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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第四章 鬼柴田の妻と海を越えた鍛冶師

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第四話 猿の独断、殿の叱責

私、斯波義銀は、その日、清洲城で筆を執っていた。


「猿!!」


瞬間、清洲城に怒声が響いた。


私は、思わず筆を止めた。


手元には、先ほどまで写していた書付がある。


湊の荷の動き。


兵糧の備え。


人足の数。


信長様のそばで、私はそれらを整理していた。


叔母上ならば、きっと言うだろう。


字はただ書ければよいものではない。


何を書くのか。


何を残すのか。


誰に見せるのか。


それを考えなければ、書付はただの紙になる、と。


だから私は、信長様のもとで筆を執る時、できるだけ周囲を見るようにしていた。


声の調子。


人の立つ位置。


誰が何を聞き、誰が何を聞かされていないのか。


そのすべてが、政なのだと最近は少しずつ分かってきた。


その日、木下藤吉郎殿が清洲へ戻ってきた。


ただし、一人ではなかった。


異国の者たちを連れて。


男が二人。


女が二人。


年老いた男女が一組。


そして幼子が一人。


女の一人は、腹が大きいという。


言葉は通じない。


何者かも分からない。


ただ、知多の浜に流れ着いた者たちを、木下殿が独断で保護し、清洲へ連れてきたのだと聞いた。


その報せが届いた時、信長様は一瞬だけ目を細めた。


それから、低く言った。


「猿を呼べ」


そうして、今である。


木下殿は、信長様の前で平伏していた。


いつもは騒がしい方だ。


声が大きく、よく動き、よく笑い、よく転びそうになる。


けれど今は、畳に額をつけるほどに伏している。


その背中に、信長様の怒声が叩きつけられた。


「何を考えておる!」


「申し訳ございませぬ!」


「申し訳で済むか!」


信長様の声は鋭かった。


部屋の空気が震える。


控えていた者たちは、誰も息をしないようにしている。


「何者とも知れぬ異国人を、勝手に清洲へ連れてくるとは何事か!」


「はっ」


「倭寇の手の者であればどうする!」


「はっ」


「病を持ち込んでおればどうする!」


「はっ」


「女と子がおれば疑わぬのか! 腹の大きな女がおれば、すべて善人になるのか!」


木下殿の肩が、ぴくりと揺れた。


しかし、何も言わない。


言えないのだろう。


信長様の怒りは、恐ろしかった。


ただ大きい声というだけではない。


言葉の一つ一つが、刃のようだった。


「猿。儂は、そなたの勘を買うておる」


信長様が言った。


その声は低い。


けれど、怒りは消えていない。


「そなたは、人の中にあるものを拾う。場の空気を嗅ぐ。誰も見ぬところに気づく。そういうところは役に立つ」


「ありがたきお言葉にございます」


「だが」


信長様の声がさらに冷えた。


「勘が当たることと、勝手をしてよいことは別じゃ」


木下殿は、さらに深く頭を下げた。


「はっ」


「村で押さえたなら、まず知らせるべきであろう。人をやり、報告し、指示を待つべきであろう。清洲に入れる前に、隔てる場所を用意すべきであろう」


「はっ」


「それを、そなたはどうした」


「……連れてまいりました」


「そうじゃ。連れてきた」


信長様は吐き捨てるように言った。


「異国の者を。倭寇と関わりがあるやもしれぬ者を。何を持っておるかも分からぬ者を。何を言うておるかも分からぬ者を。清洲へ」


部屋の隅にいた者の肩が震えた。


木下殿は動かない。


「情で動くなとは言わぬ」


信長様は続けた。


「女と子を見捨てられぬ。その心まで捨てよとは言わぬ。だが、情で動く時ほど、手順を違えるな」


私は、その言葉に息を呑んだ。


怒っておられる。


間違いなく、信長様は怒っておられる。


木下殿の独断に。


危うさに。


下手をすれば清洲に災いを招きかねなかったことに。


それは本気の怒りだった。


けれど。


私は、ふと気づいた。


信長様は、木下殿を切り捨てる言い方をしていない。


怒っている。


叱っている。


けれど、木下殿のしたことをすべて否定してはいない。


勘を買うている。


