第七話 柴田家、エデン過ぎません?
柴田家に来て、十日が経った。
まず結論から言おう。
柴田家、エデンでは?
いや、分かっている。
ここは戦国時代である。
清洲では守護家が襲われ、兄は討たれ、私たちは命からがら逃げてきた。
帰る家は燃えた。
斯波家の未来は、今のところ真っ暗である。
それは分かっている。
分かっているのだが。
柴田家、エデンでは?
まず、ご飯が出る。
毎日、出る。
しかも、一日二回、ちゃんと出る。
朝と夕に、温かい食事が出る。
米がある。
汁がある。
魚がある。
漬物がある。
なんなら、時々、煮物まで出る。
一汁三菜。
一汁三菜である。
私が守護邸で必死にやりくりしていた頃は、米櫃の底を眺めながら、葱マジ便利、と唱える日々だった。
それがここでは、米が普通にある。
米櫃に米がある。
何なら、女中さんが米を研いでいる。
研ぐ米がある。
すごい。
米があるというだけで、こんなに心が豊かになるのか。
さらに布団がある。
清潔な布団がある。
湯がある。
着替えもある。
千若は毎日、ちゃんとお腹いっぱい食べている。
義銀も、最初は遠慮していたけれど、於光様に「若君が食べねば、千若丸様が真似をなさいます」と言われてからは、きちんと食べるようになった。
於光様、強い。
あの義銀を一言で黙らせる。
ちなみに私も、同じ手でやられた。
「藤乃姫が召し上がらねば、若君方が真似をなさいます」
そう言われたら食べるしかない。
私は食べた。
食べたら、おいしかった。
おいしすぎて、少し泣きそうになった。
問題は、食べたあとである。
食べたら、何かしなければと思ってしまう。
だが、私は足をくじいていた。
医師からも、しばらく歩くなと言われた。
そのため、この十日間、私はほぼ客間で過ごすことになった。
それはもう、丁重に。
丁重すぎるほどに。
水を飲みたいと言えば、水が来る。
布を替えたいと言えば、布が来る。
千若が私のところに来たいと言えば、女中さんが連れて来てくれる。
義銀が顔を見せに来れば、於光様が「長く座りすぎてはいけませんよ」と、私と義銀の両方を見張る。
すごい。
ここまで面倒を見られること、人生であった?
いや、ない。
前世では社会人だったし、今世では没落守護家の行き遅れ姫だった。
誰かに手厚く世話をされる経験など、ほとんどない。
そして、一番困ったのが。
厠である。
いや、言い方を選ぼう。
人間、生きていれば、どうしても避けられないものがある。
足をくじいて動けない。
でも、行きたい時は来る。
仕方がない。
私は最初、自力で行こうとした。
床に手をつき、そろそろと立ち上がろうとした。
その瞬間、於光様が現れた。
怖かった。
気配がなかった。
「藤乃姫」
「はい」
「どちらへ?」
「……少し、厠へ」
於光様はにこりと笑った。
「お呼びくださいませ」
「いえ、その、そこまでしていただくわけには」
「お呼びくださいませ」
「……はい」
次の瞬間、私は於光様に抱えられていた。
お姫様抱っこである。
勝家殿だけではなかった。
於光様にも、お姫様抱っこされた。
しかも安定感がある。
何この姉弟。
柴田家、腕力どうなってるの?
私はもう、何も考えないことにした。
しかし、さすがに毎回それは申し訳ない。
というか恥ずかしい。
我慢しようかな、と少しだけ思った。
本当に少しだけだ。
すると、翌日。
客間の隅に、丁寧に布で隠された箱が用意されていた。
「藤乃姫」
於光様は穏やかに言った。
「ご遠慮なさらず、こちらをお使いくださいませ」
私は悟った。
おまるだ。
いや、この時代におまると呼ぶのかは知らない。
たぶん、もっと別の名前があるのだろう。
でも、私の中ではおまるである。
おまるが用意された。
しかも、目隠し用の屏風まである。
完璧だった。
完璧すぎた。
私は感動した。
ここ、エデンでは?
