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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第四章 鬼柴田の妻と海を越えた鍛冶師

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第五話 四の五の言ってはいられません


「権六殿! お藤の方! どうか、どうかお力をお貸しくだされ!」


廊下の向こうから響いた声に、私は湯呑を持ったまま固まった。


木下殿である。


間違いなく、木下藤吉郎殿である。


しかも、ただ騒がしいだけではない。


声に、焦りが混じっていた。


勝家様の眉間に、深い皺が刻まれる。


藤七丸は、紫乃のそばから顔を上げた。


紫乃は、少しだけ身じろぎした。


於光様が、すっと立ち上がる。


その動きだけで、部屋の空気が引き締まった。


「木下殿」


私が口を開くより早く、勝家様の低い声が廊下へ向かった。


「走るな」


足音が、ぴたりと止まった。


本当にぴたりと止まった。


それから、少しだけ遅れて、そろそろとした足音が近づいてくる。


……走ってはいません。


走ってはいませんが、たいへん急いでおりますね。


襖の前で、木下殿の声がした。


「権六殿、お藤の方。木下藤吉郎にございます」


「入れ」


勝家様が短く言う。


襖が開くと、そこには木下殿がいた。


息が上がっている。


髪も少し乱れている。


顔色も悪い。


いつものように騒がしいはずなのに、どこか必死で、今にも畳へ頭を打ちつけそうな顔をしていた。


その後ろには、義銀がいた。


「義銀?」


「叔母上」


義銀は、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。


「信長様の命で、私も参りました」


信長様の命。


その言葉を聞いた瞬間、勝家様の眉間の皺がさらに深くなった。


於光様も、静かに目を細める。


嫌な予感がする。


とても、嫌な予感がする。


「木下」


勝家様が言った。


「何があった」


木下殿は、座敷へ入るなり、畳に額をつけた。


「藤の方様」


「はい」


「大変な時期であることは、重々承知しております」


その声は、いつもの木下殿とは違っていた。


大きくない。


騒がしくない。


けれど、必死だった。


「紫乃様がお生まれになって、まだ二月ほど。藤の方様に頼むべきことではないことも、分かっております」


「木下殿」


「それでも」


木下殿は、さらに深く頭を下げた。


「お願いがございます」


勝家様の空気が、重くなる。


「猿」


「はっ」


「まず、何があったか申せ」


「はっ」


木下殿は、一度息を吸った。


それから、知多の浜で起きたことを話し始めた。


信長様に命じられ、湊と浜の様子を見に行っていたこと。


そこで、言葉の通じぬ異国の者たちを見つけたこと。


男が二人。


女が二人。


年老いた男女が一組。


そして、幼子が一人。


若い女の一人は幼子を抱き、もう一人の女は腹が大きかったこと。


村人たちが怯え、石を持っていたこと。


倭寇の仲間ではないかと疑っていたこと。


木下殿は、話しながら何度も拳を握った。


「怖いのは分かるのです」


木下殿は言った。


「儂にも、あの者らが何者かは分かりませぬ。言葉も通じませぬ。倭寇と関わりがあるのかも分かりませぬ」


「ならば、なぜ連れてきた」


勝家様の声は低かった。


責めている。


けれど、信長様ほどの怒声ではない。


ただし、静かな分、怖い。


