第十二話 祝い事は重なるものですか
医者は思ったより早く来た。
いや、きっと急いで来てくれたのだろう。
私は座敷で診てもらうことになった。
於光様が場を整え、寧々殿は少し離れた場所で静かに見守っている。
木下殿は、何か役に立とうとしては於光様に止められ、結局、座っていた。
落ち着きがない。
ただし、走ってはいない。
よろしい。
医者の手が、脈を確かめる。
私は黙っていた。
部屋の中が静かになる。
静かすぎて、藤七丸が隣の部屋で小さく声を上げるのが聞こえた。
藤七丸。
そういえば、貴方は兄になるのでしょうか。
兄。
まだ歩き始めたばかりなのに。
もう兄に。
そんなことを思った瞬間、胸の奥がぎゅっとなった。
嬉しい。
けれど、少し怖い。
命が宿るということは、ただ喜べばいいだけの話ではない。
藤七丸を産んだ時も、そうだった。
無事に産まれてくれるまで、ずっと不安だった。
産まれてからも、熱を出せば不安になり、泣き止まなければ不安になり、よく眠れば眠ったで、息をしているか確かめたくなった。
母になるとは、喜びと心配が同時に増えることなのだと知った。
だからこそ、もし本当にそうであるなら。
私は、この命を大切にしたい。
医者は、しばらく診ていた。
そして、少しだけ表情を和らげた。
「藤の方様」
「はい」
「おめでとうございます」
その一言で、部屋の空気が止まった。
医者は、静かに頭を下げる。
「ご懐妊にございます」
誰も、すぐには声を出さなかった。
於光様が、口元を押さえる。
寧々殿の目に、じわりと涙が浮かぶ。
木下殿は、なぜか両手で自分の口を押さえていた。
どうして木下殿が泣きそうなのでしょうか。
いえ、ありがたいことなのですが。
私は、そっと腹に手を当てた。
まだ、何も分からない。
腹が膨らんでいるわけでもない。
胎の中で動いたわけでもない。
けれど、そこに命がある。
その事実が、ゆっくりと胸の中へ落ちてきた。
「……そうですか」
声が、少し震えた。
「はい。くれぐれも無理はなさらぬように」
「分かりました」
分かりました。
分かりましたが。
無理をしないというのは、なかなか難しい。
柴田邸は忙しい。
藤七丸はよく動く。
勝家様は戦に出る。
信長様はだいたい騒動を連れてくる。
義銀たちも、隣で日々成長している。
木下殿と寧々殿のことも、まだ気にかかる。
やることは、いくらでもある。
けれど。
於光様が、私をじっと見ていた。
これは、逃げられない。
「藤乃様」
「はい」
「無理は」
「いたしません」
「本当に」
「いたしません」
「帳面は」
「……減らします」
於光様の目が細くなった。
「……必ず、減らします」
もう一度言い直すと、於光様はようやく少しだけ頷いた。
その時だった。
廊下の向こうから、大きな足音が近づいてきた。
迷いのない足音。
いつもの、重い足音。
勝家様だ。
襖が開く。
「お藤」
勝家様は、そこで言葉を止めた。
部屋の中には、医者がいた。
於光様がいた。
寧々殿が目に涙を浮かべていた。
木下殿が両手で口を押さえていた。
そして私は、まだ何も言えずに座っていた。
勝家様は、ゆっくり医者を見た。
医者が頭を下げる。
「柴田様。おめでとうございます。藤の方様は、ご懐妊にございます」
勝家様は、動かなかった。
本当に、動かなかった。
戦場で何を見ても揺らがぬ鬼柴田が、座敷の入口で完全に止まっていた。
「……まことか」
声は低かった。
けれど、ほんの少しだけ震えていた。
私は、ようやく頷いた。
「はい」
「お藤」
「はい」
「また、授かったのか」
「……はい」
勝家様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、私の前に膝をついた。
大きな手が、畳にそっと置かれる。
それから、深く息を吐いた。
「そうか」
それだけだった。
それだけなのに、勝家様がどれほど喜んでいるか、私には分かった。
「勝家様」
「うむ」
「藤七丸が、兄になります」
「うむ」
「まだ、歩き始めたばかりなのに」
「うむ」
「大丈夫でしょうか」
「大丈夫だ」
迷いのない声だった。
私は、少しだけ笑ってしまった。
根拠は、たぶんない。
けれど、勝家様が言うと、本当に大丈夫な気がする。
「勝家様」
「何だ」
「嬉しいです」
「……うむ」
勝家様の目が、ほんの少しだけ和らいだ。
大きな手が、私の手のすぐ隣に置かれる。
触れるか、触れないか。
けれど、確かに寄り添う距離だった。
その時、襖の向こうから楽しそうな声がした。
「権六、そこで止まるな。中へ入れ」
私は、目を瞬いた。
勝家様の肩が、わずかに強張る。
「殿」
「何だ。儂も来た」
襖の向こうから、信長様が顔を出した。
なぜ。
なぜ、ここに。
「信長様!?」
思わず声が出た。
信長様は、楽しげに笑っている。
「権六が、清洲から走るように戻るからな。面白そうでついて来た」
「面白そうで」
「祝い事だったようだな」
信長様は、部屋の中を見回した。
医者。
於光様。
寧々殿。
木下殿。
私。
そして、勝家様。
すべてを見て、にやりと笑う。
「これは、祝い事が重なるな」
木下殿が、慌てて頭を下げた。
「信長様!」
「猿。寧々も身籠ったそうだな」
「は、はい!」
「権六。お藤も身籠った」
「はっ」
「めでたいな」
信長様は、そこで笑みを深くした。
