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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田の妻と猿の女房

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第九話 子を作るのは女だけの仕事ではありません


好きでもない女。


その言葉が、耳の奥に残っていた。


藤吉郎様は、自分の口を押さえたまま固まっていた。


しまった、という顔をしていた。


いつもなら、そこで笑う方だ。


大げさに頭をかき、いやあ今のは言い方が悪うございました、と笑って、場を軽くしようとする方だ。


けれど、今の藤吉郎様は笑えずにいた。


私も、笑えなかった。


好きでもない女。


それは、私の胸をまた別の形で刺した。


あの人は、好きで通っていたのではない。


女に溺れていたのでもない。


後継ぎを得るために。


私を離縁せずに済ませるために。


一人で、間違った道を走っていた。


許せるわけではない。


傷つかなかったことにもならない。


けれど、ほんの少しだけ、胸の奥で息ができた。


あの人の心が、私から離れていたわけではないのかもしれない。


そう思ってしまったからだ。


そして、そう思ってしまう自分が、また少し悲しかった。


藤の方様は、静かに私たちを見ておられた。


その笑みは、先ほどまでの怖いほどの笑みとは少し違っていた。


怒っている。


けれど、ただ責めるための怒りではない。


逃げ場を塞いで、隠していたものを引きずり出して、ようやく私たちを同じ場所に立たせるための怒りだった。


「木下殿」


藤の方様が、静かに呼んだ。


猿殿、ではなかった。


木下殿。


その呼び方に戻っただけで、藤吉郎様の肩がわずかに落ちた。


「はい」


「寧々殿に何も話さず、寧々殿だけを傷つけた時点で、貴方は間違えています」


藤吉郎様は、何も言えなかった。


藤の方様の声は、決して荒くなかった。


けれど、言葉はまっすぐだった。


「子が必要だと思ったのですね」


「……はい」


「寧々殿を離縁したくなかった」


藤吉郎様の顔が歪む。


「はい」


「だから、よそで子を得ればよいと考えた」


「……はい」


「そのことを、寧々殿に話しましたか」


藤吉郎様は、答えられなかった。


藤の方様は、少しだけ目を伏せた。


「話さなかったから、寧々殿は一人で傷ついたのです」


その言葉に、胸が詰まった。


一人で。


そうだ。


私は一人で傷ついていた。


けれど、藤吉郎様もまた、一人で走っていたのだ。


お互いに同じ家にいて、同じ屋根の下にいて、それなのに、ずっと別々の場所で苦しんでいた。


「木下殿」


「……はい」


「子を得たいのなら、寧々殿と話し合いなさい」


藤吉郎様は、膝の上で手を握った。


藤の方様は、続ける。


「子を作るのは、女だけの仕事ではありません」


部屋の空気が止まった。


私も、息を止めた。


女だけの仕事ではない。


その言葉を、私はこれまで誰からも聞いたことがなかった。


子が宿らない。


それは女の腹の問題。


女の身の問題。


女の務めが果たせぬ問題。


ずっと、そう思っていた。


皆、そう言っていた。


そういうものなのだと思っていた。


けれど、藤の方様は違うと言った。


「もちろん、子は授かりものです」


藤の方様は、そこで一度、私を見た。


その目は、とても優しかった。


「これをすれば必ず授かる、などとは申しません。そんなことを軽々しく言うつもりもありません」


私は、少しだけ頷いた。


「けれど、何もできないと泣くだけより、できることを増やしましょう」


できること。


その言葉が、胸に落ちた。


「まず、身体を冷やさないこと」


藤の方様は、私の膝に置かれた小豆の温熱布をそっと示した。


「腹と足元を温めます。冷えはよくありません。泣いた後は特に身体が冷えます」


私は、小豆布に手を置いた。