普通なら恥ずかしいところだ。
いや、実際かなり恥ずかしい。
けれど、それ以上にありがたかった。
我慢しなくていい。
呼べば人が来る。
呼ぶのが恥ずかしいなら、部屋で済ませられるように整えてくれる。
何この手厚さ。
人間扱いされている。
いや、私は人間だけれど。
守護邸では、私は「斯波の姫」であり、「嫁げない妹」であり、「甥たちの母代わり」であり、「米櫃の底を見つめる係」だった。
ここでは、怪我人として扱われている。
休んでよい人として扱われている。
それが、落ち着かない。
落ち着かないけれど、嬉しい。
嬉しいけれど、落ち着かない。
そんな十日間だった。
そして、ついに。
医師から、少しずつ歩いてよいと言われた。
「まだ無理は禁物です」
医師は念を押した。
「長く歩かぬように。重い物を持たぬように。足に響くことは避けるように」
「はい」
私は神妙に頷いた。
於光様が隣で見ている。
「藤乃姫」
「はい」
「分かっておいでですね?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「勝家と同じ返事をなさらないでくださいませ」
私は黙った。
勝家殿と同じ返事。
それは信用されていない。
とても信用されていない。
でも、歩いてよい。
歩いてよいのだ。
十日ぶりに、私は自分の足で廊下に立った。
少し痛い。
でも、歩ける。
歩ける。
自由だ。
私は感動した。
そして、歩けるなら、やることがある。
まず、廊下の端に埃を見つけた。
気になった。
ものすごく気になった。
女中さんが忙しそうにしていたので、私はそっと布を手に取った。
拭いた。
すぐに見つかった。
「姫様!?」
女中さんの悲鳴が響いた。
「女中の仕事を取らないでくださいまし!?」
「いえ、ここに埃が」
「埃は我々が拭きます!」
「でも、すぐそこだったので」
「姫様はお座りください!」
座らされた。
納得いかない。
次に、義銀が庭で薪を運ぼうとしていた。
これは私ではない。
義銀である。
歩けるようになった私を見て、義銀も何かしたくなったのだろう。
柴田家の庭先に積まれた薪を見て、自然に手が伸びたらしい。
下男が悲鳴を上げた。
「若君!?」
女中も悲鳴を上げた。
「薪割りは、その仕事の者が居ります!?」
義銀は困惑していた。
「ですが、手が空いておりますので」
「空けていてくださいませ!」
義銀まで座らされた。
千若はというと、庭の葱を見つけて目を輝かせていた。
私は嫌な予感がした。
「千若」
「藤乃おば様、あれ、抜いていい葱?」
「だめ」
「だめ?」
「ここは柴田家の葱だから」
「柴田家の葱……」
千若は、少ししょんぼりした。
かわいい。
とてもかわいい。
でも、だめである。
この家の葱を勝手に抜いてはいけない。
つまり、私たちは三人そろって、柴田家の人々に止められた。
何もできない。
掃除もだめ。
薪もだめ。
葱もだめ。
どうしよう。
何もできない。
何もできないと、不安になる。
私は考えた。
では、料理ならどうだろう。
料理は、私がずっとしてきたことだ。
義銀と千若に食べさせるために。
少ない米を増やすために。
葱を最大限に活用するために。
料理なら、できる。
いや、むしろ料理くらいはさせてほしい。
そう思って、私は炊事場へ向かった。
そっと。
本当にそっと。
しかし、炊事場に顔を出した瞬間、場が凍った。
「姫様!?」
私は両手を胸の前で振った。
「いえ、あの、少し手伝いを」
炊事場の女たちが、顔を見合わせる。
そして、ひとりが震える声で言った。
「我々の膳に、何か不手際が……?」
「違います!」
私は慌てて首を振った。
「違います。とても美味しいです。本当に。こんなに美味しいものを毎日食べてよいのかと思うくらいで」
「では、なぜ」
「何もしないと、落ち着かなくて」
言っていて、自分でも情けなくなった。
守護家の姫が、料理をさせてくださいと頼んでいる。
いや、でも、私は守護家の姫である前に、千若と義銀に食べさせる係だったのだ。
それを突然取り上げられると、何をしていいか分からない。
「せめて、皿を」
「おやめください、姫様!?」
半泣きで止められた。
本当に何もできない。
私は困り果てて、於光様のもとへ向かった。
於光様は、帳面のようなものを見ながら、女中に指示を出していた。
私に気づくと、柔らかく微笑む。
「藤乃姫。歩けるようになった途端、ずいぶん屋敷を騒がせておりますね」
ばれている。
全部ばれている。
「申し訳ございません」
「叱っているわけではありません」
「でも、叱られる流れでは」
「自覚がおありなら、よろしいです」
やっぱり叱られているのでは?
