第六話 勝家様のお姉様、強すぎません?
柴田勝家に抱えられたまま、柴田家の門をくぐった瞬間、私は思った。
帰りたい。
いや、帰る家は燃えた。
そうだった。
帰る場所がない。
それはそれとして、お姫様抱っこが恥ずかしい。
恥ずかしすぎる。
私は十八歳である。
斯波家の姫である。
そして今、柴田勝家に片腕で運ばれている。
何この状況。
もちろん、足は痛い。
くじいたのだから仕方がない。
歩けるかと言われれば、多分、歩けない。
歩こうとすると、千若が泣きそうな顔で私を見る。
義銀まで悲しそうな顔をする。
やめて。
そんな顔をしないで。
私が歩こうとするだけで、この世の終わりみたいな顔をするの、本当に心にくる。
だから大人しく抱えられている。
大人しく抱えられているのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
しかも、柴田勝家である。
あの柴田勝家である。
後の鬼柴田。
お市の方の夫。
戦国の猛将。
その人に抱えられている。
待って。
情報量が多い。
「勝家殿おおおおお!!」
柴田家の門の内側から、男の悲鳴が聞こえた。
悲鳴。
そう、あれは悲鳴だった。
叫んでいるのは、細身の男だった。
いかにも実務ができそうな顔をしている。
目の下に薄く隈がある。
胃薬が似合う顔だ。
あ。
あれは苦労人だ。
間違いない。
「騒ぐな」
私を抱えた勝家様――いや、勝家殿は、短くそう言った。
「騒ぎます!!」
苦労人っぽい男は、全力で叫んだ。
「守護家の若君と姫君を預かるなど、書状一枚で済ませる話ではございません! 部屋も、支度も、警護も、何もかもこれからなのですよ!?」
うん。
ごもっとも。
ものすごくごもっとも。
私もそう思う。
守護家の姫と若君二人を突然預かるなど、普通に考えて迷惑でしかない。
いや、実態は米櫃が空の没落守護家の姫と甥二人なのだが、肩書だけは重い。
申し訳ない。
とても申し訳ない。
私は勝家殿の腕の中から、できる限り丁寧に頭を下げた。
「あの……ご迷惑をおかけいたします。馬小屋でも構いませんので、お気遣いなく」
言った瞬間、苦労人の顔色が変わった。
真っ青になった。
「そんなわけにいくはずが――」
その時だった。
「八右衛門殿。少し黙っていてくださいませ」
穏やかな声がした。
そちらへ目を向けると、ひとりの女性が立っていた。
美人だった。
え、美人。
すごく美人。
派手ではない。 けれど、目元が涼やかで、背筋がすっと伸びていて、所作に無駄がない。
何この人。
美人すぎない?
にこり。
その美人の手が、すっと動いた。
とん。
八右衛門と呼ばれた男が、見事に崩れ落ちた。
え。
今、気絶させた?
家令らしき人を?
手刀で?
しかも周囲の人たち、慣れた動きで支えているんですけど?
「八右衛門殿を奥へ」
「はっ」
「気付けの水も」
「すぐに」
「客間を整えなさい。湯と布を。若君方には温かいものを。姫君は足を痛めておられます。医師を呼んで」
「はっ」
すごい。
すごすぎる。
家令らしき人を手刀で気絶させた直後に、完璧な指示を出している。
そして柴田家中の皆さん、誰一人として驚いていない。
つまり、慣れている。
すごっ。
戦国の女、強い。
私が呆然としている間にも、八右衛門殿は屋敷の者たちにいそいそと運ばれていった。
いいの?
本当にいいの?
八右衛門殿、運ばれていったけど?
そんな私の混乱をよそに、美人の女性は何事もなかったようにこちらへ向き直った。
「ようこそいらっしゃいました、若君、姫君」
その声は、穏やかで柔らかかった。
先ほど人を気絶させた人と同一人物とは思えない。
いや、同一人物なのだが。
「柴田家家令、渋川八右衛門の妻、於光と申します。そちらの勝家の姉でもございます」
え。
今、何と?
八右衛門の妻。
つまり、さっき手刀で気絶させた相手、旦那様?
旦那様を気絶させて、そのまま完璧に屋敷を回したの?
戦国の夫婦、強い。
それから、そちらの勝家。
なんか言い方が、完全に弟の扱いに慣れている。
……あ、そっか。
勝家殿のお姉様だもんね。
そりゃ美人だわ。
私が妙に納得した、その次の瞬間だった。
勝家殿は、何も言わない。
ただ、少しだけ視線を逸らした。
もしかして。
勝家殿、お姉様に弱い?
