第三話 猿、異国の家族を拾う
その騒ぎが何であったのかを知るには、少しだけ時を戻さねばならない。
木下藤吉郎は、その日、知多の浜辺にいた。
遊んでいたわけではない。
当然である。
藤吉郎とて、子が生まれたからといって、毎日猿丸の顔を見て騒いでいるだけではない。
……見て騒いではいる。
しかし、それだけではない。
信長より、湊と浜の様子を見てくるよう命じられていた。
魚がどれほど揚がるか。
塩はどれほど動くか。
船はどれほど使えるか。
荷を運ぶ道はどこまで整っているか。
人足は集められるか。
網や縄、木材、鉄の道具は足りているか。
戦とは、槍を持って敵に向かうだけではない。
兵を動かすには飯がいる。
飯を運ぶには荷がいる。
荷を運ぶには人と道と車がいる。
藤吉郎は、そういうものを見る役を命じられていた。
正直に言えば、地味な仕事である。
だが、藤吉郎は嫌いではなかった。
村の者と話す。
漁師から愚痴を聞く。
問屋の男から荷の流れを聞く。
浜の女たちが干している魚を見て、どれほど日持ちするか尋ねる。
そういうことを重ねていくうちに、見えてくるものがある。
信長が見ようとしているものの端が、ほんの少しだけ見える気がする。
だから藤吉郎は、真面目に歩いていた。
真面目に。
少なくとも、本人はそう思っていた。
「木下様、こちらの網は冬の荒れで破れやすく……」
「ふむ。縄はどこから買うておる」
「熱田からも来ますが、この辺りでは――」
村の男が説明している最中だった。
浜の外れから、ざわめきが聞こえた。
ただの騒ぎではない。
人の声が尖っている。
怯えと怒りが混じった声だ。
藤吉郎は、すぐに顔を上げた。
「何じゃ」
「さあ……」
村の男も首を傾げる。
だが、その顔には少しだけ嫌な色が浮かんでいた。
浜に住む者は、海の怖さを知っている。
海は魚をくれる。
塩もくれる。
船の道もくれる。
けれど同時に、見知らぬものも運んでくる。
流木。
死体。
壊れた船。
時には、異国の者。
時には、賊。
時には、病。
村の者が怯えるのも無理はなかった。
藤吉郎は、供の者を伴って浜の外れへ向かった。
そこには、村人たちが集まっていた。
手に棒を持つ者。
石を握る者。
遠巻きに見ている女たち。
泣きそうな子供。
その中心に、見慣れぬ一団がいた。
男が二人。
若い女が二人。
年老いた男女が一組。
そして、幼子が一人。
藤吉郎には、まだその者たちの関係までは分からなかった。
言葉も通じぬ。
名も分からぬ。
どこから来たのかも分からぬ。
だが、一つだけ分かった。
家族だ。
年配の男女を、若い男たちが庇っている。
若い女の一人は、幼子を抱きしめている。
もう一人の女は、隠しようもないほど腹が大きかった。
両手で腹を庇い、青ざめた顔で周囲を見ている。
兄弟か。
夫婦か。
親子か。
正確なところは分からない。
けれど、家族であることだけは分かった。
彼らの衣は濡れ、裂け、潮にまみれていた。
布の端は何かに強く擦れたように破れ、あちこちが紐のように細く裂かれている。
その裂かれた布の一部は、まだ木片に括りついていた。
浜辺に打ち上げられた板切れ。
割れた船材。
そして、そこに無理やり打ち込まれた釘。
杭のような短い木片。
それらが、何本も、乱暴に、しかし確かに打ち込まれていた。
ただ嵐で流された船の残骸には見えなかった。
誰かが、必死に打った跡だった。
板に釘を打ち。
杭を打ち込み。
そこへ布を結びつけ。
己の身体を。
家族の身体を。
船から落ちぬように括りつけた。
そんな跡だった。
藤吉郎は、そこまで見て、わずかに眉を寄せた。
誰が、こんなことを。
村人の一人が、石を握り直した。
「待て!」
藤吉郎の声が浜に響いた。
村人たちが振り返る。
「木下様」
「何をしておる」
「そ、それが、浜に妙な者どもが」
「妙な者ども?」
「言葉も通じませぬ。何者かも分からぬ。倭寇の仲間かもしれませぬ」
倭寇。
その言葉に、異国の一団のうち、若い男の一人がびくりと反応した。
言葉のすべては分からぬはずだ。
それでも、その音だけは知っているのかもしれない。
怯え。
悔しさ。
警戒。
男の顔に、そういうものが一瞬浮かんだ。
