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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田の妻と猿の女房

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第十話 歩き出すものたち

木下殿と寧々殿が、ようやく同じ方を向くようになってから、幾月も過ぎた。


年が改まり、寒さがやっとやわらぎはじめ、薄紅の花がちらほら見え始めた。


桶狭間の日に生まれた藤七丸も、もうすぐ一年になる。


生まれたばかりの頃は、ただ小さくて、眠って、泣いて、乳を飲むばかりだった。


それが今では、目を開けてこちらを追い、手を伸ばし、袖を掴み、布を握り、気づけばころりと転がる。


赤子というものは、毎日見ているのに、気づくと大きくなっている。


昨日より手の力が強い。


昨日より声が大きい。


昨日より、よく動く。


嬉しい。


嬉しいのですが。


とても危ない。


目を離した一瞬で、ころりと転がる。


布を握る。


袖を引く。


何かを口へ持っていこうとする。


可愛いと危ないは、両立するのだと知った。


その間、木下殿からは何度も文が届いた。


寧々殿の身体を冷やさぬようにしております。


酒は控えております。


小豆布は毎晩使っております。


寝所の隙間は塞ぎました。


薬草茶は、寧々も儂も飲んでおります。


月のものの日取りも、寧々と相談して記しております。


……報告が細かい。


とても細かい。


そして、どこか必死である。


文を読むたびに、私は少し笑ってしまった。


あの方は、本当に走る方なのだと思う。


一度走る方向を決めると、全力で走る。


問題は、走る方向を間違えると、大変なことになること。


けれど今は、少なくとも寧々殿を置き去りにして、よそへ走っているわけではない。


それだけで、少し安心した。


寧々殿からも、時折文が届いた。


身体が前より冷えにくくなったこと。


眠れる夜が増えたこと。


藤吉郎様が、少しうるさいくらいに足元を気にしてくださること。


それを困ったように書きながらも、文の端々に柔らかさがあった。


まだ、すべてが解けたわけではない。


傷が消えたわけでもない。


けれど、夫婦で話すようになったのだと分かる文だった。


よかった。


本当に、よかった。


そう思いながら、私は今日も藤七丸を見ていた。


「藤七丸」


声をかけると、藤七丸は私を見た。


目が合う。


それだけで、胸の奥が柔らかくなる。


「今日はよく動きますね」


返事はない。


当然である。


赤子ですので。


けれど、藤七丸はにこりと笑った。


ああ。


可愛い。


とても可愛い。


私は思わず頬を緩めた。


その横で、勝家様が真剣な顔をしている。


「勝家様」


「うむ」


「そのお顔で見つめられると、藤七丸が緊張してしまいます」


「緊張しておらぬ」


「赤子ですからね」


「うむ」


勝家様は、藤七丸をじっと見ていた。


戦場で敵を見る目ではない。


けれど、真剣さだけなら、戦場とそう変わらないのではないかと思う。


最近、勝家様は藤七丸が何かをするたびに、じっと見る。


手を伸ばせば、見る。


寝返りを打てば、見る。


何かを握れば、見る。


そして、だいたい言う。


強くなる、と。


藤七丸は、まだ赤子です。


強くなるかどうかは、もう少し先のお話です。


そう何度も思った。


しかし今日の勝家様は、いつも以上に真剣だった。


藤七丸が、畳の上で身体を揺らしていたからだ。


少し前から、藤七丸はよく身体を起こすようになっていた。


手をついて、膝を動かして、何かを確かめるように揺れる。


そして、ころんと転がる。


それだけで私と勝家様は大騒ぎである。


いや、主に私が騒ぎ、勝家様が無言で支える。


今日もそうだと思っていた。


藤七丸が、小さな手を畳についた。


ゆらりと身体を揺らす。


「藤七丸?」


私が呼ぶと、藤七丸はきゃっと笑った。


次の瞬間。


藤七丸が、立った。


立った。


立っている。


畳の上に、小さな足を踏ん張って。


ふらふらと身体を揺らしながら。


「……勝家様」


「うむ」


「藤七丸が」


「うむ」


「立っております」


「うむ」