木下殿は顔を上げなかった。


「子を抱いた女がおりました」


「……」


「腹の子を庇う女がおりました」


私は、無意識に紫乃の方を見た。


紫乃は眠っている。


藤七丸は、私たちの様子を不思議そうに見ている。


「それが、どうにも……寧々と猿丸に重なりまして」


木下殿の声が、少しだけ震えた。


「儂には、置いては来られませなんだ」


部屋が静かになった。


木下殿は続ける。


「それだけなら、村で押さえ、人を遣るべきであったと思います。信長様にも、そう叱られました」


「叱られたのか」


勝家様が言った。


「はっ」


木下殿は深く頭を下げる。


「たいへん、たいへん叱られました」


義銀が、そっと目を伏せた。


……かなり叱られたのですね。


「信長様は、何と」


私が尋ねると、義銀が答えた。


「叔母上。信長様は、木下殿が助けたこと自体を責めてはおられません」


「はい」


「けれど、独断で清洲へ連れてきたことを、厳しく叱られました」


義銀の声は落ち着いていた。


けれど、その目の奥には、まだ少し緊張が残っている。


よほどの叱責だったのだろう。


「情で動く時ほど、手順を違えるな、と」


その言葉に、私は息を呑んだ。


信長様らしい。


とても、信長様らしい。


女と子を助けたい気持ちは否定しない。


けれど、だからといって何をしてもよいわけではない。


一つ手順を誤れば、清洲に災いを招く。


病かもしれない。


間者かもしれない。


倭寇の手の者かもしれない。


善意で抱えたものが、牙を剥くこともある。


戦国とは、そういう世だ。


「猿」


勝家様が低く呼んだ。


「はっ」


「殿に叱られてなお、ここへ来たのか」


「はい」


「殿の命か」


木下殿は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。


それから、はっきりと言った。


「信長様は、藤の方様ならば、異国の者の言葉を少しは拾えるかもしれぬと仰せでした」


「……」


「ですが、藤の方様に頼むなら、儂が頭を下げよと」


木下殿は、畳に額をつけたまま続けた。


「儂が独断で拾った者たちです。儂が、なぜ助けたいのかを言え、と」


勝家様は黙っていた。


於光様も黙っている。


部屋の空気は重い。


私は、湯呑を置いた。


手の中の温かさが消えると、急に現実味が増した。


異国の者。


唐土の者かもしれない者。


言葉が通じない者。


そして、子を抱いた母と、腹に子を宿した女。


私は、そっと息を吸った。


「唐土の者のように見えるのですか」


「はい」


木下殿が答える。


「衣も、顔立ちも、言葉も、尾張の者とは違います。浜の者は、倭寇の仲間ではないかと怯えておりました。けれど、あの者らも倭寇という言葉に怯えているように見えました」


「倭寇に」


「はい」


「……なるほど」


言葉は通じない。


それでも、反応はある。


ならば、少なくとも何かから逃げてきた可能性がある。


そして木下殿は、若い男二人の手を見たと言った。


火傷の痕。


厚い掌。


太い指の節。


鉄を扱う者の手に見えた、と。


「叔母上」


義銀が静かに言った。


「信長様は、叔母上ならば、唐土の言葉らしきものを、少しは拾えるかもしれぬと」


私は、思わず義銀を見た。


「義銀」


「はい」


「貴方、信長様に何を言いました」


義銀は、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「叔母上は、三國志にも通じ、唐土の故事なども私や義冬に分かりやすく教えてくださったと」