藤吉郎は、それを見逃さなかった。
「それで石か」
藤吉郎は、石を持つ男を睨んだ。
男はびくりと肩を揺らす。
「怖いのは分かる」
藤吉郎は言った。
「儂にも何を言うておるか分からぬ。何者かも分からぬ。だが、分からぬから石を投げるのか」
村人たちは黙った。
藤吉郎は、幼子を抱く女を指した。
「子を抱いた女に」
次に、腹の大きな女を指す。
「腹の子を庇う女に」
そして、年老いた男女を見る。
「年寄りに」
藤吉郎の声が低くなる。
「石を投げる阿呆があるか」
誰も答えなかった。
だが、誰も石を捨てなかった。
それを見て、藤吉郎は胸の奥が冷えるのを感じた。
怯えは、人を残酷にする。
村の者たちは、悪人ではないのだろう。
海で暮らし、魚を獲り、塩を運び、日々を食いつなぐ者たちだ。
けれど、見知らぬ異国の者。
言葉の通じぬ者。
倭寇かもしれぬ者。
その恐怖が、彼らの手に石を握らせている。
藤吉郎がここにいる間は、止まる。
だが、藤吉郎が背を向けたら。
夜になったら。
誰かが、あの石を拾い直すかもしれない。
腹の大きな女が、幼子が、年老いた者たちが、朝まで無事でいられる保証はどこにもなかった。
異国の一団も、藤吉郎を見ていた。
言葉は通じていないはずだ。
それでも、藤吉郎が前に出たことだけは分かったのだろう。
幼子を抱いた女は、子をさらに強く抱きしめた。
腹の大きな女は、目に涙を浮かべている。
その姿が、藤吉郎の胸を突いた。
寧々が重なった。
猿丸を抱く寧々。
腹に子を宿し、不安そうに笑っていた寧々。
産後、疲れた顔で眠っていた寧々。
それでも、猿丸の泣き声を聞くと目を開けようとした寧々。
藤吉郎は、奥歯を噛んだ。
見捨てられない。
見てしまった。
見てしまった以上、見捨てられない。
「荷引き車はあるか」
藤吉郎がそう言うと、村人たちは顔を見合わせた。
「荷引き車、でございますか」
「あるかと聞いておる」
「魚や網を運ぶものなら……」
「持ってこい。すぐじゃ」
村人の一人が慌てて走りかけた。
藤吉郎は、反射的に口を開いた。
「走……いや、急げ」
言い直した。
人のことは言えない。
しばらくして運ばれてきた荷引き車は、古びていた。
板はところどころ削れ、車輪はぎしぎしと音を立てている。
潮と魚の匂いが染みついており、普段どれほど働かされているかが一目で分かった。
村にとっては、ただの古い荷車ではない。
魚を運ぶ。
網を運ぶ。
塩を運ぶ。
暮らしを運ぶものだ。
藤吉郎は、それを見てから村人たちへ向き直った。
「これを使う」
「木下様」
「借りるだけじゃ」
藤吉郎は、はっきりと言った。
「壊れたら、儂が新しいものを作らせて返す」
村人たちがざわめいた。
「新しいものを、でございますか」
「約束する。清洲へ連れて行くために使わせてもらう。戻せるなら戻す。戻せぬほど傷んだなら、新しいものを作って返させる」
そう言うと、村人たちはまだ迷うように顔を見合わせた。
無理もない。
異国の者たちを乗せるために、大事な荷車を出せと言われているのだ。
しかも相手は、言葉も通じぬ者たちである。
藤吉郎は、その不安を責めなかった。
村には村の暮らしがある。
荷車一つ失えば、魚を運ぶにも困る。
網を運ぶにも困る。
明日の暮らしに関わるのだ。
だからこそ、藤吉郎は約束した。
「儂の名で借りる。木下藤吉郎が借りた。そう覚えておけ」
村人たちは、ようやく小さく頷いた。
「それから、藁を敷け」
「藁、でございますか」
「できるだけ厚くじゃ」
藤吉郎は、腹の大きな女を指した。
「腹の大きい女がおる。子を抱いた女もおる。年寄りもおる。荷車の板の上にそのまま座らせる阿呆があるか」
村人たちは、渋々ながら藁束を運んできた。
藤吉郎はそれを荷引き車の上に敷かせ、手で押して厚みを確かめる。
「もっとじゃ」
「へえ」
「揺れれば腹に響く」
その言葉に、腹の大きな女がびくりと肩を揺らした。
意味は分からぬはずなのに、己の腹を気遣われたことだけは伝わったのかもしれない。
藤吉郎は、次に村の女たちを見た。
「粥はあるか」
「粥、ですか」
「あるか」
「……少しなら」
村の女は、あまり気が進まぬ顔をした。
