
鉄の熱を見る目がよかった。
赤く焼けた鉄を、まだ早い、もう少し待つ、と見極めることができた。
打ちすぎず。
急ぎすぎず。
必要なだけを叩く。
承鋼の作る釘は、真っ直ぐで、よく留まった。
鍬の刃は、欠けにくかった。
静かで、口数は少ない。
だが、打つ鉄は誠実だった。
次男の名を、承明といった。
好奇心の強い手をしていた。
一度気になったものは、解き、覗き、確かめずにはいられない。
古い錠前を見れば中を知りたがり、壊れた鍋を見ればなぜ割れたのかを知りたがり、異国の金具を見れば、どうしてその形なのかを考えた。
老父は何度も叱った。
「鉄は、遊びではない」
承明は笑って答えた。
「分かっております、父上」
分かっていない。
そう思った。
けれど、その目の輝きを、老父は嫌いではなかった。
鉄を知りたい。
どうして曲がるのか。
どうして割れるのか。
どうして強くなるのか。
どうすれば、よりよく留まるのか。
どうすれば、より軽く、より強く作れるのか。
その問いを持つ者は、悪い職人ではない。
だから老父は、叱りながらも見守った。
だが、その好奇心が、家を殺す罪になるとは思わなかった。
ある日、息子たちは火器を見た。
佛郎機より伝わったものだという。
筒のような鉄。
火薬。
火花。
轟く音。
遠くの板を、弓よりも鋭く打ち抜く力。
老父も見た。
恐ろしいものだった。
鉄が火を吐く。
鉄が雷を抱いている。
そう思った。
だが、息子たちの目は違った。
恐怖だけではない。
あの目だ。
鉄を知りたい時の目。
承明が言った。
「父上」
「何だ」
「どうして、火が前へ飛ぶのでしょう」
承鋼が、壊れた火器の筒をじっと見ながら言った。
「筒の厚みは、どこまで要るのでしょう」
老父は、嫌な予感がした。
「見るだけにしておけ」
そう言った。
だが、息子たちは見ただけでは終われなかった。
分からぬものを、分からぬままにしておけなかった。
壊れた火器の一つを、彼らは手に入れた。
壊れている。
使えない。
持ち主は、ただの鉄屑として見た。
だが、息子たちはそう見なかった。
解いた。
分けた。
筒を見た。
火皿を見た。
穴を見た。
どこに火が入り、どこで力が生まれ、どうして玉が飛ぶのか。
息子たちは、黙々と見た。
そして、作ろうとした。
売るためではない。
戦を起こすためでもない。
逆を企てるためでもない。
ただ、職人として、仕組みを知りたかった。
自分たちの手で作れるか、確かめたかった。
老父は止めた。
「これは、ただの鍋ではない」
「分かっています」
「ただの釘ではない」
「分かっています」
「ならば、やめよ」
承鋼は黙った。
承明も黙った。
だが、やめなかった。
そして、官に知られた。
兵器を密かに作る家。
逆賊に通じる家。
火器を私造する家。
そのように言われた。
老父は必死に訴えた。
自分たちは職人である。
逆ではない。
賊ではない。
ただ、鉄を知ろうとしただけだ。
だが、聞き入れられなかった。
鉄は、暮らしを支えるものだ。
老父はそう信じていた。
けれど、その日。
鉄は、老父の家を殺す罪となった。
連れていかれる前の夜。
長く付き合いのあった商人が、老父に囁いた。
逃げるなら、今しかない。
海へ出る船がある。
倭寇まがいの者たちだ。
信用はできない。
だが、金を積めば乗せる。
老父は、家の中の金目のものをすべて出した。
妻の簪。
嫁たちの飾り。
母から受け継いだ小さな器。
鍛冶場に隠していた銀。
大事にしていた道具の一部。
