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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第四章 鬼柴田の妻と海を越えた鍛冶師

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第六話 土に書かれた言葉


清洲へ向かう輿の中で、私は何度も息を整えていた。


揺れる。


思っていたより、揺れる。


歩くよりは楽である。


それは分かっている。


分かっているのですが、産後二月の身体には、輿の揺れもなかなか堪えるものなのだと知った。


私は、羽織の合わせをそっと押さえた。


「藤乃様」


輿の外から、八右衛門殿の声がした。


「お加減は」


「大丈夫です」


「本当にでございますか」


「本当にです」


「少しでも苦しければ、すぐに止めます」


「はい」


何度目でしょうか。


八右衛門殿は、清洲へ着くまでに何度もそう尋ねてくれた。


ありがたい。


ありがたいのですが、少しだけ、私は己の信用のなさを感じている。


いえ。


仕方ありません。


日頃の行いです。


義銀も、馬を控えめに歩かせながら輿のそばについていた。


木下殿は、前を行っている。


走ってはいない。


走ってはいないのだが、時折、身体が前へ前へと出そうになっている。


そのたびに義銀が、


「木下殿」


と声をかける。


すると木下殿は、はっとして歩みを整える。


学びとは、日々の積み重ねである。


本当に、積み重ねである。


清洲へ着くと、私は城の奥へ通されるものと思っていた。


けれど、案内された先は庭だった。


清洲城の庭の一角。


そこに陣幕が張られていた。


白い布が四方を囲み、外から中が見えすぎないようにしてある。


ただし、完全に閉じているわけではない。


風は通る。


見張りも立っている。


陣幕の外には湯桶、清潔な布、替えの衣らしきものが用意されていた。


少し離れた場所には、薄い粥らしきものも見える。


私は、その光景を見て、すぐに理解した。


これは、隔てているのだ。


城の奥へは入れない。


けれど、雨ざらしにも晒し者にもしていない。


病を警戒し。


倭寇や間者の可能性も警戒し。


それでも、女と子と年寄りを雑に扱わぬよう、最低限の保護はしている。


信長様の判断だろう。


私は輿の中で、そっと息を吐いた。


怖い方である。


けれど、雑ではない。


「お藤」


陣幕の近くに、信長様がおられた。


隣には信行様もいる。


木下殿は、少し離れた場所で控えていた。


顔色は、まだ悪い。


相当叱られたのだろう。


「殿」


輿の中から頭を下げようとすると、信長様が手を上げた。


「そのままでよい。権六と於光に怒られる」


「……はい」


すでに怒られる前提なのですね。


いえ、正しいのですが。


「具合は」


「大丈夫です」


「無理はするな」


「勝家様にも、於光様にも、八右衛門殿にも、義銀にも、木下殿にも言われました」


信長様は、ほんの少し口元を動かした。


「ならば、儂からも言う。無理はするな」


「はい」


四方八方から言われております。


これはもう、逃げ場がありません。


信行様が、静かに言った。


「藤の方様。異国の者たちは中におります。女と子、年寄りは座らせております。若い男二人は見張りつきですが、縄はかけておりません」


「ありがとうございます」


「ただし、何者かは分かりません」


「はい」


「倭寇と関わりがある可能性も、病を持つ可能性も、消えてはおりません」


「承知しております」


私は頷いた。


それは忘れてはいけない。


かわいそうだから、助けたい。


それだけで動いてよい話ではない。