当然だ。
村の米も、余っているわけではない。
見知らぬ異国の者に食わせるために炊いた粥を出せと言われて、すぐに頷けるはずがない。
藤吉郎は、その顔を見て小さく息を吐いた。
「米は後で払う」
「木下様」
「粥を出せ。腹を空かせたまま動かせば倒れる。倒れられたら、余計に面倒じゃ」
「ですが、あの者らが何者かも」
「だからじゃ」
藤吉郎の声が、少し低くなった。
「何者か分からぬまま殺すのか。何者か分からぬまま飢えさせるのか。水も粥も与えず、腹の子まで弱らせるのか」
村の女は、言葉を詰まらせた。
藤吉郎は、少しだけ声を和らげた。
「薄くてよい。多く食わせるな。急に食わせれば腹を壊す。温かいものを、少しじゃ」
やがて、村の女は小さく頷いた。
「……分かりました」
しばらくして、湯気の立つ薄い粥が椀に入れられて運ばれてきた。
村人たちは、まだ遠巻きに見ている。
異国の一団も、警戒している。
藤吉郎は椀を受け取ると、まず自分が少しだけ口に運んだ。
毒ではない。
食える。
そう示すためだった。
それから、幼子を抱いた女の前に膝をつき、椀を差し出した。
「食え」
通じない。
女は怯えた目で藤吉郎を見た。
若い男が、庇うように一歩前へ出る。
おそらく、幼子を抱いた女の夫だろう。
兄か弟かまでは分からない。
けれど、その女と子を守ろうとしていることは分かった。
藤吉郎は、椀を自分の口元へ運ぶ仕草をした。
次に、幼子を指す。
それから、もう一度椀を差し出す。
「子に、少しじゃ」
女は、藤吉郎と椀を交互に見た。
やがて、震える手で椀を受け取る。
幼子の唇に、ほんの少し粥を含ませる。
幼子は、最初は嫌がるように顔を背けた。
けれど、温かさに気づいたのか、ゆっくりと飲み込んだ。
女の目から、ぽろりと涙が落ちた。
藤吉郎は、胸の奥が詰まった。
寧々が重なる。
猿丸が重なる。
次に、腹の大きな女へ椀を差し出す。
女は腹を抱えたまま、なかなか受け取ろうとしなかった。
すると、そばにいたもう一人の若い男が何かを言った。
言葉は分からない。
けれど、声は優しかった。
夫なのだろう。
女はようやく椀を受け取り、少しだけ粥を口にした。
年配の女にも粥を渡す。
年配の男は首を横に振った。
藤吉郎は眉を寄せた。
「食え」
年配の男は、また首を振り、女たちを指した。
女と子を先に。
そう言っているのだろう。
藤吉郎は、思わず苦笑した。
「頑固な親父じゃ」
言葉は通じない。
けれど、藤吉郎の表情だけは伝わったのか、年配の男はわずかに目を細めた。
やがて、藁を厚く敷いた荷車に、幼子を抱いた女、腹の大きな女、年配の女を乗せることになった。
年配の女は遠慮するように首を振ったが、藤吉郎は荷車を指し、座る仕草をした。
「乗れ。倒れられても困る」
若い男たちが、年配の女に何かを言う。
年配の女は、ようやく荷車に腰を下ろした。
年配の男にも、藤吉郎は荷車を指した。
乗るか。
そう尋ねるつもりで、手招きする。
年配の男は、藤吉郎の仕草をじっと見た。
それから、ゆっくり首を左右に振った。
自分の足を叩き、女たちの乗る荷車を指す。
藤吉郎は、それで理解した。
女たちを乗せろ。
自分は歩く。
そういうことだ。
「……分かった。だが倒れるなよ」
年配の男は、やはり言葉は分からぬはずなのに、藤吉郎をじっと見ていた。
その目に、ほんの少しだけ警戒とは違うものが混じった気がした。
その時、藤吉郎の目が、若い男二人の手に止まった。
大きな手だった。
ただ大きいだけではない。
指の節が太い。
掌が厚い。
ところどころ、火傷のような痕がある。
爪の間には、黒い汚れが残っていた。
百姓の手とは違う。
漁師の手とも違う。
刀を握る武士の手でもない。
何かを掴み、叩き、火のそばで働いてきた手だ。
藤吉郎は、目を細めた。
腰に結びつけられていた包みの端から、小さな鉄片のようなものが見えた。
釘か。
杭か。
それとも、何かの道具か。
分からない。
分からないが。
何かある。
藤吉郎は、浜に落ちていた船板をもう一度見た。
裂けた布。
打ち込まれた釘。
無理やり固定された木片。
嵐の中で、船から投げ出されぬよう、誰かが必死に打った跡。