勝家様は、藤七丸の前に膝をついた。


大きな身体を低くして、両腕を広げる。


「来い」


低い声だった。


けれど、いつもの戦場の声ではない。


父の声だった。


藤七丸が、きゃっと笑った。


その小さな声に、私の心臓が跳ねる。


藤七丸は、ゆらりと身体を揺らした。


一歩。


小さな足が、前に出る。


「……っ」


声が出なかった。


二歩。


藤七丸は、きゃっきゃと笑いながら、勝家様の方へ歩いている。


歩いている。


藤七丸が。


私の藤七丸が。


勝家様の子が。


「勝家様」


「うむ」


「歩いて」


「うむ」


「歩いております」


「うむ」


「うむではございません!」


そう言いながらも、私は動けなかった。


驚きすぎて、手も足も出なかった。


抱き止めなければ。


転んだらどうするのですか。


そう思っているのに、身体が固まってしまっていた。


勝家様は、藤七丸がよろけた瞬間、そっと大きな手を差し出した。


藤七丸はその手に向かって、もう一歩踏み出す。


そして、勝家様の腕の中へ倒れ込んだ。


「……強くなる」


勝家様が、ぽつりと言った。


声が、少しだけ震えていた。


「まだ歩いただけです」


そう返した私の声も、震えていた。


歩いた。


藤七丸が歩いた。


たった数歩。


頼りなくて、今にも転びそうで、勝家様の腕がなければすぐに尻もちをついていただろう。


それでも、歩いた。


藤七丸は、勝家様の腕の中できゃっきゃと笑っている。


勝家様の顔は、見たことがないほど柔らかかった。


「勝家様」


「うむ」


「藤七丸が、歩きました」


「うむ」


「歩きましたね」


「歩いた」


その返事を聞いた瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。


泣きそうだった。


いえ、少し泣いていたかもしれない。


その時だった。


廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。


走っている。


完全に走っている。


「走らない!」


私は反射的に声を上げた。


最近、この言葉を言う回数が増えている気がする。


すると、廊下の向こうで足音が一瞬乱れた。


そして、勢いよく止まろうとして、少し滑ったような音がした。


「す、すみませぬ!」


この声。


木下殿である。


次の瞬間、障子の向こうから声がした。


「藤の方様! 藤の方様あああ!」


「木下殿。赤子が驚きます」


「はい! 申し訳ございませぬ!」


本当に反省しているのか分からない声だった。


ただ、声が震えている。


慌てているのではない。


泣きそうなのだ。


勝家様が藤七丸を抱いたまま、少しだけ顔を上げた。


「猿か」


「はい、権六殿!」


障子が開かれた。


木下殿が、畳に手をつく勢いで座り込んだ。


顔がぐしゃぐしゃだった。


笑っているのか。


泣いているのか。


どちらもだと思う。


後ろでは、八右衛門殿が額を押さえていた。


「木下殿、廊下は走らぬと申し上げました」


「申し訳ございませぬ、八右衛門殿! ですが、これは、これは走らずには!」


「走らないでください」


私が言うと、木下殿は即座に頭を下げた。


「はい!」


返事はよい。


だが、おそらくまた走る。


そんな顔をしている。


私は軽く息を吐いた。


「それで、何事ですか」


木下殿は、顔を上げた。


目に涙が浮かんでいた。


「寧々が」


その一言で、胸が強く鳴った。


「寧々殿が?」


「寧々が、身籠りました!」


部屋の空気が止まった。


私も止まった。


勝家様も動かなかった。


藤七丸だけが、勝家様の腕の中できゃっきゃと笑っている。


「……寧々殿は?」


「寝かせております! 走って連れてくるなど、とんでもないと産婆にも怒られました!」


よろしい。


とてもよろしい。


怒られて、ちゃんと従ったのですね。


「……寧々殿が」


「はい!」


「身籠った」


「はい!」


「本当に?」


「はい!」


木下殿は、ぐしゃぐしゃの顔で何度も頷いた。


「産婆にも見てもらいました。まだ油断はならぬ、身体を冷やすな、無理をさせるなと言われました。足元も温めました。小豆布も置きました。薬草茶も用意しました。儂は酒も飲んでおりませぬ!」


