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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
第四章 鬼柴田の妻と海を越えた鍛冶師

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第二話 鬼柴田の姫


木下家に猿丸殿が生まれてから、三月が過ぎた。


その頃の尾張は、やはり忙しなかった。


信長様は、相変わらず先を見ておられた。


勝家様は、戦と政に追われていた。


義銀は信長様のそばで、日々側近として学び、働いていた。


義冬は、隣の斯波邸で学びながら、時折こちらへ顔を出した。


そして木下殿は、相変わらず騒がしかった。


ただし、少しだけ変わった。


寧々殿のことを、よく見るようになった。


猿丸殿のことを、よく語るようになった。


そして、走る前に一度止まるようになった。


これは大きな進歩である。


完全に走らなくなったわけではない。


しかし、一度止まる。


とても大事なことです。


人は、少しずつ学ぶものなのですね。


……木下殿の場合、少しずつ過ぎる気もしますが。


そんな中。


柴田家にも、新しい命が生まれた。


姫だった。


小さな、小さな姫。


産声を上げた時、私は泣いた。


自分でも驚くほど、涙が出た。


藤七丸の時もそうだった。


けれど、二度目だから慣れている、などということはなかった。


命が生まれる瞬間に、慣れることなどないのだと思う。


痛くて。


苦しくて。


怖くて。


それでも、産声が聞こえた瞬間、胸の奥がほどける。


産婆が赤子を見せてくれた時、私は震える手で、その小さな頬を見た。


赤い。


皺だらけ。


小さい。


けれど、確かに生きている。


「姫にございます」


その言葉を聞いた瞬間、部屋の外が少し騒がしくなった。


勝家様がいたのだろう。


いえ、いたに決まっている。


於光様が外へ出て、何かを告げる声がした。


それから、低い声が聞こえた。


短い返事だった。


けれど、その声に混じった安堵を、私は聞き逃さなかった。


しばらくして、勝家様が入ってきた。


大きな方である。


戦場では鬼柴田と呼ばれる方である。


その勝家様が、襖の前で動かなくなった。


藤七丸の時にも見た光景である。


「勝家様」


私が呼ぶと、勝家様はゆっくりこちらを見た。


「……お藤」


「はい」


「無事か」


「はい」


「姫も」


「無事です」


勝家様は、深く息を吐いた。


それから、私の側へ膝をついた。


姫を見た。


本当に、小さな姫を。


その大きな手が、少しだけ迷うように宙で止まる。


触れてよいのか分からない。


そんな顔だった。


「小さいな」


「藤七丸の時も、そうおっしゃっていました」


「……そうであったか」


「はい」


私は少し笑った。


笑うだけで、身体に力が入る。


産後の身体は、思うように動かない。


それでも、勝家様の顔を見ていると、不思議と安心した。


「名は」


勝家様が尋ねた。


「考えております」


「うむ」


「紫乃」


そう言うと、勝家様はゆっくり瞬きをした。


「紫乃」


「はい。紫乃です」


藤の花の色。


紫の色。


そして、私の名から少しだけ繋がる音。


この子が、ただ誰かの娘として、誰かの妻としてだけではなく、己の名を持って生きていけるように。


そう願って名付けた。


「紫乃」


勝家様は、もう一度その名を呼んだ。


低く、静かな声だった。


けれど、そこには確かな温かさがあった。


「よい名だ」


その一言で、胸がいっぱいになった。


こうして、柴田家の姫は紫乃と名付けられた。


藤七丸は、妹が生まれたことを最初はよく分かっていなかった。


「いもうと」


「はい。藤七丸の妹です」


「いもうと」


「紫乃ですよ」


「しの」


「はい」


藤七丸は、紫乃を不思議そうに見ていた。


小さい。


動かない。


泣く。


眠る。


また泣く。


たぶん、藤七丸からすれば、よく分からない存在だったのだろう。


けれど、藤七丸は紫乃を嫌がらなかった。


むしろ、気になるらしい。


紫乃が泣くと、真っ先に近づこうとする。


もちろん、走る。


「藤七丸、走らない」


「はい」


すぐ止まる。


そして早歩きになる。


柴田邸の子である。


学びが早い。


紫乃が眠っている時も、藤七丸はそばへ行きたがった。


於光様が見守り、侍女たちが少し離れたところで控える。


勝家様は、なぜか戸口のあたりで腕を組んでいた。


怖い。


いえ、本人はただ見守っているだけなのでしょうが、見た目が怖い。


私は寝所に身を起こし、布団に背を預けながら、その様子を見ていた。


「藤七丸」


「はい」


「紫乃は眠っています。大きな声を出してはいけませんよ」


「はい」


藤七丸は、そろそろと紫乃のそばへ近づいた。


小さな足。


小さな手。


けれど、本人はたいへん慎重である。


紫乃の横へ座ると、藤七丸はじっと妹の顔を見た。


紫乃は眠っている。


小さな口を少し開けて、すうすうと息をしている。


藤七丸は、手を伸ばしかけた。


けれど、途中で止めた。


触れてよいのか迷ったのだろう。


私は口を挟まずに見守った。


