幕間 お琴の日記
七月六日
本日、帰蝶様に呼ばれた。
義銀様は信長様のおそばに呼ばれており、私は一人で奥へ向かった。
帰蝶様から呼ばれることは、今でも少し緊張する。
怖い方ではない。
むしろ、私にはいつも優しくしてくださる。
帰蝶様は、信長様の隣に立つ御方である。
その場にいるだけで、背筋が伸びるような方だ。
私は失礼のないように衣を整え、奥へ向かった。
「琴」
「はい、帰蝶様」
私が頭を下げると、帰蝶様は少しだけ目を細めた。
「固いのう」
「申し訳ございません」
「謝るところではない」
帰蝶様は、くすりと笑われた。
私は、どう返せばよいか分からず、もう一度頭を下げそうになった。
すると帰蝶様が、扇で口元を隠しながら言った。
「琴、そなたはもう斯波の妻じゃ」
「はい」
「義銀殿は、三郎様が目をかけておる若者。そなたもまた、織田と斯波を繋ぐ大事な娘じゃ」
娘。
その言葉に、少し胸が跳ねた。
私は織田家から斯波家へ嫁いだ。
だから、織田家の娘でなくなったわけではない。
けれど、斯波家の妻となった以上、以前のように振る舞ってよいのか、分からない時がある。
帰蝶様は、そんな私の迷いを見透かしたように笑われた。
「折角じゃ」
「はい」
「母上と呼んでみよ」
私は固まった。
「……はい?」
思わず聞き返してしまった。
帰蝶様は楽しそうだった。
「聞こえなんだか?」
「い、いえ。聞こえました」
「ならば、呼んでみよ」
母上。
帰蝶様を。
母上。
……帰蝶様は、母とお呼びするには、あまりにお若い気もするのですが。
いえ。
そういうことではないのでしょう。
ないのでしょうけれど。
よいのだろうか。
私は、帰蝶様を敬っている。
美しく、強く、信長様の隣に立つにふさわしい方だと思っている。
けれど、母と呼ぶには、あまりに恐れ多い。
そして、少し。
年が、近い。
「帰蝶様」
「違う」
「……帰蝶、様」
「違うと言うておろう」
帰蝶様は笑っている。
完全に、楽しんでおられる。
私は助けを求めるように周囲を見た。
しかし、そこに助けはなかった。
むしろ、襖の向こうから小さな足音が近づいてきた。
「お琴姉様!」
元気な声と共に、徳姫様が顔を出した。
続いて、冬姫様も小さな手で襖を押し開ける。
「お琴姉様!」
二人にそう呼ばれ、私はますますどうすればよいか分からなくなった。
姉様。
私は、姉様なのだろうか。
斯波家へ嫁いだ身であるから、織田の姫君方からすれば、そう呼んでいただく立場になるのかもしれない。
けれど、いざ声にされると、胸のあたりがくすぐったい。
「徳姫様、冬姫様」
「違います」
徳姫様が、ぷくりと頬を膨らませた。
「お琴姉様は、徳の姉様なのですから、徳と呼んでくださいませ」
「冬も!」
徳姫様まで、小さな手を上げる。
帰蝶様が、扇の向こうで笑っていた。
これは。
逃げられない。
とても、逃げられない。
「……徳姫様」
「徳」
「……徳様」
「徳」
「徳、姫」
「徳」
「徳」
ようやくそう呼ぶと、徳姫様は満足そうに笑った。
徳姫様も、期待に満ちた目でこちらを見ている。
「冬、姫」
「ふゆ」
「……冬」
冬は嬉しそうに笑った。
可愛い。
とても可愛い。
そして、とても強い。
織田の姫君は、幼くとも強い。
私が呆然としていると、帰蝶様が言った。
「ほれ、姫たちには呼べたではないか」
「帰蝶様」
「違う」
「……」
私は、しばらく迷った。
けれど、徳と冬が、両側から私の袖を掴んでいる。
お琴姉様。
そう呼ばれた声が、胸の中に残っていた。
私は、織田家から離れたのではない。
斯波家へ嫁いだことで、新しく繋がったのだ。
義銀様の妻として。
そして、織田家の娘として。
私は、そっと息を吸った。
「帰蝶の母様」
帰蝶様が、少し目を瞬いた。
それから、ゆっくり笑われた。
「帰蝶の母様、か」
「申し訳ございません。母上、とだけ呼ぶには、まだ少し……」
「よい」
帰蝶様は、扇を閉じた。
「それでよい。急に母上と呼べと言われても困るであろう」
分かっておられたのですか。
分かっていて言われたのですか。
私は、少しだけ恨めしい気持ちで帰蝶様を見た。
すると帰蝶様は、また楽しそうに笑われた。
「三郎様に似たことをしてみたくなっただけじゃ」
似たこと。
確かに。
とても、信長様に似たことだった。
「では、帰蝶の母様」
「何じゃ」
「徳と冬を、少しお借りしてもよろしいでしょうか」
徳と冬が、ぱっと顔を上げた。
帰蝶の母様は、満足そうに頷いた。
「よい。姉様らしく遊んでやれ」
「はい」
こうして私は、徳と冬に手を引かれ、奥の庭へ出ることになった。
二人は私を「お琴姉様」と呼んだ。
何度も。
何度も。
そのたびに、私は少し照れた。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、嬉しかった。