「木下殿」


「はい!」


「落ち着きましょう」


「はい!」


まったく落ち着いていない。


けれど、叱り切れなかった。


寧々殿が。


寧々殿が身籠った。


子は授かりものだ。


そう言った。


何かをすれば必ず授かるなどとは、言えない。


そんな軽いことではない。


けれど、寧々殿は泣きながらも、身体を温めた。


木下殿は逃げるのをやめた。


二人で話し、二人で記し、二人でできることを探した。


その先に、命が宿った。


「……よかった」


声が震えた。


「本当に、よかった」


涙が落ちた。


藤七丸が歩いたばかりなのに。


まだその驚きも喜びも胸の中で暴れているのに。


そこへ、寧々殿の懐妊の知らせである。


今日は何の日なのですか。


私は、涙を拭いながら勝家様を見た。


「勝家様」


「うむ」


「藤七丸が歩いて」


「うむ」


「寧々殿が身籠って」


「うむ」


「今日は、何の日ですか」


勝家様は、藤七丸を抱いたまま言った。


「めでたい日だ」


その言葉に、木下殿がとうとう泣いた。


「はい……はい、権六殿……!」


勝家様は、木下殿を見る。


「よかったな、猿」


「はい!」


木下殿は、畳に額をつける勢いで頭を下げた。


「ありがとうございます。ありがとうございます、藤の方様。権六殿。寧々が、寧々が……!」


言葉になっていない。


けれど、十分だった。


木下殿がどれほど喜んでいるか、痛いほど分かった。


だが、木下殿は顔を上げると、すぐに目を走らせた。


泣いている。


泣いているのに、もう頭が走っている。


まだ油断はならない。


子は授かりもの。


そして、宿った命が無事に生まれるまでもまた、祈ることしかできない時間がある。


そう思った瞬間、涙で震えた声が響いた。


「藤の方様」


「はい」


「他に、気を付けるべきことはございますか」


「はい?」


「寧々は、何を食べればよろしいのでしょう。温かいものは続けます。粥はよろしいか。魚は。豆は。葱は身体を温めると聞きましたが、食べさせすぎはよくないのでしょうか。あと、香の強いものは嫌がる日がございます。そういう日は無理に食べさせぬ方がよろしいのか。それとも少しでも食べさせた方がよろしいのか。寝所の風は塞ぎましたが、火鉢は近すぎると苦しいでしょうか。あと、儂はどこまで黙っていればよろしいのでしょうか」


「木下殿」


「はい!」


「まず、息をしましょう」


木下殿は、はっとして息を吸った。


本当に、走る方である。


足を止めていても、頭の中が全力で走っている。


けれど、その走る先は、もうよその女のところではない。


寧々殿のところだ。


そう思うと、少しだけ笑ってしまった。


「食事は、寧々殿が食べられるものを、少しずつです」


「少しずつ」


「はい。無理に多く食べさせてはいけません。匂いで気持ち悪くなることもあるでしょうから、その日は香の強いものを避けてください」


「香の強いものを避ける」


「温かい粥や汁物はよいと思います。身体が冷えぬように。ただし、同じものばかりでは飽きますから、寧々殿に聞いてください」


「聞く」


「はい。勝手に決めない」


木下殿の肩が、ぴくりと跳ねた。


「はい」


「魚も、豆も、野菜も、食べられるなら少しずつ。脂の強いものや、重いものは、寧々殿が受け付けない時は無理に勧めないこと」


「はい」


「水分も大切です。茶もよいですが、濃すぎぬように。身体を冷やさぬよう、温かいものを」


「はい」


「それから、産婆殿の言うことをよく聞きなさい」


木下殿は、大きく頷いた。


「はい!」


「私はできることを申しますが、寧々殿のお身体を直接見てくださるのは産婆殿です。腹の痛みや、出血や、ひどい気分の悪さがあれば、すぐに呼ぶこと。勝手に大丈夫と決めないこと」