情を捨てよとは言わぬ。


そう言っている。


そして、この怒声は大きすぎた。


清洲の奥まで響くほどに。


誰の耳にも入るほどに。


つまり、皆に聞かせているのだ。


猿は独断をした。


信長様は、それを厳しく叱った。


だから、この件に不満を持つ者は、これ以上勝手に騒ぐな。


猿を責める役目は、すでに信長様が果たした。


処分を決めるのも、信長様である。


そう示している。


私は、そっと周囲を見た。


先ほどまで様子を窺うように集まっていた者たちが、少しずつ下がっている。


信長様の怒りを恐れたのだろう。


これ以上ここにいては巻き込まれる。


そう思った者から、距離を取っていく。


もちろん、信長様に気づかれぬように。


けれど、信長様が気づいていないはずがない。


信長様は、怒りながらも見ておられる。


誰が残り。


誰が下がり。


誰が木下殿を責めたそうな顔をし。


誰が黙っているのか。


すべて。


私は、手元の筆をそっと置いた。


茶を用意する。


この場で、私にできることはそれくらいだ。


叔母上なら、きっと笑うだろう。


義銀、そういう時こそ茶です。


人は怒っていても、喉は渇きます。


そう言うに違いない。


信長様の叱責は、なおも続いた。


「そなたが勝手をすれば、下の者も真似をする」


「はっ」


「下の者が真似をすれば、兵も真似をする」


「はっ」


「兵が勝手をすれば、戦は負ける」


「はっ」


「分かるか、猿」


「分かりまする」


「分かっておらぬから、こうなっておる!」


「申し訳ございませぬ!」


木下殿の声は震えていた。


いつもの大きな声ではない。


本当に怖いのだろう。


けれど、逃げてはいない。


言い訳もしていない。


ただ、受けている。


やがて、部屋の外の気配が薄くなった。


先ほどまで遠巻きにいた者たちは、ほとんどいない。


残っているのは、ごく限られた者だけだった。


私は茶を持ち、静かに信長様のそばへ進んだ。


「殿」


信長様が、ぎろりとこちらを見る。


「何じゃ、義銀」


怖い。


大変怖い。


けれど、その目の奥には、先ほどまでと違うものが見えた。


燃えるような怒りの表面の奥に、冷えた刃のようなものがある。


私は茶を差し出し、静かに言った。


「もう、周りにはいないかと」


一瞬。


部屋の空気が止まった。


木下殿が、わずかに顔を上げかける。


信長様は、茶を見た。


それから、私を見た。


そして、ふっと息を吐いた。


「うむ」


その瞬間、先ほどまで部屋を満たしていた怒気が、すっと収まった。


消えたのではない。


収めたのだ。


信長様は茶を受け取り、一口飲んだ。


それから、平伏している木下殿へ目を向けた。


「猿」


「は、はい」


「詳しい話をせい」


声は、先ほどまでとはまるで違っていた。


冷静だった。


鋭いが、怒鳴ってはいない。


木下殿は、一瞬だけ固まった。


あまりの変わりようについていけなかったのだろう。


私も、内心では驚いていた。


だが、顔には出さない。


出してはいけない。


「猿」


「はっ」


「なぜ拾った」


信長様が問う。


木下殿は、少しだけ唇を噛んだ。


それから、額を畳につけたまま言った。


「女房と子が、おりました」


「見れば分かる」


「腹の大きい女も、おりました」


「それも聞いておる」


「……寧々と、猿丸に重なりました」


その声は、小さかった。


けれど、はっきりと聞こえた。


「浜の者らは、石を持っておりました。怖いのは分かります。言葉も通じませぬ。何者かも分かりませぬ。倭寇の仲間かもしれぬと言う者もおりました」


「うむ」


「ですが、子を抱いた女に、石を投げようとしておりました。腹の子を庇う女にも」


木下殿の肩が震えた。


「見捨てられませなんだ」


信長様は黙っていた。


木下殿は続ける。


「それだけなら、村で押さえ、人を遣るべきであったと思います。殿の仰せの通りにございます」


「ならば、なぜ連れてきた」


「船の残骸がございました」


「船」


「はい。板に釘が打ち込まれておりました。杭も。裂いた衣が括られておりました。嵐の中で、船から落ちぬようにした跡かと」


信長様の目が、わずかに細くなった。


「釘」


「はい」


「誰が打った」


「分かりませぬ。ですが、若い男二人の手が、ただの手ではありませなんだ」