勝家様も黙っていた。


藤七丸は、しばらく考えたあと、紫乃の布の端にそっと指を置いた。


本当に、そっと。


そして、小さな声で言った。


「しの」


紫乃は眠っている。


返事はない。


それでも藤七丸は、真剣な顔で続けた。


「あにうえ、だぞ」


私は、思わず息を止めた。


あにうえ。


兄上。


まだ、ほんの少し前まで自分も赤子だったような藤七丸が。


歩き始めたばかりで、袖を掴んで、転んで、泣いて、笑っている藤七丸が。


紫乃の兄になった。


「……そうですね」


私の声は、少し震えていた。


「藤七丸は、紫乃の兄上ですね」


藤七丸は、誇らしそうに頷いた。


「はい」


勝家様の目元が、ほんの少しだけ和らいだ。


本当に少しだけ。


けれど、私には分かった。


勝家様も、同じものを見ている。


藤七丸と紫乃。


柴田家に生まれた二つの命。


私たちが守りたいもの。


私たちが、この戦国の世で繋いでいきたいもの。


忙しない日々の中で、こんなにも静かな時があるのだと、私は思った。


藤七丸が紫乃を見守っている。


紫乃は眠っている。


勝家様は黙ってそれを見ている。


於光様は、少し離れた場所で目を細めている。


私は、身体の疲れを感じながらも、不思議と満たされていた。


それから、二月ほどが過ぎた。


私は産後の床からは起き上がれるようになった。


歩ける。


座れる。


少しなら、帳面も見られる。


……少しなら。


そう思っていたのだが、於光様と八右衛門殿と勝家様に、たいへん厳しく止められていた。


「藤乃様」


「はい」


「帳面は一日一刻までです」


「短くありませんか」


「一刻までです」


「ですが」


「藤乃様」


「はい」


「産後でございます」


「はい」


「紫乃様もおられます」


「はい」


「藤七丸様もおられます」


「はい」


「そして、藤乃様は放っておくと増やします」


「何をでしょうか」


「仕事を」


否定できなかった。


八右衛門殿の目が静かだった。


とても静かだった。


静かな時ほど、怖い。


勝家様も、何も言わずにこちらを見ていた。


その無言が、何より強い。


「……分かりました」


「本当にでございますか」


「本当にです」


「では、その紙は」


「これは献立の確認です」


「帳面ではございませぬか」


「献立の確認です」


「藤乃様」


「……帳面です」


すぐに取り上げられた。


厳しい。


柴田邸は厳しい。


けれど、それだけ大事にされているのだと分かるから、私はあまり強くは言えない。


紫乃はよく眠る子だった。


ただし、眠る時と泣く時の差がはっきりしている。


泣く時は、たいへん力強く泣く。


藤七丸はそのたびに駆けつけようとする。


「しの、ないた」


「はい。泣きましたね」


「しの、どうした」


「お腹が空いたのかもしれません」


「ははうえ」


「はい」


「あにうえ、みる」


見守る、という意味でしょうか。


藤七丸は、兄上としての務めを果たそうとしているらしい。


その姿が可愛らしくて、私は何度も笑ってしまった。


勝家様は、紫乃を抱くのがまだ少し慎重だった。


藤七丸の時にも慎重だったけれど、紫乃相手だとさらに慎重である。


大きな手で、小さな紫乃を抱く。


その姿は、少し不思議だった。


鬼柴田と呼ばれる方が、赤子を抱く時だけ、まるで壊れ物に触れるような顔をする。


「勝家様」


「何だ」


「紫乃は、そこまで壊れやすくはありません」


「小さい」


「小さいですが、赤子は意外と強いものです」


「しかし、小さい」


「はい」


勝家様は、本当にそればかり言う。


藤七丸がそれを真似して、紫乃を見ながら言った。


「しの、ちいさい」


「そうですね」


「あにうえ、おおきい」


「そうですね」


藤七丸は満足そうだった。


確かに、紫乃に比べれば、藤七丸は大きい。


兄上である。


そんな穏やかな日だった。


紫乃はよく眠っていた。


藤七丸は、そのそばに座って、また兄上らしい顔をしていた。


勝家様は私の近くに座り、紫乃と藤七丸を見ている。


私は、取り上げられた帳面のことを少しだけ考えながら、温かい湯を飲んでいた。


於光様には内緒だが、頭の中では明日の献立を組み立てていた。


これは帳面ではない。


頭の中なので、取り上げられようがない。


そう思っていた、その時だった。


「権六殿! お藤の方!」


廊下の向こうから、たいへん聞き覚えのある、騒がしい声が響いた。


私は、湯呑を持ったまま固まった。


勝家様の眉間に、深い皺が寄る。


藤七丸が顔を上げた。


紫乃は、少しだけ身じろぎした。


於光様が、すっと立ち上がる気配がした。


声は、さらに近づいてくる。


「権六殿! お藤の方! どうか、どうかお力をお貸しくだされ!」


木下殿である。


間違いなく、木下藤吉郎殿である。


しかも、ただ騒がしいだけではない。


声に、焦りが混じっていた。


私は勝家様を見た。


勝家様も私を見た。


二月前、紫乃が生まれた時。


私は、忙しない日々の中にも静かな時があるのだと思った。


どうやら、その静かな時は。


本日をもって、終わりを告げたらしい。


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