すべて。
すべて差し出した。
命と引き換えるには、あまりに安いものだった。
船に乗る時、老父は振り返らなかった。
振り返れば、戻りたくなる。
鍛冶場。
火床。
槌。
水桶。
壁に掛けた古い鎌。
何度も打ち直した釜。
承鋼が初めて作った真っ直ぐすぎる釘。
承明が作った、不格好だが妙に使いやすい蝶番。
すべてを置いていった。
妻が泣いた。
嫁たちは子を抱えた。
腹の大きな嫁は、歩くのもやっとだった。
老父は、彼女の背を支えた。
「すまぬ」
そう言うと、嫁は首を振った。
「父上が謝らないでください」
そう言った。
謝らないでくれ。
その言葉が、老父には痛かった。
船は海へ出た。
倭寇まがいの者たちは、金を受け取った分だけは約束を守った。
少なくとも、最初は。
だが、海は約束など守らない。
嵐が来た。
空が落ちてくるような風だった。
雨が肌を打ち、波が船を叩き、板が軋んだ。
船の者たちが叫ぶ。
言葉は荒く、誰が何を命じているのか分からない。
やがて、船が大きく傾いた。
人が海へ落ちた。
倭寇たちも落ちた。
海は、人を選ばなかった。
金を受け取った者も。
逃げる者も。
老いた者も。
若い者も。
海は、ただ呑んだ。
船は、すでに半ば壊れていた。
残った船板へ人が集まるたび、重みで深く沈む。
荷は捨てた。
水桶も、布も、食べ物も、重い道具も。
それでも、波が来るたびに海水は腰まで上がった。
幼い孫が海水を飲み、激しく咳き込む。
腹の大きな嫁は、板へ伏せるようにして腹を庇っていた。
このままでは、次の大波で全員が沈む。
老父には、そう見えた。
人が多すぎる。
残った板が小さすぎる。
自分一人が海へ落ちれば、その分だけ板は浮く。
幼い孫が息をできるかもしれない。
腹の大きな嫁が、次の波を越えられるかもしれない。
極限の中で、老父にはそうとしか思えなかった。
孫が泣いた。
嫁が腹を抱えた。
妻が老父の袖を掴んだ。
息子たちは、船の残った板にしがみつきながら叫んでいた。
「父上! こちらへ!」
承鋼が、船板に釘を打っていた。
承明が、杭のように削った木片を板へ打ち込んでいた。
あり合わせの道具。
懐に隠していた小槌。
袋の底に残していた釘。
彼らが自分たちで打った釘。
逃げる時でさえ、息子たちは釘を手放していなかった。
何かを留めるために。
何かを直すために。
何かを繋ぐために。
その釘が、今、命を繋いでいた。
裂いた衣を、釘と杭に結ぶ。
妻の身体を括る。
嫁を括る。
孫を抱いた嫁を括る。
腹の大きな嫁を括る。
老父は、それを見ていた。
そして、思った。
自分はいらない。
妻を生かせ。
息子を生かせ。
嫁を生かせ。
孫を生かせ。
腹の子を生かせ。
この老いぼれが海へ落ちれば、少しでも軽くなる。
少しでも、誰かが生きるかもしれない。
老父は、己の衣を結ぶ手を緩めた。
波が来る。
次の波で落ちればよい。
この老いぼれの、いうことをきかない身体はいらない。
そう思った。
だが、承明が気づいた。
「父上!」
老父は怒鳴った。
「我を捨てよ! 妻子を生かせ!」
波の音にかき消されそうな声だった。
それでも、息子たちには届いた。
承鋼が、顔を歪めた。
承明が、泣きそうな顔で老父の衣を掴んだ。
「父上を捨てて、何が家ですか!」
「老いぼれ一人で済むなら安い!」
「安くありません!」
承明が叫んだ。
「父上も、家です!」
老父は言葉を失った。
次の瞬間、承鋼が釘を打った。
老父の衣ごと。
船板へ。
「何をする!」