木下殿は、そこで顔を上げた。


「火傷の痕がありました。掌が厚く、指の節が太い。百姓でも、漁師でも、武士でもない。鉄を扱う者の手に見えました」


「鉄を扱う者」


「はい」


「それで、そなたの勘が鳴ったか」


木下殿は、ぐっと言葉に詰まった。


「……鳴りました」


信長様の口元が、ほんの少しだけ動いた。


笑ったのではない。


けれど、興味を持った顔だった。


「なるほどな」


その時、廊下から静かな足音が近づいてきた。


襖の前で止まる。


「兄上」


信行様の声だった。


「入ります」


信長様は、茶を持ったまま言った。


「入れ」


襖が開き、信行様が入ってこられた。

信行様は、おそらく先ほどから外にいたのだろう。

だが、怒声が響いている間は入ってこなかった。


入るべき時を、見ていたのだ。


その顔には、困ったような笑みが浮かんでいる。


まるで、怒る兄をなだめに来た弟のようだった。


「兄上。そろそろお怒りをお鎮めください。皆、震え上がっております」


「震え上がらせたのだ」


「でしょうね」


信行様は、さらりと言った。


その言い方に、私は思わず目を上げそうになった。


信行様は、信長様をなだめに来たように見える。


けれど違う。


この方も分かっておられる。


信長様の怒りが、周囲への牽制であったことを。


信行様は、部屋の中を一瞥した。


そして、私にほんの少し目を向けた。


気づいている。


私が茶を出したことも。


周囲がいなくなったことも。


すべて分かった上で、今入ってきたのだ。


「兄上、周りに邪魔者もおりませんよ」


信行様は、声を少し落として言った。


「うむ」


信長様は短く頷いた。


木下殿は、完全に固まっていた。


無理もない。


先ほどまで本気で叱責されていたのだ。


その怒りが、急に政の顔に変わった。


ついていける方が少ない。


信行様は木下殿を見た。


「木下殿」


「は、はい!」


「声を抑えて。ここはもう怒鳴られる場ではありません」


「はい」


木下殿は小さくなった。


信行様は少しだけ笑い、それから信長様へ向き直った。


「それで、兄上。異国の者たちは」


「別に置いてある」


「扱いは」


「女、子、年寄りは休ませておる。若い男二人は見張りつきじゃ。縄はかけさせておらぬ」


信行様は頷いた。


「よろしいかと」


「当然じゃ」


信長様は、木下殿を睨んだ。


「猿が勝手に連れてきたとはいえ、ここで雑に扱えば余計なことになる」


「はっ」


木下殿が再び平伏する。


「猿」


「はっ」


「助けたことを責めてはおらぬ」


木下殿が、ぴくりと動いた。


信長様は続けた。


「だが、やり方は叱った。そこを間違えるな」


「……はっ」


「次に同じことをすれば、ただでは済まぬ」


「肝に銘じまする」


「ならばよい」


よい。


そう言いながら、信長様の目はまだ鋭い。


木下殿も、それを分かっているのだろう。


額を畳につけたまま動かない。


信長様は、しばらく考えるように黙った。


それから、ふいに私を見た。


「義銀」


「はい」


「お藤は、漢文が読めるな」


叔母上。


私は背筋を伸ばした。


「はい。叔母上は、三国志にも通じておられます。難しい字や故事も、私や義冬に分かりやすく教えてくださいました」


「義冬もそう申しておったな」


「はい」


「では、異国の者が何か書ければ、お藤なら拾えるかもしれぬ」


拾える。


信長様は、読めるとは言わなかった。


完璧に分かるとも言わなかった。


ただ、拾えるかもしれない、と。


その言い方に、私は小さく頷いた。


叔母上なら、たしかに拾うだろう。


言葉そのものだけでなく、その奥にあるものを。


人の困りごとを。


命の危うさを。


そして、必要な手順を。


「しかし、兄上」


信行様が静かに言った。


「藤の方様は、産後まだ二月ほどでは」


「知っておる」


「権六殿と於光殿が、黙っておられますか」


「黙っておらぬだろうな」


信長様は、あっさり言った。


木下殿の顔色が悪くなる。


「猿」


「はっ」


「お藤に頼むなら、そなたが頭を下げよ」


「もちろんにございます」


「そして、権六と於光にも頭を下げよ」


「……はい」


「儂の命だと言えば、お藤は動く。だが、それでは権六が怒る」


「はい」


