第一話 猿の子、猿丸
木下藤吉郎殿に、子が生まれた。
その知らせが柴田邸に届いた時、私はちょうど藤七丸の袖を直していた。
最近の藤七丸は、たいへんよく動く。
歩く。
転ぶ。
立ち上がる。
また歩く。
そして、なぜか私の袖や勝家様の袴を掴んで、己も一緒に働いているような顔をする。
働いているつもりなのでしょうか。
ええ。
お気持ちはありがたいです。
ですが、今は袖から手を離してください。
「藤七丸、少しじっとしていてください」
「はぁい」
返事だけはよい。
返事だけは。
その藤七丸が、私の袖を掴んだまま、届いた文を見上げた。
「ははうえ?」
「木下殿からの文です」
「きのした」
「はい。木下藤吉郎殿です」
「さる」
私は思わず手を止めた。
どこで覚えたのでしょうか。
いえ。
覚える場所はいくらでもありますね。
主に信長様のせいです。
「藤七丸」
「はい」
「人を呼ぶ時は、きちんとお名前で呼びましょう」
「さるどの」
「……木下殿です」
「きのしたどの」
「はい」
よろしい。
学びとは、日々の積み重ねである。
八右衛門殿が持ってきてくれた文は、早馬で届いたものだった。
「早馬?」
私は少しだけ眉を寄せた。
木下殿は騒がしい。
木下殿は慌ただしい。
木下殿は、文の一文一文まで落ち着かない。
けれど、だからといって早馬で文を送るようなことは、そう多くはない。
何かあったのだろうか。
寧々殿の身に。
子に。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
私は急いで文を開いた。
そこには、大きな字でこう書かれていた。
生まれました。
私は、息を止めた。
次の行には、さらに大きな字が続いていた。
男子にございます。
その下には、少し乱れた字で、けれどはっきりと書かれていた。
寧々は無事です。
私は、深く息を吐いた。
よかった。
本当に、よかった。
命が生まれることは、めでたい。
けれど、それは簡単なことではない。
寧々殿が無事であること。
子が無事に生まれたこと。
その二つが並んでいるだけで、目の奥が熱くなった。
「木下殿のところに、男の子が生まれたそうです」
そう言うと、於光様がぱっと顔を明るくした。
「まあ」
八右衛門殿も、ほっとしたように頷く。
「それはめでたいことでございます」
「はい」
藤七丸は、まだよく分かっていない顔で私を見ている。
「おとこのこ?」
「はい。赤子です」
「あかご」
「藤七丸より、ずっと小さい子ですよ」
藤七丸は、自分より小さいという言葉に少し驚いたようだった。
己がまだ小さいと思っていないのでしょう。
分かります。
子は、自分が思っているより小さい。
大人も、自分が思っているより大人ではない時があります。
主に、木下殿とか。
文にはさらに続きがあった。
子は元気に泣いております。
寧々も笑っております。
儂は泣いてはおりませぬ。
……絶対に泣いている。
私はそう思った。
文の端が、少しだけ滲んでいる。
これは、涙ではないのでしょうか。
いえ、きっと涙ですね。
木下殿ですので。
さらに、その下。
名は、猿丸にいたします。
私は、固まった。
猿丸。
猿の子で、猿丸。
あまりにも、そのままである。
あまりにも、木下殿である。
「……猿丸」
思わず口に出すと、於光様が瞬きをした。
八右衛門殿は、額を押さえた。
藤七丸は、私の真似をして小さく呟く。
「さるまる」
「はい」
「さるどのの、こ?」
「……木下殿の子です」
「きのしたどのの、こ」
「はい」
「さるまる」
覚えてしまった。
とても覚えやすい名である。
それが良いのか悪いのかは、私には分かりません。
「藤乃様」
八右衛門殿が、静かに言った。
「はい」
「木下殿らしい名でございますな」
「はい」
もう、それ以上の言葉が出なかった。
木下殿らしい。
本当に、それに尽きる。
於光様は、袖で口元を隠していた。
たぶん笑っている。
怒っているのではない。