女を。
子を。
年寄りを。
生かすために。
藤吉郎の中で、いつもの勘が小さく鳴った。
「……ただの漂着者ではないかもしれぬな」
供の者が顔を上げる。
「木下様?」
「いや、何でもない」
藤吉郎は首を振った。
今はまだ、分からない。
だが、分からないからといって殺す理由にはならない。
分からないからこそ、生かして確かめる。
信長のもとで働くなら、そうでなければならぬ。
少なくとも、藤吉郎はそう思った。
「信長様へ報せを走らせよ」
藤吉郎は供の一人へ命じた。
「はっ」
「儂が知多の浜で異国の者を保護したと伝えよ」
供の者が息を呑む。
「異国の者を」
「そうじゃ。倭寇かどうかは不明。男二人、女二人、老人二人、幼子一人。うち一人の女は腹が大きい」
「はっ」
「危険は捨てきれぬ。だが、浜に置けば村人に殺されかねぬゆえ、清洲へ連れ帰る、と」
供の者の顔が強張った。
「木下様。それは」
「分かっておる」
藤吉郎は短く言った。
「独断じゃ。叱られるのは儂じゃ」
信長に叱られるだろう。
間違いなく叱られる。
勝手なことをしたと怒られる。
怪しい異国人を清洲へ入れるつもりかと責められる。
何者かも分からぬ者を、なぜその場で押さえ、報告を待たなかったのかと問われる。
下手をすれば、命で償えと言われてもおかしくない。
そこまではいかずとも、信長の目は冷たくなるだろう。
勝家にも睨まれる。
信行には、順序が悪いと叱られるかもしれない。
義銀なら、どう文に残すか頭を抱えるかもしれない。
お藤の方の耳に入れば、まず腹を空かせておくなと言われるだろう。
それでも。
藤吉郎は、荷車の上で幼子を抱きしめる女を見た。
その横で、腹を庇う女を見た。
湯気の残る粥の椀を、両手で抱える年配の女を見た。
そして、石をまだ足元に置いたままの村人たちを見た。
ここに置いていく方が危ない。
そう判断した。
「浜には置かぬ」
藤吉郎は言った。
「儂が清洲へ連れていく」
「木下様……」
「このまま置いて、石を投げられ、腹の子まで死なせたとなれば」
藤吉郎は、幼子を抱く女を見た。
腹を庇う女を見た。
年老いた男女を見た。
そして、奥歯を噛んだ。
「儂は、寧々と猿丸の顔を見られなくなる」
それ以上、誰も何も言わなかった。
藤吉郎は荷車の綱を確認し、供の者に命じた。
「ゆっくり引け。揺らすな。女と子が乗っておる」
「はっ」
「若い男二人は歩かせる。ただし、縄はかけるな。逃げぬよう見張れ。脅すな」
「はっ」
「年寄りの男も歩く。無理をさせるな。倒れそうなら止まれ」
「はっ」
「水を持て。椀もだ。途中で休ませる」
「はっ」
藤吉郎は、最後に村の者へ振り返った。
村人たちは、びくりと肩を揺らした。
「粥と藁と荷車、たしかに借りた。米も藁も払う。荷車も返す。清洲へ届けさせる」
「……へえ」
「それから」
藤吉郎は、石を持っていた男を見た。
男は、慌てて石を足元へ落とした。
「次に見知らぬ者が流れ着いたら、まず知らせよ。殺す前に知らせよ。よいな」
「へ、へえ」
「怖ければ囲め。逃がすな。だが、子と腹の女に石を投げるな」
村人たちは、深く頭を下げた。
藤吉郎は、清洲の方角を見た。
怒られる。
間違いなく、怒られる。
しかも、ただの小言では済まないだろう。
信長の本気の叱責が待っている。
藤吉郎の背中に、ぞくりとしたものが走った。
怖い。
正直、怖い。
だが、もう決めた。
「行くぞ」
荷車が、ぎしりと音を立てて動き出した。
藁を厚く敷いた荷台の上で、幼子が小さく泣いた。
その声に、藤吉郎は猿丸の泣き声を重ねた。
走るな。
急げ。
走るな。
急げ。
藤吉郎は、ほとんど祈るように歩き出した。
信長様。
儂が勝手をしたことは、分かっております。
お怒りは、ごもっともでございます。
だが、置いては行けませぬ。
この浜には、置いていけませぬ。
この時、藤吉郎はまだ知らなかった。
己が怒られる覚悟で清洲へ連れ帰ったこの異国の家族が、やがて尾張の鉄を変える火種になることを。
そして、借り受けた古い荷引き車が。
後に、木の車輪へ鉄の輪を嵌められ、見違えるほど丈夫になって村へ戻されることを。
まだ、誰も知らなかった。