「……」


「それから、以前、唐土の挨拶らしき言葉を、いくつかご存じだったことも」


「……義銀」


「はい」


「それは、ほとんど役に立たないと思います」


「私も、そう思わなくはありません」


では、なぜ言ったのですか。


そう言いたかった。


けれど、義銀に悪気がないことは分かっている。


信長様に問われて、叔母上なら何か分かるかもしれない、と答えただけなのだろう。


分かっています。


分かっていますが。


私が三國志好きなのは確かです。


確かですが。


三國志が好きなことと、唐土の人の言葉が分かることは、まったく別の話です。


私は内心で頭を抱えた。


唐土の言葉。


遠い昔――前世の大学で、第二外国語として中国語を選んだことはある。


あるにはある。


発音練習もした。


你好。


谢谢。


我是日本人。


その程度なら、かろうじて思い出せる。


かろうじて。


けれど、どこまで話せるだろうか。


そもそも、私が学んだのは、前世の大学で習った現代の中国語である。


今ここにいるのは、中国の者かもしれない。


時代が違う。


土地も違う。


音も違うかもしれない。


相手がどこの出身かも分からない。


私は、万能の通訳ではない。


ただの、三國志好きだった前世持ちである。


……いえ。


ただの三國志好きが、戦国の柴田邸で産後二月の身で、中国の者かもしれない一家の事情を聞こうとしている時点で、ただの、とは何でしょうか。


自分で考えていて、少し分からなくなってきた。


ただ、片言でもよいから、何か通じれば。


水。


食べ物。


子。


母。


痛い。


怖い。


助ける。


その程度でも伝えられれば、何かが分かるかもしれない。


言葉が通じなければ、身振りでもよい。


相手の表情でもよい。


何か一つでも拾えれば、あの人たちの扱いは変わるかもしれない。


私は、そう思っていた。


「藤乃様」


於光様の声がした。


静かな声だった。


けれど、とても強い。


「お引き受けになるおつもりですか」


私は、於光様を見た。


於光様は、私を見ている。


その目には、心配があった。


怒りもあった。


木下殿へ向ける怒り。


信長様の名が出たことへの警戒。


そして、私がまた無理をしようとしていることへの確信。


……確信しないでください。


いえ、するでしょうね。


「まだ、できるとは言っておりません」


「では、できないとお断りなさいますか」


於光様の問いは鋭かった。


私は黙った。


できない。


そう言うことはできる。


私は産後二月だ。


紫乃もいる。


藤七丸もいる。


体力も、まだ戻りきっていない。


唐土の言葉だって怪しい。


断る理由はいくらでもある。


いくらでもあるのに。


子を抱いた母がいる。


腹に子を宿した女がいる。


年老いた父母がいる。


そして、その者たちは何かを伝えようとしている。


木下殿が、寧々殿と猿丸殿に重ねてしまったという、その姿。


それを聞いてしまった。


聞いてしまった以上、知らぬふりはできなかった。


「勝家様」


私は、勝家様を見た。


勝家様は、黙って私を見ている。


「お藤」


「はい」


「無理をするな」


「はい」


「できぬことを、できると言うな」


「はい」


「お前は、産後だ」


「はい」


「紫乃も、藤七丸もいる」


「はい」


「それでも、行くと言うのか」


勝家様の声は低かった。


責めているのではない。


止めている。


けれど、同時に、私がどう答えるか分かっている声だった。


私は、そっと息を吐いた。


「行く、というより」


「うむ」


「やれるだけ、やってみたいのです」


勝家様の眉間に、皺が寄った。


「話せるかは分かりません」


私は正直に言った。


「唐土の言葉らしきものを、少しだけ知ってはいます。ですが、今の私がどれほど覚えているかも分かりません。相手の言葉が、私の知っているものと同じかどうかも分かりません」