呆れているのでもない。
ただ、木下殿らしすぎて、笑うほかないのだろう。
私もそうである。
「寧々殿がよいのなら、よいのでしょう」
そう言うと、於光様は目元を和らげた。
「そうですね。母が受け入れておられるなら、それが何よりです」
母。
寧々殿は、母になった。
木下殿は、父になった。
そのことが、文の向こうからじんわりと伝わってくる。
私は文を畳み、胸の上にそっと置いた。
「おめでとうございます、寧々殿」
声に出すと、藤七丸が私を見上げる。
「おめでとう?」
「はい。めでたい時に言う言葉です」
「おめでとう」
「はい」
藤七丸は、よく分からないまま頷いた。
「さるまる、おめでとう」
私は思わず笑ってしまった。
「そうですね。猿丸殿にも、おめでとうございます、ですね」
その日の柴田邸は、少しだけ浮き立っていた。
寧々殿が無事だった。
子も無事だった。
それだけで、皆の表情が柔らかくなる。
勝家様が戻られたのは、夕刻近くのことだった。
「木下に子が生まれたそうです」
私がそう告げると、勝家様は一つ頷いた。
「そうか」
「男の子だそうです」
「うむ」
「寧々殿も無事とのことです」
「それはよかった」
短い。
けれど、勝家様の声は確かに安堵していた。
勝家様は木下殿に対して、何かと厳しい。
というより、木下殿が騒がしすぎるので、自然とそうなる。
けれど、木下殿が妻を大事にし、子を得たことを喜んでいるなら、勝家様も悪くは思わない。
「名は」
「猿丸だそうです」
勝家様は、そこで止まった。
本当に、止まった。
「……猿丸」
「はい」
「猿の子で、猿丸だそうです」
勝家様は、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「猿らしい」
「はい」
やはり、それに尽きる。
「寧々殿は、お前様らしい名でございますね、と笑ってくださったそうです」
そう言うと、勝家様はしばらく黙った。
それから、静かに言った。
「ならば、よい」
「はい」
私も同じことを思った。
寧々殿が笑ったなら、よい。
その名を呼ぶたびに、寧々殿が困ったように、けれど幸せそうに笑えるなら。
きっと、それは良い名なのだろう。
後日。
木下殿は、柴田邸へやって来た。
もちろん、寧々殿と猿丸殿を連れてではない。
寧々殿は産後である。
来てよいはずがない。
もし来ようとしたなら、私と於光様で止める。
木下殿も、それは分かっていたらしい。
だから、木下殿だけが来た。
ただし。
たいへん騒がしかった。
「藤の方様! 権六殿! 生まれましたぞ! 生まれましたぞ!」
廊下の向こうから、すでに声がしている。
まだ姿は見えない。
けれど、声だけで誰か分かる。
たいへん分かりやすい。
「木下殿」
私が呼ぶ前に、勝家様の眉間に深い皺が寄った。
「走っているな」
「走っていますね」
藤七丸が、ぱっと顔を上げた。
「はしる?」
「藤七丸は走ってはいけません」
「はい」
よろしい。
藤七丸は学んでいる。
問題は、木下殿です。
木下殿は勢いよく座敷の前まで来ると、何とかそこで止まった。
滑り込むように止まった。
止まったので、よしとするべきでしょうか。
いえ、よくありません。
「木下殿」
私が呼ぶと、木下殿は満面の笑みで頭を下げた。
「藤の方様!」
「声が大きいです」
「はい!」
「返事も大きいです」
「はい」
今度は小さくなった。
とても極端である。
勝家様は、腕を組んだまま木下殿を見ていた。
「猿」
「はっ」
「廊下を走るな」
「申し訳ございませぬ!」
「声」
「申し訳ございませぬ」
本当に極端である。
於光様が、少し離れたところで静かに笑っていた。
「それで、寧々殿はいかがですか」
私が尋ねると、木下殿の顔が一気に緩んだ。
「よう寝ております。飯も少しずつ食べております。産婆にも、今は寝ておれと言われておりますので、儂がうるさく言うて寝かせております」
「木下殿が、うるさく」
「はい」
「寧々殿は休めているのでしょうか」