藤七丸と紫乃がいる。


寧々殿と猿丸殿もいる。


清洲にいる多くの者たちもいる。


一つ誤れば、守りたいものを危険に晒す。


「それでも」


信長様が言った。


「何を言うておるか、拾えるか」


「やってみます」


「できぬなら、できぬでよい」


「はい」


「分かったふりをするな」


「いたしません」


そこは、はっきりと言えた。


言葉を分かったふりをするのは危うい。


命がかかっているなら、なおさらだ。


輿は、陣幕の入口で止められた。


中には、すでに低い床几が用意されていた。


座布団が重ねられ、背を預けられるように小さな脇息まで置かれている。


……完全に、私を動かさないための支度である。


「藤乃様」


八右衛門殿が手を差し出した。


「足元にお気をつけください」


「はい」


私は輿から降り、ゆっくりと床几へ腰を下ろした。


すぐ横に八右衛門殿が控える。


少し後ろには義銀。


木下殿は、陣幕の入口近くで膝をついたまま、中を見ている。


信長様と信行様も、少し離れて見守っていた。


陣幕の内側は、思っていたより静かだった。


いや、静かというより、張りつめていた。


そこにいたのは、木下殿から聞いていた通りの一団だった。


年老いた男。


年老いた女。


若い男が二人。


若い女が二人。


幼子が一人。


若い女の一人は、幼子を腕に抱いている。


幼子は泣き疲れたのか、母の胸に顔を押しつけていた。


もう一人の若い女は、腹が大きい。


誰が見ても、身重だと分かる。


その腹を両手で庇いながら、彼女は怯えた目でこちらを見ていた。


年老いた女は、若い女たちのそばにいる。


年老いた男は、一団の前に半歩だけ出ていた。


守ろうとしているのだ。


若い男二人も、疲れ切った顔をしているのに、女たちと年寄りを庇うように立っていた。


震えている。


皆、震えている。


寒さだけではない。


恐怖だ。


言葉の通じない国に流れ着き。


浜で石を向けられ。


今度は城へ連れて来られ。


陣幕の中に置かれ。


何をされるのか分からない。


震えるなという方が無理だろう。


私は、紫乃を思い出した。


藤七丸を思い出した。


もし私が、知らない土地で、知らない言葉に囲まれて、紫乃を抱きしめていたら。


もし腹に子を宿したまま、石を向けられたら。


私は、どれほど怖いだろう。


「藤乃様」


八右衛門殿が、小さく声をかけた。


「近づきすぎませぬよう」


「はい」


私は頷いた。


座ったまま。


長くはしない。


少しでも顔色が悪くなれば終わり。


何度も言われた条件を、心の中で繰り返した。


そして、私は異国の一団へ向き直った。


まず、言葉をかけてみる。


「你好」


私の声に、一団が一斉に反応した。


若い女が目を見開く。


若い男の一人が、驚いたように何かを言った。


その瞬間。


一気に言葉が溢れた。


「――!」


「――、――!」


「――!」


早い。


早すぎる。


私は、目を瞬いた。


無理です。


聞き取れません。


大学の第二外国語で、このような命がけの聞き取り試験は受けていません。


しかも、発音が私の知っているものと違う。


聞こえる音の端々に、知っているようなものが混じる気はする。


けれど、流れが速すぎて何も掴めない。


水の中から声を聞いているようだった。


「ま、待ってください」


日本語が出た。


当然、通じない。


私は慌てて記憶を探った。


ゆっくり。


ゆっくり話してください。


何でしたっけ。


「慢……慢一点?」


言ってみた。


発音が合っている自信は、まったくない。


「慢一点。请……请慢一点?」


一団は、さらに何かを言った。


通じたのか。


通じていないのか。


分からない。