「だから、そなたが頼め」


信長様の目が、木下殿を射抜いた。


「そなたが独断で拾った者たちじゃ。そなたが、なぜ助けたいのかを言え」


「はっ」


木下殿は深く頭を下げた。


「それと」


信長様が続ける。


「お藤に無理をさせるな。少しでも顔色が悪くなれば、そこで終わりじゃ」


「はっ」


「これは儂の命でもある」


その言葉に、私は少し驚いた。


信長様は、叔母上を使うつもりだ。


けれど、無理をさせるつもりはない。


必要だから呼ぶ。


しかし、守る線は引く。


そのことを、木下殿にも、信行様にも、私にも聞かせている。


信行様は、静かに頷いた。


「では、異国の者たちは一度清洲に留め、藤の方様には書付を見ていただくか、あるいは木下殿が事情を伝えに行く形ですね」


「まず猿が行け」


信長様は言った。


「権六にも知らせねばならぬ。お藤にも頼まねばならぬ。義銀」


「はい」


「そなたも来い」


「私も、ですか」


「お藤のことは、そなたの方が分かる」


私は、少しだけ息を呑んだ。


叔母上のこと。


藤乃叔母上のこと。


たしかに、私は知っている。


叔母上は無理をする。


笑いながら仕事を増やす。


自分が動けば早いと考えて、気づけば周囲を巻き込んでいる。


けれど、人を助ける時の叔母上は、決して軽く動かない。


必ず、食べ物を用意する。


湯を用意する。


寝る場所を用意する。


そして、帳面を作る。


……帳面は作る。


産後でも、きっと作ろうとする。


私は、静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


信長様は頷き、木下殿へ目を向けた。


「猿」


「はっ」


「今から行け」


「はっ!」


木下殿が勢いよく立ち上がりかけた瞬間、信行様がすっと言った。


「走らない」


木下殿が固まった。


私も、思わず固まった。


信長様が、ほんの少しだけ目を細めた。


「……誰の教えじゃ」


信行様は涼しい顔で答えた。


「藤の方様の教えでしょう」


「であろうな」


信長様は小さく笑った。


本当に小さく。


先ほどまで清洲を震わせていた怒声が、嘘のようだった。


木下殿は、こくりと頷いた。


「走りませぬ。急ぎまする」


「そうせい」


信長様が言った。


木下殿は、深く頭を下げる。


それから、今度こそ立ち上がった。


走らない。


けれど、早い。


たいへん早い。


廊下へ出ていくその背中は、先ほどまで叱責を受けていた者とは思えぬほど、前へ向かっていた。


私は、その背中を見送りながら思った。


信長様の怒りは、恐ろしい。


けれど、恐ろしいだけではない。


怒りは、人を遠ざけるためにも使える。


人を守るためにも使える。


誰を叱り。


誰に聞かせ。


誰を黙らせ。


誰を残すか。


そのすべてを選びながら、信長様は怒っておられた。


叔母上は、礼儀作法は身を守るものだと教えてくださった。


けれど今日、私は知った。


怒りもまた、使い方によっては人を守るものになるのだと。


「義銀」


信長様の声で、私は我に返った。


「はい」


「茶をもう一杯」


「ただいま」


私は茶を淹れ直した。


信行様が、少しだけ笑っている。


信長様は、先ほど木下殿が出ていった方を見ていた。


その目は、もう怒ってはいなかった。


ただ、面白いものを見つけた時の目をしていた。


「猿の勘は、当たるからな」


信長様が呟く。


信行様が苦笑した。


「兄上、その前に叱ったばかりです」


「叱った」


「はい」


「だが、当たるものは当たる」


信長様は、茶を受け取りながら言った。


「さて。あの猿が拾ったものが、ただの厄介事か」


その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「それとも、火種か」


私は、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。


火種。


その言葉が、妙に耳に残った。


この時の私は、まだ知らない。


木下殿が拾った異国の家族が。


その火種という言葉の通り、やがて尾張の鉄を変えていくことになるなど。


まだ、誰も知らなかった。


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