私は、斯波家に嫁いだ。
けれど、織田家から切り離されたわけではない。
帰蝶の母様は、それを私に教えようとしてくださったのかもしれない。
……いや。
ただ面白がっていた可能性もある。
どちらでしょうか。
たぶん、どちらもだと思う。
―――――――
七月十五日
本日、柴田邸で藤乃様の御懐妊が分かった。
寧々殿の御懐妊に続き、藤乃様にも第二子が宿られたのである。
藤七丸様の弟君か、妹君か。
まだ分からないけれど、柴田家にまた新しい命が宿ったという知らせに、皆が喜んだ。
ただし、柴田邸はたいへん騒がしかった。
藤乃様の御懐妊。
勝家様の御帰還。
木下殿と寧々殿。
信長様。
信行様。
義銀様。
義冬様。
新介兄上。
小平太殿。
そして、私。
なぜ、あの場にあれほど人が集まったのか、今でもよく分からない。
けれど、祝い事であったことは確かだ。
その場で、信長様が私を見た。
「お琴」
「はい」
「そこは父上だろう」
私は固まった。
父上。
信長様を。
父上。
七月六日に、帰蝶様を「帰蝶の母様」と呼んだばかりである。
今度は信長様を父上。
なぜ。
なぜ、この場で。
なぜ、藤乃様の御懐妊が分かったこの騒ぎの中で。
「父上……」
私は、小さく呟いた。
顔が熱かった。
信長様は、とても満足そうだった。
信行様が額を押さえていた。
義銀様は、すっと目を伏せていた。
新介兄上は口元を押さえていた。
小平太殿は、どう反応してよいか分からない顔をしていた。
義冬様は、義銀様を見てから、信長様を見て、そっと背筋を伸ばしていた。
藤乃様は、腹に手を当てたまま、何かを考えるような顔をしていた。
おそらく、情報が多すぎたのだと思う。
私もそうです。
―――――――
七月廿五日
本日、帰蝶の母様に呼ばれた。
今では、そう呼ぶことにも少し慣れてきた。
まだ少し照れる。
けれど、帰蝶の母様は、私がそう呼ぶたびに満足そうに笑われる。
その顔を見ると、こちらも少し嬉しくなる。
奥へ伺うと、帰蝶の母様は上機嫌だった。
「琴」
「はい、帰蝶の母様」
「柴田のお藤は二人目だそうじゃの。めでたいな」
「はい。本当に」
「寧々も身籠ったとか」
「はい」
「祝い事は重なるものじゃ」
帰蝶の母様は、そこでふと思い出したように笑われた。
「そうそう。三郎様がな」
「父上が?」
言ってから、私は少しだけ固まった。
父上。
まだ慣れない。
けれど、帰蝶の母様はたいへん楽しそうだった。
「おお、呼べておるではないか」
「……まだ、少し慣れません」
「すぐ慣れる」
そうでしょうか。
そうかもしれません。
織田家の方々は、慣れるまで待つというより、気づけば慣れるほかないところまで連れていかれる方々である。
帰蝶の母様は、扇で口元を隠した。
「妾が三郎様に、琴から『帰蝶の母様』と呼ばれたと自慢したのじゃ」
「自慢、でございますか」
「自慢じゃ」
帰蝶の母様は、隠す気もなく笑っておられる。
「そうしたら、三郎様が言うた。『儂も父上と呼ばれたぞ』とな」
私は、手にしていた茶碗を落としそうになった。
「……父上は、そのためにあの場でおっしゃったのですか」
「たぶんな」
「たぶん」
「いや、間違いなく」
帰蝶の母様は、それはそれは楽しそうに笑っておられた。
「妾だけ母様と呼ばれて、三郎様が黙っておれるはずがなかろう」
確かに。
とても、確かに。
信長様……いえ、父上は、そういう方である。
「三郎様は、昔から負けず嫌いでな」
帰蝶の母様が、くすくすと笑う。
「母様と呼ばれた妾だけ得をするのは、気に入らなんだのであろう」
「そのようなことで、あの場でおっしゃったのですか」
「三郎様じゃからの」
その一言で、すべてが片付いてしまった。
父上だから。
帰蝶の母様だから。
……織田家だから。
私は、そっと息を吐いた。
嫁ぐとは、家を出ることだと思っていた。
けれど、家を出ることは、何もかも失うことではなかった。
新しい家に入り。
新しい縁を得て。
そして、元の家とも、別の形で繋がり直す。
義銀様の妻として。
斯波家の女として。
織田家の娘として。
そして。
帰蝶の母様の娘として。
父上の娘として。
私は、少しずつ、自分の立つ場所を知っていくのだと思う。
今日、徳と冬がまた私を呼んだ。
「お琴姉様!」
その声に、私は笑って返事をした。
まだ少し照れる。
けれど、悪くない。
とても、悪くない。
私には、生まれた家がある。
新介兄上がいる。
猶子として迎えてくださった織田家がある。
帰蝶の母様がいて、父上がいて、犬と徳がいる。
そして今は、義銀様の妻として、斯波家にいる。
嫁ぐとは、何かを一つ失うことではなく、いくつもの縁の上に立つことなのかもしれない。
――斯波義銀正室・お琴の日記『永禄四年日記』より