「勝手に決めない」


「はい。大事なことです」


木下殿は、まるで信長様の御前で命を受ける時のように真剣な顔で頷いた。


「それから!」


木下殿が、勢いよく顔を上げた。


「寧々には、布団から出ぬように言っておきました!」


「それは駄目です」


私は即答した。


木下殿が固まった。


「……駄目、でございますか」


「はい。駄目です」


「寝ていた方が、安全なのでは」


「無理をしてはいけません。けれど、ずっと寝たままでも身体が鈍ります」


木下殿は、目を瞬いた。


完全に、想定外という顔である。


「鈍る」


「はい。寧々殿の調子が悪い時は休ませてください。腹が痛い、気分が悪い、出血がある、そういう時はすぐに産婆殿を呼び、安静です」


「はい」


「けれど、調子が良い日にまで布団に閉じ込めてはいけません。身体を冷やさぬようにして、少し歩く。庭をゆっくり見る。無理のない範囲で動く。それも大切です」


木下殿は、真剣な顔で聞いていた。


先ほどまでの浮かれた猿ではない。


命じられたことを、どう実行するか考えている顔である。


「なれば」


木下殿は、ぐっと拳を握った。


「毎朝、寧々の調子が良さそうなら、儂が一緒に散歩をします!」


「走らないでください」


「歩きます!」


「寧々殿の歩幅に合わせてください」


「合わせます!」


「寒い日は無理をさせないこと」


「はい!」


「寧々殿が疲れたと言ったら、すぐ休ませること」


「はい!」


「木下殿が楽しくなって遠くまで連れ出さないこと」


「……はい!」


今、一瞬だけ間がありましたね。


私はじっと木下殿を見た。


木下殿は、すぐに背筋を伸ばした。


「近くを、ゆっくり歩きます」


「よろしい」


寧々殿が聞いたら、きっと困ったように笑うだろう。


けれど、悪くない。


布団の中で一人、ただ不安に耐えるより。


夫と並んで、朝の庭をゆっくり歩く方が、きっと少し息がしやすい。


「藤の方様」


「はい」


「儂は、浮かれております」


「見れば分かります」


「ですが、浮かれすぎて寧々を疲れさせぬようにします」


「それがよろしいです」


「嬉しいのです」


「はい」


「ものすごく、嬉しいのです」


木下殿の目に、また涙が浮かんだ。


私は、ゆっくり頷いた。


「喜んでよいのです、木下殿」


「……よいのですか」


「はい。けれど、喜びながら、寧々殿を休ませてください」


「はい!」


「あと、走らない」


「……はい」


そこだけ少し返事が小さかった。


これはまた走りますね。


私はそう思ったが、今は見逃すことにした。


その時、控えめな声がした。


「それから」


振り返ると、勝豊が膝をつき、折り畳まれた紙を二つ差し出していた。


「木下殿、こちらを」


「これは?」


木下殿が目を瞬く。


勝豊は、真面目な顔で答えた。


「寧々殿追加御養生品目録と、木下殿追加心得目録にございます」


「儂の分もあるのか!?」


「はい」


即答だった。


木下殿が、少しだけ身を引く。


「なぜ」


「必要かと」


また即答だった。


八右衛門殿が、部屋の端でそっと額を押さえた。


けれど、その顔は少しだけ誇らしげでもあった。


於光様は、にこりと笑っている。


「勝豊、よく気づきましたね」


「母上と父上に教わりましたので」


勝豊は、まず一枚目の紙を広げた。


「寧々殿追加御養生品目録。身体を冷やさぬ布、軽く食べられる温かいもの、匂いの強すぎぬ薬草茶、寝所の風除け、足元を温めるもの。加えて、調子のよい日の散歩用に、羽織と歩きやすい草履」


「散歩用まで」


木下殿が、感心したように呟く。


勝豊は頷いた。


「はい。木下殿が勢い余って遠くへ連れ出さぬよう、近場の道も書き添えてございます」


「そこまで!?」


「必要かと」


三度目である。


私は、少しだけ笑ってしまった。


勝豊は、次にもう一枚を差し出した。


「こちらが木下殿追加心得目録にございます」


木下殿は、なぜか背筋を伸ばした。


「……聞こう」


「一つ。寧々殿を布団に閉じ込めすぎぬこと」


「はい」


「一つ。散歩は寧々殿の歩幅に合わせること」


「はい」


「一つ。木下殿が楽しくなって遠くまで行かぬこと」


「……はい」


「今、少し間がありました」


「な、ない!」


「ございます」


勝豊は真顔だった。


木下殿は目を逸らした。


「一つ。食べ物は寧々殿に聞いてから用意すること。一度に大量に用意しすぎぬこと」


「はい」


「一つ。心配しすぎて寝かせぬこと」


「はい」


「一つ。自分が酒を控えているからといって、偉そうにしないこと」


「それは言わぬ!」


「念のためです」


「念のためが多い!」


「必要かと」


四度目だった。


木下殿は、とうとう両手で目録を受け取った。


「……ありがたく、頂戴いたします」


「はい」


勝豊は、きちんと頭を下げた。


その姿を見て、私は小さく息を吐いた。


初めて会った頃はまだ十の子供であったのに、こんなに立派になって。


「流石、於光様と八右衛門殿の御子ですね」


八右衛門殿が咳払いをした。


「……余計なところまで似たようでございます」


けれど、その声は柔らかかった。


藤七丸が、勝家様の腕の中で、また小さく声を上げた。


まるで自分も何かを言いたいように。


勝家様が藤七丸を見下ろす。


「藤七丸」


「勝家様」


「歩いた」


「はい」


「強くなる」


「はい。強くなりますね」


今日だけは、そう答えた。


勝家様が、少しだけ目を細める。


藤七丸は、何が起きているのか分かっていない顔で、勝家様の胸元を握っている。


その小さな手を見ていると、また胸がいっぱいになった。


藤七丸が歩いた。


一歩。


二歩。


まだ頼りなく、すぐに父の腕の中へ飛び込んでしまうような、小さな歩みだった。


けれど、確かに歩いた。


そしてその日、寧々殿の腹にも新しい命が宿ったと知らされた。


歩き出したのは、藤七丸だけではなかったのだと思う。


泣いていた女房も。


逃げていた猿殿も。


傷ついていた夫婦も。


少しずつ、前へ歩き出していた。


私は、勝家様の腕の中の藤七丸に手を伸ばす。


藤七丸は、私の指をぎゅっと握った。


小さな手。


けれど、確かに前へ伸びる手。


「よかったですね」


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


藤七丸に。


寧々殿に。


木下殿に。


それとも、あの時、泣きながらも怒れずにいた寧々殿を思い出している自分に。


ただ、そう言いたかった。


よかった。


本当に、よかった。


私は藤七丸の小さな手を握り返しながら、もう一度だけ泣いた。


今度は、嬉しい涙だった。


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