私はおずおずと口を開いた。
「あの」
「はい」
「料理は、趣味、でして」
於光様が目を瞬かせた。
私は慌てて続ける。
「あの、もちろん、柴田家のお膳に不満があるわけではありません。むしろ、とても美味しいです。毎日、幸せです。でも、その、何もしないのが落ち着かなくて」
於光様は黙って聞いてくれた。
「せめて、一品だけでも。あの子たちに、私の手で何か作らせていただけませんか」
於光様は、しばらく私を見つめていた。
怒られるかもしれない。
そう思った。
けれど、於光様は小さく息を吐き、困ったように笑った。
「……藤乃姫は、働き者でいらっしゃいますね」
「いえ、働き者というか、働かないと不安というか」
「分かりました」
「え」
「一品だけです」
於光様は、指を一本立てた。
「ただし、重いものは持たない。火の前に長く立たない。足に響くことはしない。材料は炊事場の者と相談する。よろしいですね?」
「はい!」
思わず、声が明るくなった。
於光様は少し笑う。
「その代わり、きちんとご自分の分も召し上がること」
「はい」
「義銀様と千若丸様に分けすぎないこと」
「……はい」
なぜ分かった。
いや、分かるか。
於光様は、たぶん分かる人だ。
私が自分の膳を甥たちへ回していたことを、たった十日で見抜いたのだろう。
「藤乃姫」
「はい」
「この屋敷では、子供たちは食べます。姫も食べます。食べたうえで、動くのです」
その言葉に、胸の奥が少し痛くなった。
食べたうえで、動く。
そんな当たり前のことが、今までできなかった。
私は頭を下げた。
「ありがとうございます、於光様」
「こちらこそ」
於光様は、柔らかく笑った。
「柴田の屋敷で、守護家の姫君の料理をいただけるとは、なかなか得がたいことですもの」
そうして私は、柴田家で一品だけ料理を作る許可を得た。
掃除はだめ。
薪割りはだめ。
皿洗いもだめ。
葱を勝手に抜くのもだめ。
けれど、料理だけは許された。
その日の夕餉に、私は葱と魚の汁を作った。
魚は、義銀があの日獲ってきたものではない。
あの魚は、あのあと皆で分けて食べた。
義銀が獲って、勝家殿が捨てさせず、柴田家の人が預かってくれた魚。
その味を、私はたぶん一生忘れない。
だから、似たような汁を作った。
葱を多めに入れて。
出汁を丁寧に取って。
千若が食べやすいように、魚の骨をよく取り除いて。
膳に並んだそれを見て、義銀が目を見開いた。
千若がぱっと笑った。
「藤乃おば様の味だ!」
その一言で、私は泣きそうになった。
柴田家は、やっぱりエデンだ。
米がある。
布団がある。
働かせてもらえないくらい、人がいる。
でも、その中でひとつだけ、私の役目が残った。
甥たちに食べさせる。
その小さな役目だけは、まだ私の手に残っていた。




