第十一話 悪阻ではございませんか
寧々殿の懐妊が分かってから、柴田邸には何度も文が届いた。
木下殿から。
そして、寧々殿から。
最初の頃の木下殿の文は、たいへん細かかった。
寧々は今朝、温かい粥を少し食べました。
小豆布は嫌がらずに使っております。
足元は冷えておりませぬ。
散歩は庭先を少しだけ。
走ってはおりませぬ。
儂も走っておりませぬ。
……最後の一文は必要なのでしょうか。
いや、必要ですね。
木下殿ですので。
対して、寧々殿の文は穏やかだった。
まだ不安はあること。
けれど、藤吉郎様があまりに心配してくださるので、少し困っていること。
産婆に言われた通り、身体を冷やさぬようにしていること。
藤の方様に教えていただいた小豆布が、とてもありがたいこと。
そして、時折、こう書かれていた。
藤吉郎様が、毎日、私の話を聞いてくださるようになりました。
その一文を見るたび、私は少しだけ胸が温かくなった。
よかった。
本当に、よかった。
子が宿ったからすべて解決、などという話ではない。
命が無事に育つかどうかは、まだ誰にも分からない。
寧々殿の身体も、心も、これから大切に守っていかなければならない。
けれど、少なくとも、寧々殿はもう一人ではない。
木下殿が、今度こそ寧々殿の隣にいる。
それだけで、少し安心できた。
そんなある日。
産婆から、無理のない範囲であれば外出してもよいと言われたそうで、寧々殿が木下殿と一緒に柴田邸へ挨拶に来てくださった。
もちろん、木下殿はたいへんだった。
「寧々、段差じゃ」
「分かっております」
「そこは風が当たる」
「大丈夫です」
「座布団は足りるか」
「足りております」
「茶は熱すぎぬか」
「ちょうどよいです」
「寒くはないか」
「お前様」
寧々殿が、困ったように笑った。
「少し、静かにしてくださいませ」
木下殿は、はっとして口を閉じた。
しかし、すぐに小声で言う。
「すまぬ」
静かにする気はある。
あるけれど、口が動く。
木下殿らしい。
「木下殿」
私が呼ぶと、木下殿は背筋を伸ばした。
「はい!」
「寧々殿が疲れます」
「はい!」
「返事も、少し小さく」
「はい」
今度は小さかった。
とても極端である。
寧々殿は、そんな木下殿を見て、少しだけ頬を緩めていた。
以前、柴田邸へ来た時の寧々殿とは違う。
あの時の寧々殿は、きちんと笑っていた。
けれど、その笑顔は、どこか自分を押さえつけるためのものだった。
今の寧々殿は、まだ不安を抱えている。
身体も大事にしなければならない。
けれど、笑う時に、少しだけ力が抜けていた。
それが嬉しかった。
「よくお越しくださいました」
「藤の方様には、きちんとお礼を申し上げたくて」
寧々殿は、丁寧に頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「まだ礼を言われるには早いですよ」
私はそう言った。
「お腹の子は、これから大切に育てていかねばなりません」
「はい」
寧々殿は、両手でそっと腹に触れた。
まだ目に見えて大きいわけではない。
けれど、そこには確かに命がある。
寧々殿の手つきは、どこか恐る恐るだった。
それでも、とても大切そうだった。
「産婆殿には、くれぐれも無理をするなと言われました」
「それがよろしいです」
「はい。お前様にも、聞かされております」
「儂は大事なことを忘れぬように言っておるだけじゃ」
木下殿が言う。
寧々殿は、少しだけ目を細めた。
「ええ。毎日」
「毎日、大事じゃ」
「ええ。毎日」
夫婦の会話だった。
以前のように、片方だけが飲み込む会話ではない。
少し困りながら。
少し笑いながら。
それでも、ちゃんと互いを見ている。
私はそれを見て、胸の奥でそっと息を吐いた。
よかった。
本当に。
そう思った時だった。
ふっと、胃の奥が揺れた。
最初は、気のせいかと思った。
朝から少し疲れていた。
藤七丸が最近よく動く。
歩き始めたばかりで、目が離せない。
抱けば袖を掴み、降ろせばころりと転がり、目を離せば何かを口へ運ぼうとする。