木下殿は、はっとした顔をした。
「……儂、うるさかったでしょうか」
「心当たりがあるのですね」
「少し」
少しではない気がする。
けれど、木下殿は本気で心配している。
そのことは伝わる。
「子は」
勝家様が短く尋ねた。
木下殿は、ぱっと顔を輝かせた。
「よう泣きます!」
「赤子は泣く」
「はい! けれど、猿丸はよう泣きますぞ。声が強い。あれは大物になります」
「赤子は泣く」
「権六殿、そこはもう少し喜んでくだされ」
勝家様は木下殿を見た。
木下殿は口を閉じた。
よろしい。
少し落ち着きました。
「それにしても」
私は、改めて尋ねた。
「本当に、猿丸殿なのですね」
木下殿は胸を張った。
「猿の子ですからな!」
言い切った。
迷いがない。
「猿の子で、猿丸じゃ!」
部屋の空気が、少しだけ止まった。
八右衛門殿が咳払いをした。
於光様は、また袖で口元を隠した。
藤七丸は、きらきらした目で木下殿を見ている。
やめてください。
覚えます。
「寧々殿は、本当にその名でよろしいと?」
「はい」
木下殿の声が、そこで少しだけ柔らかくなった。
「お前様らしい名でございますね、と笑ってくれました」
「……そうですか」
「寧々が笑ったのです」
その一言で、私は何も言えなくなった。
寧々殿が笑った。
なら、よいのだろう。
猿丸。
木下藤吉郎殿の子。
寧々殿が笑って受け入れた名。
ならば、周囲がどうこう言うことではない。
「では、猿丸殿ですね」
そう言うと、木下殿はそれはそれは嬉しそうに頷いた。
「はい!」
「声」
「はい」
また小さくなった。
その日、木下殿はずっと猿丸殿の話をしていた。
猿丸殿がどれほど泣くか。
猿丸殿がどれほど小さいか。
猿丸殿が指を握ったこと。
寧々殿が笑ったこと。
寧々殿が疲れて眠ったこと。
産婆に叱られたこと。
自分も少し叱られたこと。
かなり叱られているのではないでしょうか。
けれど、木下殿は嬉しそうだった。
怒られても、叱られても、泣かれても、眠られても。
そこに妻と子がいることが、ただ嬉しいのだろう。
その姿を見ていると、私は少しだけ胸が温かくなった。
寧々殿は、一人ではない。
木下殿は、今度こそ寧々殿の隣にいる。
猿丸殿は、その二人の間に生まれた子だ。
「藤の方様」
帰り際、木下殿がふいに頭を下げた。
「寧々のこと、本当にありがとうございました」
「私は、大したことはしておりません」
「いいえ」
木下殿は首を振った。
「藤の方様が、儂を叱ってくださらなんだら、儂は気づけませなんだ」
「……木下殿」
「寧々が笑ってくれるのです。それが、こんなに嬉しいことだとは、儂は知らなんだ」
その声は、いつものように大きくはなかった。
けれど、いつもの木下殿より、ずっと深いところから出ているように聞こえた。
私は、少しだけ微笑んだ。
「では、これからも寧々殿の話を聞いて差し上げてください」
「はい」
「猿丸殿が泣いたら、寧々殿だけに任せきりにしないように」
「はい」
「寧々殿が眠っている時は、起こさないように」
「はい」
「木下殿」
「はい」
「嬉しいからといって、家の中を走らないように」
木下殿は、少しだけ目を泳がせた。
「……はい」
そこは即答してください。
勝家様が、低く言った。
「猿」
「はっ」
「走るな」
「はっ」
これで、しばらくは大丈夫でしょう。
たぶん。
たぶんですが。
こうして、木下家に猿丸殿が生まれた。
最初は皆、その名に苦笑した。
けれど、寧々殿が笑って受け入れたと知ると、少しずつ、その名は木下家の子の名として馴染んでいった。
猿丸。
不思議なことに、呼べば呼ぶほど、木下殿の子らしい気がしてくる。
名とは、そういうものなのかもしれない。
そして私は、まだ知らなかった。
この猿丸殿の誕生が。
いずれ木下殿に、己がただ走り回る猿ではなく、一つの家を背負う父であるのだと、はっきり自覚させることになるなど。
この時の私は、まだ何も知らなかったのである。