木下殿が、縋るように顔を上げた。


私は続ける。


「僅かな言葉であれば、通じるかもしれません」


通じるかもしれない。


通じないかもしれない。


正直、かなり怪しい。


けれど、命がかかっているのなら。


四の五の言ってはいられない。


「木下殿」


「はっ」


「私にできるとは限りません」


「はい」


「話せないかもしれません」


「はい」


「聞き取れないかもしれません」


「はい」


「それでも、よろしいのですか」


木下殿は、額を畳につけた。


「お願いします」


その声は、震えていた。


「少しでも。何か一つでも。あの者らが何を言おうとしているのか、拾っていただけるなら」


「……」


「儂は、あの者らを助けたいのです」


木下殿は、いつもの木下殿ではなかった。


出世のためでも、手柄のためでもない。


もちろん、鉄を扱う者かもしれないという勘はあるのだろう。


信長様も、そこに興味を持っておられる。


けれど、今ここで頭を下げている木下殿の根っこにあるものは、たぶんそれではない。


寧々殿。


猿丸殿。


その二人の顔を見られなくなる。


そう言った木下殿の言葉は、きっと嘘ではない。


「分かりました」


私がそう言うと、木下殿が顔を上げた。


「藤の方様」


「やるだけ、やってみましょう」


その瞬間、於光様が深く息を吐いた。


とても深く。


それはもう、たいへん深く。


「藤乃様」


「はい」


「条件がございます」


「はい」


即答する。


ここで逆らってはいけない。


「輿です」


「はい」


「歩かせません」


「はい」


「清洲に着いても、座ったままです」


「はい」


「長くはなりません」


「はい」


「少しでも顔色が悪くなれば、そこで終わりです」


「はい」


「相手には近づきすぎません」


「はい」


「直接、触れません」


「はい」


「帳面は作らせません」


「……」


「藤乃様」


「はい」


危なかった。


思わず考えてしまった。


言葉を聞くなら、記録が要りますよね。


誰が何を言ったか、どの仕草をしたか、後で整理しなければ分からなくなりますよね。


そう考えかけた。


考えかけただけで、於光様の目が細くなった。


なぜ分かるのですか。


「義銀様」


於光様が義銀を見た。


「はい」


「藤乃様が帳面を作ろうとしたら、止めなさい」


「承知いたしました」


「義銀」


私は思わず呼んだ。


義銀は、たいへん真面目な顔で私を見た。


「叔母上。産後ですので」


正論。


たいへん正論。


藤乃、逃げ場なし。


「於光」


静かに響いた八右衛門殿の声。


「何でしょう」


「藤乃様には、私が付きます」


於光様は、少しだけ目を瞬いた。


「あなた様が?」


「ええ。清洲までの道中、座る場所、戻る頃合い。誰かが見ておかねばなりません」


「……そうですね」


於光様は、すぐに頷いた。


この二人は、こういう時の判断が早い。


夫婦である。


そして、柴田家を支えてきた二人でもある。


「では、こちらは私が整えます」


「お願いいたします」


八右衛門殿は、少し声を落とした。


「それと、湯浴みの支度もしておいてください」


「湯浴みですか」


思わず私が聞き返すと、八右衛門殿はこちらを見た。


「当然でございます」


静かな声だった。


けれど、反論を許さない声だった。


「相手は、何者か分からぬ異国の者たちです。病を持っていないとは限りません。船で流れ着いたのであれば、傷も、汚れも、弱りもあるでしょう」


「はい」


「藤乃様がお戻りになったら、すぐに湯浴みをしていただきます。衣もすべて替えます。それまでは、紫乃様にも藤七丸様にも近づいてはなりません」


「……はい」


正論だった。


たいへん正論だった。


胸は少し痛む。


けれど、紫乃はまだ生まれて二月。


藤七丸も幼い。


万が一のことを思えば、当然のことだ。


「それから、清洲では相手の者たちと部屋を分けてもらいます」


八右衛門殿は続けた。


「まず、女と子。腹の大きな女。年寄り。若い男たち。それぞれ危うさが違います」


木下殿が顔を上げた。


「八右衛門殿」


「木下殿」


八右衛門殿は静かに言った。


「助けたいなら、なおさら分けるべきです。怖がっている者たちを一つ所に押し込め、周りを武士で囲めば、余計に怯えます」


「……はい」


「ですが、何者か分からぬ以上、油断もできません」


「はい」


「藤乃様は、まず女たちと子の様子を見る。それでよろしいかと」


私は、思わず八右衛門殿を見た。


八右衛門殿は、こちらを見ない。


ただ、淡々と必要なことを並べている。


けれど、その言葉は私を守るためだけではなかった。


異国の家族を、無用に怯えさせないためでもある。


さすが、八右衛門殿。


胃を押さえながらも、実務が強い。


「紫乃様は、こちらでお守りします」


於光様が言った。


「藤七丸様も」


その時、藤七丸がぱっと顔を上げた。


「あにうえも、いく」


私は、思わず藤七丸を見た。


「藤七丸」


「あにうえ、いく」


真剣な顔だった。


とても真剣だった。


けれど、於光様は揺らがなかった。