むしろ、私が少しでも言葉を発したことで、向こうは縋るように話し始めてしまった。


だが、私には聞き取れない。


「申し訳ありません」


思わず日本語で呟いた。


「聞き取るのは、無理そうです」


木下殿が、ぐっと唇を噛んだ。


義銀も緊張した顔をしている。


信長様は黙って見ていた。


怒りもしない。


急かしもしない。


ただ、見ている。


私は、息を整えた。


話せない。


聞き取れない。


ならば。


そう思った時だった。


年老いた男が、ゆっくりと動いた。


周囲の若い男たちが、止めようとする。


けれど、老父は手を上げて制した。


そして、震える手で地面を指した。


土。


陣幕の内側の地面。


老父は、近くに落ちていた細い枝を取った。


見張りが一瞬動きかける。


信長様が手で止めた。


老父は、その枝で土に文字を書き始めた。


震える手だった。


けれど、線は思ったよりもしっかりしていた。


一字。


また一字。


土の上に、見慣れた形の文字が並んでいく。


私は、床几から身を乗り出しそうになった。


「藤乃様」


八右衛門殿の声が飛ぶ。


「……すみません」


私は慌てて座り直した。


危ない。


つい、前に出るところでした。


老父が書いた文字を、私はじっと見た。


吾等大明鐵匠之家也。


官疑逆。


將誅。


攜妻、二子、二媳、孫逃海。


老父は、そこで一度手を止めた。


それから、腹の大きな若い女を見た。


彼女は、両手で腹を庇っている。


老父の目が、わずかに揺れた。


そして、震える手で一行を書き足した。


媳腹中亦孫。


願救命。


読める。


完全に読めるわけではない。


けれど、意味は拾える。


私は、土の文字を見つめたまま、ゆっくり声に出した。


「私たちは、明国の……鉄匠、鉄を扱う家」


信長様の目が、わずかに細くなった。


木下殿が息を呑む。


私は続ける。


「官に、逆と疑われた。まさに誅されようとした」


声に出した瞬間、老父の手が震えた。


私は土の文字を追う。


「妻、二人の息子、息子たちの妻、孫を連れて海へ逃げた」


そこで、私は一度言葉を止めた。


足された一行を見る。


媳腹中亦孫。


「嫁の腹の中にいる子も、孫」


そう声に出した瞬間、喉の奥が詰まった。


老父は、まだ生まれていない命まで数えていた。


家の者として。


守るべき孫として。


私は、腹の大きな若い女を見た。


彼女は、私が何を読んだのか分からないはずなのに、腹を庇う手に力を込めていた。


「命を助けてほしい」


言い終えると、陣幕の中が静まり返った。


処刑。


逆。


逃亡。


そして、まだ生まれていない孫。


その言葉が、重く落ちる。


私は、老父を見た。


老父は、枝を握ったまま、こちらをじっと見ている。


その目には、恐怖があった。


けれど、同時に必死さがあった。


この方は、自分だけの命乞いをしているのではない。


妻を。


息子たちを。


嫁たちを。


孫を。


そして、腹の中にいる孫を。


家ごと守ろうとしているのだ。


「……処刑」


私は小さく呟いた。


胸の奥が冷える。


助けたい。


そう思った。


けれど、これで簡単に受け入れてよい話ではなくなった。


官に逆と疑われた。


つまり、罪人として追われた可能性がある。


本当に無実なのか。


ただの職人なのか。


それとも、何か大きな罪を犯したのか。


分からない。


分からないまま、同情だけで動いてはいけない。


信長様が、低く言った。


「お藤」


「はい」


「何とある」


「明国の鉄を扱う家。官に逆と疑われ、処刑されかけ、妻と二人の息子、息子たちの妻、孫を連れて海へ逃げた。嫁の腹の中の子も孫である、と。命を助けてほしい。おおよそ、そのような意味かと」