「猿、権六。次の戦も勝って帰らねばな」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
祝い。
命。
笑い。
その中に、戦という言葉が入る。
けれど、それは不吉な響きではなかった。
守るものが増えた。
だからこそ、勝たねばならない。
信長様は、そういう方なのだ。
木下殿は、ぐしゃりと顔を歪めた。
泣きそうな顔で、それでも力強く頭を下げる。
「必ず、勝って帰りまする!」
勝家様も、静かに頭を下げた。
「はっ」
その返事は短い。
けれど、重かった。
私は、自分の腹にそっと手を当てた。
まだ何も分からない。
けれど、そこに命がある。
寧々殿の腹にも。
私の腹にも。
その命を守るために、男たちはまた戦場へ行く。
そして私は、家を守る。
帰る場所を、守る。
飯を用意し、布を整え、身体を温め、帳面を見て、人を動かす。
忙しない。
とても忙しない。
けれど、それが生きるということなのだろう。
その時だった。
遠くから、ものすごい足音が聞こえた。
走っている。
完全に走っている。
「兄上!!」
信行様の声だった。
次の瞬間、信行様が柴田邸へ駆け込んできた。
いや、正確には廊下の手前で何とか止まった。
だが勢いは完全に走っていた。
「兄上! また勝手に抜け出されましたね!」
信長様は、まったく悪びれない顔をした。
「祝いだ」
「祝いなら、まず一言おっしゃってください!」
「言った」
「誰にですか!」
「権六に」
「連れて来られた側ではありませんか!」
信行様は、本気で額を押さえていた。
その姿を見て、木下殿が少しだけ震えている。
笑っている。
寧々殿も、口元を押さえていた。
私は、頭が追いつかなかった。
懐妊。
勝家様帰還。
信長様来訪。
信行様突入。
情報が多すぎる。
「何事ですか!?」
隣の屋敷の方から、声が聞こえた。
義銀だ。
どうやら、この騒ぎが隣の斯波邸まで届いたらしい。
すぐに義銀、義冬、新介、小平太、そして琴が姿を見せた。
皆、何が起きたのか分からない顔をしている。
当然である。
私も分かっていません。
琴が部屋の中を見て、目を丸くした。
「信長様!?」
信長様は、琴を見るなり楽しそうに笑った。
「お琴」
「はい」
「そこは父上だろう」
琴が固まった。
そういえば、琴は織田家から義銀へ嫁いだ身である。
信長様からすれば、もう娘も同然なのだろう。
……いや、それにしても急です。
義銀が、すっと目を伏せる。
新介が口元を押さえた。
小平太は、どう反応してよいか分からない顔をしている。
義冬は、兄を見てから、信長様を見て、そっと背筋を伸ばした。
「父上……」
琴が、小さく呟く。
顔が赤い。
信長様は満足そうだった。
信行様は、さらに深く息を吐いた。
「兄上。今、それを言う場面ですか」
「祝いの場面だ」
「だからこそ、もう少し順序を」
「面倒だ」
「兄上!」
いつもの兄弟だった。
本来なら、血で血を洗う仲になっていたかもしれない兄弟。
けれど今は、こうして柴田邸で言い合っている。
私は、腹に手を当てたまま、その様子を見ていた。
隣では、勝家様が静かに私を見ている。
寧々殿は自分の腹を押さえ、涙ぐんでいる。
木下殿は、まだぐしゃぐしゃの顔で何度も頷いている。
藤七丸は、隣の部屋で何かを訴えるように声を上げた。
於光様がすぐに侍女へ目を向ける。
その横で、勝豊がどこからか紙を持ってきていた。
嫌な予感がする。
「勝豊」
私が呼ぶと、勝豊はきちんと頭を下げた。
「はい」
「その紙は何ですか」
「藤の方様御養生品目録と、柴田家追加心得目録にございます」
やはり。
やはり用意していた。
八右衛門殿が、いつの間にか部屋の端で額を押さえていた。
「勝豊」
「はい」
「いつの間に」
「医者を呼びに走らぬよう指示が出た時点で、必要になるかと」
「まだ懐妊と決まっておりませんでしたよ」
「母上が医者を呼ばれた時点で、念のため動くべきかと」
於光様が、にこりと笑った。
「よく気づきましたね、勝豊」
「母上と父上に教わりましたので」
八右衛門殿が、小さく咳払いをした。
「……余計なところまで似たようでございます」
このやり取りも、もう何度聞いたでしょうか。
信長様が面白そうに勝豊を見た。
「ほう。権六の家は、目録がよく出るな」
「必要なものを数えるためです」
私が答えると、信長様は笑った。
「お藤らしい」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めておる」
たぶん。
たぶんですが。
信長様の褒め言葉は、少し心臓に悪い。
その日、柴田邸は大騒ぎになった。
寧々殿の腹に宿った命。
私の腹に宿った命。
歩き始めた藤七丸。
勝って帰らねばならぬと笑う信長様。
兄を連れ戻しに来た信行様。
騒ぎを聞いて隣から駆け込んできた斯波家の面々。
そして、追加の目録。
どうしてこうなるのでしょうか。
私は、ただ少し気持ちが悪くなっただけなのですが。
けれど、悪くない騒ぎだった。
命が増えるということは、守るものが増えるということだ。
守るものが増えるということは、忙しさも増えるということだ。
そして、忙しさが増えるということは。
おそらく、私の帳面も増える。
私は深く息を吐いた。
それでも、腹に手を当てると、不思議と怖くはなかった。
永禄四年、夏。
柴田家にも、木下家にも、新しい命が宿った。
その報せは、尾張の忙しない日々を、さらに忙しなくしていくことになる。