「藤七丸様」


「はい」


「紫乃様をお守りくださいませ」


藤七丸が、ぴたりと止まった。


「しのを?」


「はい。兄上なのでしょう?」


藤七丸は、紫乃を見た。


紫乃は、すやすやと眠っている。


藤七丸はしばらく考え、それから小さな拳を握った。


「……あにうえ、まもる」


「頼もしいことです」


於光様が、ようやく少しだけ目元を和らげた。


私は胸を撫で下ろした。


藤七丸は留守番。


紫乃も留守番。


それが正しい。


それが、母として選ぶべきことだ。


勝家様が、黙って立ち上がろうとした。


「勝家様」


私が呼ぶと、勝家様は私を見た。


「何だ」


「藤七丸と紫乃を、お願いいたします」


勝家様が、わずかに目を見開いた。


「某がか」


「はい」


私はまっすぐ勝家様を見た。


「私が戻り、湯浴みを済ませ、衣を替えるまでは、二人には近づきません。ですから、その間、藤七丸と紫乃をお願いいたします」


勝家様は、すぐには答えなかった。


私を見る。


紫乃を見る。


藤七丸を見る。


それから、ゆっくりと頷いた。


「分かった」


短い返事だった。


けれど、その声は重かった。


「藤七丸と紫乃は、某が見る」


「お願いいたします」


「お藤」


「はい」


「無理をするな」


「いたしません」


「戻ったら、すぐ湯浴みだ」


「はい」


「衣も替えろ」


「はい」


「紫乃にも藤七丸にも、その後だ」


「はい」


勝家様は、藤七丸を見た。


「藤七丸」


「はい」


「紫乃を守るぞ」


藤七丸は、ぱっと顔を上げた。


「あにうえ、まもる」


「うむ」


勝家様は、静かに頷いた。


「共に守る」


その言葉に、私は胸の奥が少し熱くなった。


鬼柴田と呼ばれる方が。


戦場で敵を斬り伏せる方が。


今は、小さな姫と幼い息子を守るために、家に残ると言っている。


それが、どうしようもなく心強かった。


木下殿は、畳に手をついたまま、深く頭を下げた。


「申し訳ございませぬ」


勝家様の視線が木下殿へ向く。


「猿」


「はっ」


「お藤に無理をさせたら、許さぬ」


「肝に銘じまする!」


「声」


「肝に銘じまする」


勝家様は、さらに低く言った。


「殿が命じたからではない。お前が頼んだのだ」


「はい」


「ならば、お前が責を負え」


「はい」


「お藤が少しでも疲れたら、そこで終いだ」


「はい」


「それを異国の者にも、殿にも伝えろ」


「はい」


木下殿は、何度も頷いた。


いつものように勢いだけで頷いているのではない。


一つ一つを、確かめるように頷いていた。


私は、もう一度だけ紫乃の方を見た。


紫乃は、すやすやと眠っている。


藤七丸は、その横で小さな拳を握っている。


「あにうえ、まもる」


小さな声で、もう一度そう言った。


私は笑った。


「お願いしますね、藤七丸」


「はい」


「勝家様」


「うむ」


「私が帰って湯浴みを済ませるまでは、お願いいたします」


「任せろ」


その一言で、腹が決まった。


於光様が、すぐに侍女へ指示を出した。


「藤乃様の羽織を」


「はい」


「輿の用意を」


「はい」


「清洲へ先触れを。藤乃様は長くは留まらないと伝えなさい」


「はい」


「戻られた後の湯浴みの支度も」


「はい」


「藤七丸様と紫乃様の寝所も、念のため分けて整えます」


「はい」


柴田邸が動き始める。


本当に、動き始めると早い。


私は於光様に羽織をかけられながら、ゆっくり息を吐いた。


唐土の言葉。


中国の者かもしれない一家。


異国の声。


そして、命。


できるかどうかは分からない。


けれど、やるだけはやる。


そう決めると、不思議と腹は据わった。


怖くないわけではない。


不安がないわけでもない。


けれど、迷っている時間はなかった。


子を抱いた母がいる。


腹に子を宿した女がいる。


年老いた父母がいる。


それを聞いてしまった以上、知らぬふりはできない。


「四の五の言ってはいられませんね」


私が呟くと、勝家様がこちらを見た。


「お藤」


「はい」


「無理はするな」


「いたしません」


「本当だな」


「……できるだけ」


「お藤」


「いたしません」


すぐに言い直した。


勝家様の視線が痛い。


於光様の視線も痛い。


義銀の視線まで痛い。


八右衛門殿の視線も痛い。


皆、私を信用していないのではないでしょうか。


いえ。


私の日頃の行いでしょうか。


だとしたら、仕方ありません。


「木下殿」


「はい」


「清洲まで、走らないでください」


木下殿は、真剣な顔で頷いた。


「走りませぬ。急ぎまする」


どこかで聞いた言い方ですね。


たぶん、信長様の前でもそう言ったのでしょう。


義銀が、少しだけ口元を押さえていた。


こうして私は、産後二月の身で、清洲へ向かうことになった。


本当に、どうしてこうなるのでしょうか。


ただ、ひとつだけ分かっている。


命がかかっているのなら。


やるだけ、やってみるしかないのである。


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