老父は叫んだ。
「親を板に打ちつける子があるか!」
承明が泣きながら笑った。
「海に捨てる親よりは、ましです!」
さらに釘が打たれた。
杭が打たれた。
裂いた衣が、老父の身体に巻かれた。
老父は抵抗した。
だが、老いた身体では、息子たち二人に敵わなかった。
槌の音が、嵐の中で響いた。
いつも鍛冶場で聞いていた音。
暮らしを支える音。
釜を作る音。
鍬を直す音。
釘を打つ音。
その音が、今は老父を海へ落とさないために響いていた。
老父は、泣いた。
海水か、雨か、涙か、分からなかった。
ただ、泣いた。
息子たちは、誰も喪わせまいとしていた。
妻も。
嫁も。
孫も。
腹の中の孫も。
老父さえも。
誰も。
誰も、海へ渡したくないのだ。
その夜が、どれほど続いたのか分からない。
朝が来たのか。
嵐が去ったのか。
意識が落ちたのか。
分からない。
気づいた時、老父たちは知らない浜に打ち上げられていた。
空は白く。
海は灰色で。
妻は生きていた。
承鋼も生きていた。
承明も生きていた。
嫁たちも。
孫も。
腹の中の孫も。
まだ、生きていた。
老父も、生きていた。
息子たちが、釘で繋いだ命だった。
そして、浜の者たちは石を持っていた。
老父は、白い布に囲まれたその場所で、そっと目を開けた。
あの時の波の音が、まだ耳の奥に残っている。
釘を打つ音も。
息子たちの声も。
父上も、家です。
その言葉が、胸に刺さって抜けない。
老父は、膝の上の手を握った。
自分は、あの時捨てようとした命で、まだここにいる。
息子たちに捨てさせてもらえなかった命で、ここにいる。
ならば。
まだ、家を守らねばならない。
妻を。
承鋼を。
承明を。
嫁たちを。
孫を。
腹の中の孫を。
そして、息子たちが捨てさせなかった自分自身も。
老父は、土に書いた文字を思い出した。
妻媳孫無罪。
腹中孫亦無罪。
願救吾家。
妻、嫁たち、孫に罪はない。
腹の中の孫にも罪はない。
我が家を救ってほしい。
それは、老父の命乞いだった。
けれど同時に、誓いでもあった。
もし、この異国の地で命を許されるなら。
もし、もう一度、鉄を打つことが許されるなら。
老父は、もう一度、鉄を人の暮らしのために打つ。
釜を。
鍬を。
釘を。
車の金具を。
船を留めるものを。
命を繋ぐものを。
佛郎機の火器も、鉄だ。
人を殺すための鉄だ。
だが、鉄はそれだけではない。
鉄は、家を支える。
畑を耕す。
飯を炊く。
船を直す。
そして時に、荒れ狂う海の上で、人を船板に繋ぎ止める。
老父は、震える手を見下ろした。
年老いた手。
火傷の痕だらけの手。
もう昔のようには槌を振るえぬ手。
それでも、まだ鉄を知っている手。
白い布の向こうで、あの女を乗せた輿が遠ざかる気配がした。
言葉を拾った女。
土の文字を読んだ女。
彼女は書いた。
吾必再來。
必ず、また来る、と。
老父は、その言葉を信じたかった。
この国が、どのような国かはまだ分からない。
あの男たちが、どのような主かも分からない。
だが、あの女は文字を読んだ。
そして、今は殺さぬと書いた。
それだけで、今は十分だった。
老父は、静かに頭を下げた。
誰に向けてかは、自分でも分からない。
海にか。
息子たちにか。
あの女にか。
それとも、まだ見ぬこの国の神にか。
ただ、頭を下げた。
生き延びた命で、まだできることがある。
そう思いたかった。
白い布に囲まれたその場所で。
海を渡った鉄匠――陳宗鉄は、初めてほんの少しだけ、息をした。