ちょっとかわいい。
いや、今それどころではない。
於光様は、義銀と千若へも丁寧に頭を下げた。
「長旅、ご苦労でございました。怖い思いをなさいましたね。すぐに部屋の準備を致しますので、まずは客間へ」
千若が、私の方を見る。
私は小さく頷いた。
「大丈夫。こちらは勝家殿のお姉様よ」
「勝家殿の……?」
千若は、涙で赤くなった目をぱちぱちと瞬かせた。
義銀は青ざめた顔のまま、けれど礼を失わぬように頭を下げる。
「斯波義銀にございます。弟の千若、叔母の藤乃ともども、ご厄介をおかけいたします」
「まあ」
於光様の目が、少しだけ柔らかくなった。
「しっかりした若君でいらっしゃること。けれど、今はまずお休みなさいませ。礼は、その後で十分です」
義銀の顔が、一瞬だけ揺れた。
休め、と言われ慣れていない顔だった。
たぶん、私も同じ顔をしていたと思う。
守護邸では、休むことは後回しだった。
まず食べさせる。
まず隠す。
まず片づける。
まず誤魔化す。
休む、という選択肢は、いつも一番最後だった。
けれど、於光様は当然のように言った。
休みなさい、と。
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛くなった。
「勝家」
於光様が言う。
「藤乃姫を客間へ」
「承知」
「足に響かぬように」
「分かっておる」
「分かっていない時の返事です、それは」
勝家殿が黙った。
お姉様、強い。
やっぱり強い。
勝家殿は、何も言い返さず、私を抱えたまま屋敷の中へ進んだ。
私はもう、抵抗する気力を失っていた。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
でも、於光様の前で「下ろしてください」と言ったら、たぶん静かに叱られる。
そんな気がする。
「……あの、重くは」
「軽い」
即答だった。
いや。
軽い?
私が?
米櫃が空だったから?
ちょっと悲しい。
でも、勝家殿の声に嫌味はなかった。
ただ事実を言っているだけの声だった。
それが余計に刺さる。
私は何も言えなくなった。
客間へ運ばれる途中、千若は女中に手を引かれ、義銀はその隣を歩いていた。
義銀は何度も私を見た。
千若も、何度も振り返った。
私は笑って見せる。
大丈夫。
大丈夫だから。
そう伝えたくて。
けれど、本当は私も大丈夫ではなかった。
兄は死んだ。
屋敷は燃えた。
帰る家はなくなった。
私たちは、柴田家に預けられることになった。
そして、私は今、柴田勝家に抱えられている。
人生、何が起こるか分からない。
いや、転生した時点で分かっていたはずだけれど、それにしたって限度がある。
客間に着くと、勝家殿は慎重に私を下ろした。
足を伸ばそうとして、痛みに顔が歪む。
「医師を呼ぶ」
「ありがとうございます」
「動くな」
「……はい」
動くな。
短い。
本当に短い。
でも、今はその短さが少しだけありがたかった。
余計な慰めを言われても、きっと私は困った。
大丈夫かと何度も問われても、答えられなかった。
動くな。
ただそれだけ。
だから私は、頷けばよかった。
於光様がすぐに部屋へ入ってくる。
「藤乃姫、まず足を見せてくださいませ。若君方には別の部屋で湯を使わせます。ご心配なく。千若丸様には、義銀様もお付きになります」
「あの、千若が泣くかもしれません」
「泣いてよいのです」
さらりと言われて、私は言葉を失った。
於光様は、穏やかに続ける。
「怖かったのでしょう。ならば泣いてよいのです。泣いたあと、温かいものを召し上がればよろしい」
泣いてよい。
その言葉が、思っていたより深く刺さった。
私は咄嗟に笑おうとした。
いつものように。
大丈夫です、と言おうとした。
でも、於光様は私の顔を見て、静かに言った。
「藤乃姫も、泣いてよろしいのですよ」
息が止まった。
泣いてよい。
私も?
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
いや、言われたことなど、あっただろうか。
私は、何かを誤魔化すように目を伏せた。
「……今は、もう少しだけ」
声が少し掠れた。
「義銀と千若が、落ち着くまでは、ちゃんとしていたいのです」
於光様は、私をじっと見た。
そして、少しだけ寂しそうに笑った。
「では、その時は私が手拭いを用意しておきます」
その言葉に、胸が詰まった。
勝家殿は、何も言わない。
ただ、部屋の入口に立ったまま、こちらを見ていた。
於光様は再び、てきぱきと指示を出す。
「湯を。布を。医師が来るまで、腫れを冷やします。勝家は外へ」
「何故だ」
「姫君の足を見るからです」
「……分かった」
勝家殿は、少しだけ不服そうにしながらも外へ出た。
やっぱり、お姉様に弱い。
私は、ほんの少しだけ笑ってしまった。
その笑いは、弱々しいものだったと思う。
けれど、於光様はそれを見て、安心したように目を細めた。
「大丈夫です、藤乃姫」
何が大丈夫なのかは、まだ分からない。
でも、その声は不思議と温かかった。
「ここは柴田の屋敷です。勝家が連れて来たからには、誰もあなた方を粗末には扱いません」
その言葉に、私は初めて思った。
ああ。
私たちは、助かったのかもしれない。
本当に。
本当に、助かったのかもしれない。