「罪人か」


「それを、確かめます」


私は、土の文字を見た。


筆はない。


紙もあるだろうが、今はこの土が一番早い。


私は八右衛門殿を見た。


八右衛門殿は、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「藤乃様」


「枝を」


「お手は汚れます」


「戻ったら湯浴みします」


「……短くでございます」


「はい」


八右衛門殿は、控えていた者へ目で合図した。


細い枝が、私の手元へ差し出される。


私はそれを受け取った。


土に書く。


まさか戦国の清洲で、産後二月の身で、明の人かもしれない方と土に筆談することになるとは。


前世の私に言っても、絶対に信じないでしょう。


いえ。


前世の私なら、まず病院へ行けと言うかもしれない。


私は、息を整えて、土に文字を書いた。


汝等罪人乎。


何故官追。


文法が合っている自信はありません。


ですが、今は意味が伝わればよいのです。


私は枝を置き、老父を見た。


「貴方たちは、罪人なのですか」


もちろん、日本語では通じない。


けれど、土の文字は見える。


老父は、私の書いた文字を見た。


目を見開いた。


読めたのだ。


その瞬間、彼の顔が大きく歪んだ。


老父は、強く首を横に振った。


何度も。


何度も。


まるで、それだけは違うのだと訴えるように。


若い男二人も、何かを言った。


若い女たちは震えながら、老父を見ている。


老父は、再び枝を握った。


震える手で、土に文字を書き足す。


非逆。


非賊。


工匠也。


佛郎機火器。


二子見之。


拆而知其理。


欲造。


官疑私造兵器。


將誅全家。


私は、土の上の文字を追った。


息が、少しずつ浅くなる。


「逆ではない」


私は読む。


「賊ではない。工匠、職人である」


信長様の気配が変わった。


私は、続きを読む。


「佛郎機……西洋の火器。二人の子が、これを見た。解いて、その理を知った。作ろうとした。官が、密かに兵器を作ったと疑った。一家すべてを誅しようとした」


一瞬、風の音が遠くなった気がした。


西洋の火器。


解いて、その理を知った。


作ろうとした。


鉄砲。


私は、その言葉を胸の中で呟いた。


この人たちは、ただの鍛冶師ではない。


火器を見て、解体し、仕組みを理解し、再現しようとした者たちだ。


信長様が、一歩だけ近づいた。


見張りたちがわずかに緊張する。


「火器」


信長様が言った。


その声は低い。


静かだ。


けれど、さきほどまでとはまるで違う熱があった。


「西洋の火器と書いてあるのか」


「はい。佛郎機、とあります。おそらく、西洋の火器のことかと」


「解いた、と」


「そう読めます」


「理を知った、と」


「はい」


信長様の目が、土の文字を見下ろしている。


その目は、もう異国の流民を見ている目ではなかった。


何かを見つけた目だった。


危うく、面白いものを。


木下殿が、思わず身を乗り出した。


「殿、儂の勘は――」


「猿」


信長様の一言で、木下殿は口を閉じた。


「はい」


「まだ黙れ」


「はい」


とても素直だった。


叱られた直後の木下殿は、たいへん素直である。


私は、土の文字から目を離せなかった。


老父は、さらに書こうとしている。


だが、その手が震えていた。


疲れているのだろう。


浜に流れ着き、清洲へ運ばれ、怯え続け、ようやく言葉が通じるかもしれない相手に出会った。


それだけでも、相当な消耗のはずだ。


私は手を上げた。


「少し、待ってください」


もちろん日本語だ。


けれど、私が手を上げた意味は伝わったのか、老父は枝を止めた。


私は信長様を見た。


「殿」


「何じゃ」


「この方々が本当に罪人かどうかは、まだ分かりません」


「うむ」


「この方々は、自分たちは逆賊でも賊でもなく、職人だと書いています。西洋の火器を見て、解いて、仕組みを知り、作ろうとした。そのため官に兵器の私造を疑われ、一家ごと処刑されかけた、と」