こちらも、どうしても疲れが溜まる。
だから、そのせいだと思った。
けれど、次の瞬間、茶の香りが妙にきつく感じた。
「あら」
口元を押さえる。
於光様が、すぐにこちらを見た。
「藤乃様?」
「申し訳ありません。少し……」
言い終える前に、もう駄目だった。
私は立ち上がった。
「少し、席を外します」
「藤乃様」
於光様の声が追ってくる。
けれど返事をする余裕がない。
私は廊下へ出ると、そのまま厠へ向かった。
走らない。
走ってはいけない。
人にそう言っているのだから、自分が走るわけにはいかない。
でも、急ぐ。
とても急ぐ。
どうにか間に合った。
ひどい吐き気だった。
何か悪いものを食べた覚えはない。
朝餉も普通だった。
疲れ。
きっと疲れだ。
そう思いながら、私はしばらく動けなかった。
ようやく落ち着いて座敷へ戻ると、於光様が立って待っていた。
顔が怖い。
いえ、怒っているのではない。
心配している顔だ。
それが逆に怖い。
「藤乃様」
「大丈夫です。最近、少し調子が悪くて」
私は苦笑した。
「藤七丸がよく動くようになりましたので、疲れが出たのかもしれません」
「疲れで済ませてよい顔ではありません」
於光様の声が静かだった。
これは、まずい。
私が何か言う前に、寧々殿が小さく声を上げた。
「あの」
皆の視線が寧々殿へ向く。
寧々殿は、少し迷うように私を見た。
それから、そっと言った。
「藤の方様」
「はい」
「……悪阻では、ございませんか」
部屋の空気が止まった。
悪阻。
その言葉が、頭の中でゆっくり響いた。
「悪阻」
私は、思わず繰り返した。
藤七丸の時。
そういえば、同じようなことがあった。
茶の香りが駄目になった。
朝方に気分が悪くなった。
妙に眠かった。
月の障りが。
私は、そこで固まった。
来ていない。
そういえば、来ていない。
忙しかったから。
藤七丸の世話で日々が過ぎていたから。
寧々殿のこともあったから。
気づかなかった。
いえ。
気づかないふりをしていたのかもしれない。
「藤乃様」
於光様の声が、低くなる。
「月の障りは」
「……来ておりません」
於光様の目が変わった。
「医者を呼びなさい」
その一言で、柴田邸が動いた。
「於光様、まだそうと決まったわけでは」
「決まってから慌てるのでは遅いのです」
「ですが」
「藤乃様」
「はい」
「黙って座っていてくださいませ」
「……はい」
強い。
於光様は強い。
私が座ると、於光様はすぐに侍女へ指示を出した。
「医者を。すぐに」
「はい」
「それから、勝家へ使いを出しなさい。清洲にいるはずです」
「勝家様に?」
「すぐに呼び戻してきなさい」
「はっ」
「ただし、慌てさせすぎぬように。けれど遅れるなと」
難しい。
とても難しい命である。
しかし侍女は慣れた様子で頭を下げ、すぐに走りかけた。
「走らない」
於光様と私の声が重なった。
侍女はぴたりと止まり、早歩きで去っていった。
よろしい。
柴田邸の者たちは、少しずつ学んでいる。
木下殿は、完全に固まっていた。
寧々殿は、心配そうに私を見ている。
「藤の方様」
「寧々殿、そんな顔をしないでください。まだ決まったわけではありませんから」
「はい。ですが」
寧々殿は、自分の腹に触れた。
「もし、そうであれば、とても嬉しゅうございます」
その言葉に、胸が温かくなった。
寧々殿は、自分の懐妊で不安な時期だ。
それなのに、私のことも喜ぼうとしてくれている。
「ありがとうございます」
そう答えた私の声は、少しだけ震えていた。
祝い事になるのか。
それとも、ただの疲れで終わるのか。
まだ何も分からない。
けれど柴田邸は、すでにいつものように慌ただしく動き始めていた。
医者を呼ぶ者。
勝家様へ使いを出す者。
湯を用意する者。
座布団を整える者。
そして、私を動かさないように見張る於光様。
本当に、この家は。
何かあるたびに、忙しない。
……いえ。
何かなくても、たぶん忙しない。
そう思ったところで、廊下の向こうから、医者が到着したと告げる声が聞こえた。