「うむ」


「ですが、それが真実かどうかは、まだ分かりません」


信長様は、私を見た。


少しだけ、面白そうな顔をしている。


「お藤にしては、慎重じゃな」


「産後二月ですので」


信行様が、ふっと笑った。


義銀は口元を押さえている。


木下殿は、笑ってよいのか分からない顔をしていた。


私は続ける。


「ただ、少なくとも」


「少なくとも?」


「女と子と年寄りは、これ以上このままでは持ちません。湯と食事と、休む場所を。話は、それからでも遅くありません」


信長様は、土に書かれた文字を見た。


鉄。


火器。


逆。


妻。


息子。


嫁。


孫。


腹の中の孫。


逃亡。


救命。


それらの文字は、ただ土の上に刻まれた線にすぎない。


けれど、その線は、確かに人の命を繋ごうとしていた。


老父が、震える手でさらに小さく文字を書いた。


妻媳孫無罪。


腹中孫亦無罪。


願救吾家。


私は、その字を見て、喉の奥が詰まった。


「妻、息子の妻たち、孫に罪はない」


私は声に出した。


「腹の中の孫にも罪はない。どうか、我が家を救ってほしい、と」


木下殿が、畳ではなく地面に手をついた。


深く、深く頭を下げる。


「殿」


その声は震えていた。


信長様は、しばらく何も言わなかった。


陣幕の外を、風が通る。


陣幕が小さく揺れた。


私は、紫乃と藤七丸を思い出していた。


勝家様と藤七丸が、紫乃を守っている姿を。


帰ったら湯浴みをして、衣を替えて、それからでなければ二人に近づけない。


そう約束した。


だから、早く終わらせなければならない。


けれど、この文字を見てしまった以上、雑には終われない。


「信行」


信長様が言った。


「はい」


「女と子と年寄りを、別に休ませろ。湯を使わせる。粥は薄く、少しずつ。腹の女には産婆をつけよ。ただし、見張りは外すな」


「承知しました」


「若い男二人は別に置け。縄はかけぬ。だが、道具は持たせるな」


「はい」


「老いた男は」


信長様は、老父を見た。


「倒れぬ程度に、もう少し聞く」


「はい」


私は思わず口を開いた。


「殿」


「お藤」


信長様がこちらを見る。


「お前はここまでじゃ」


「ですが」


「顔色が悪い」


そう言われて、私は言葉に詰まった。


自覚は、少しある。


確かに、頭が重い。


土の文字を読もうと集中しすぎたせいか、輿の揺れの疲れも出てきたのかもしれない。


八右衛門殿が、すぐに私の側へ来た。


「藤乃様」


「……はい」


「戻ります」


「まだ」


「戻ります」


静かな声だった。


けれど、逆らえない声だった。


信長様も言った。


「約束であろう」


「……はい」


約束。


少しでも顔色が悪くなれば終わり。


長くは留まらない。


私は勝家様にも、於光様にも、藤七丸にも約束した。


守るために来たのに、約束を破っては意味がない。


私は、老父を見た。


彼はまだこちらを見ている。


目には不安があった。


通じかけた言葉が、また途切れるのを恐れている顔だった。


私は枝を取り、最後に短く土へ書いた。


吾必再來。


少し考え、さらに書き足す。


汝家暫休。


今不殺汝等。


文法は、おかしいかもしれない。


けれど、老父はその文字をじっと見た。


そして、ゆっくり目を閉じた。


涙が、一筋、皺の深い頬を伝った。


私は、胸の奥が詰まるのを感じた。


「八右衛門殿」


「はい」


「戻ります」


「はい」


輿が用意される。


私は、八右衛門殿の手を借りて床几から立ち上がった。


足元が少しふらつく。


すぐに八右衛門殿が支えてくれた。


「藤乃様」


「大丈夫です」


「戻ります」


「はい」


今度は素直に頷いた。


輿へ戻されると、身体が少しだけ重くなった気がした。


陣幕の外へ出る直前、信長様の声が聞こえた。


「お藤」


「はい」


「よく拾った」


私は、少しだけ笑った。


「拾ったのは、木下殿です」


「言葉を拾ったのは、お前じゃ」


そう言われて、私は何も返せなかった。


輿が動き出す。


陣幕の白が、視界の端を流れていく。


土に書かれた文字が、まだ目に焼きついていた。


明国。


鉄匠。


佛郎機火器。


逆。


妻媳孫無罪。


腹中孫亦無罪。


願救吾家。


私は、輿の中でそっと息を吐いた。


話し言葉は、ほとんど通じなかった。


けれど、土に書かれた文字は、確かに届いた。


命を救ってほしい。


その願いだけは、確かに。


この日、清洲の庭に書かれた土の文字は、すぐに風で崩れていった。


けれど、その文字が繋いだものは、消えなかった。


それは、尾張の鉄を変える最初の線だった。


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