じんわりとした温かさが、布越しに伝わっている。


先ほどまで冷えきっていた指先が、少しずつ戻ってきていた。


「食事も大切です。食べられない時は無理に多く食べなくてよいですが、温かいものを少しずつ。身体を作るものを食べてください」


藤吉郎様が、真剣な顔で聞いている。


いつものように口を挟まない。


茶化さない。


ただ、聞いていた。


「眠りも大切です。考えすぎて眠れない夜もあるでしょう。けれど、身体を休めなければ、整うものも整いません」


私は、目を伏せた。


眠れない夜。


何度あっただろう。


藤吉郎様の帰りを待ちながら。


帰ってきた衣の匂いに気づきながら。


布団に入っても、胸が重くて眠れない夜があった。


「そして、月のものの日取りを記すこと」


藤の方様の言葉に、私は顔を上げた。


「月のもの、でございますか」


「はい」


藤の方様は頷く。


「いつ来たのか。どれほど続いたのか。身体の調子はどうだったのか。腹が冷えたか、痛みがあったか。それを書き残します」


「書き残す……」


「そうすれば、寧々殿のお身体の流れが見えてきます」


藤吉郎様が、はっとした顔をした。


「流れ」


「はい」


藤の方様は、今度は藤吉郎様を見る。


「木下殿は、荷の流れを見るのがお得意でしょう」


「は、はい」


「人の動き、道の詰まり、荷の余り。それを見る方なら、分かるはずです」


藤吉郎様の目が変わった。


仕事の話を拾う時の目だった。


「寧々殿の身体にも、流れがあります。それを寧々殿一人に背負わせず、夫婦で知るのです」


「夫婦で……」


「はい」


藤の方様は、はっきりと言った。


夫婦で共に過ごす日を、ただ成り行きに任せるのではなく、お身体の流れに合わせて考えるのです」


私は、顔が熱くなった。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


恥ずかしい。


とても恥ずかしい。


けれど、藤の方様の言葉には、いやらしさがなかった。


それは、子を望む夫婦が、きちんと同じ方向を見るための話だった。


「それから、木下殿」


「はい」


「寧々殿だけでなく、貴方のお身体も整えていただきます。」


藤吉郎様が、目を瞬いた。


「儂の、でございますか」


「当たり前です」


当たり前。


藤の方様は、当然のように言った。


「子を作るのは女だけの仕事ではないと、今申し上げました」


「あ、はい」


「酒を飲みすぎない。寝不足を重ねない。過労で倒れない。寧々殿を不安にさせない。よその女へ逃げない」


最後の言葉に、藤吉郎様の肩が小さく跳ねた。


「逃げ……」


「逃げです」


藤の方様は、にこりと笑った。


「木下殿がどれほど理由をつけても、寧々殿と話さず、別の女のもとへ向かった時点で、それは逃げです」


藤吉郎様は、完全に黙った。


柴田様も、渋川様も、於光様も、黙っていた。


けれど、その沈黙は、藤の方様に同意している沈黙だった。


「後継ぎを得なければならない。その焦りは分かります」


藤の方様の声が、少しだけ柔らかくなる。


「けれど、寧々殿を置き去りにして得た子が、本当に寧々殿を楽にしますか」


藤吉郎様の顔が、苦しげに歪んだ。


「寧々殿は、何年も自分だけを責めてこられたのです」


私は、喉の奥が熱くなった。


「三年宿らぬ女は家を出よ。その言葉を笑ってやり過ごしながら」


涙が、また滲む。


「夫がよそから女の気配をまとって帰ってくるたび、自分が産めないからだと飲み込んできたのです」


藤吉郎様が、私を見る。


その目に、痛みがあった。


「木下殿。貴方が子を欲しいと思うのなら、まず寧々殿の話を聞きなさい」


「……はい」


「寧々殿を責めない。寧々殿一人に背負わせない。寧々殿に話さず、一人で決めない」


「はい」


「そして、寧々殿」


「はい」


私は、藤の方様を見た。


「怒ってよいのですよ」


その言葉に、息が詰まった。


「怒って……」


「はい」


藤の方様は、静かに頷く。


「悲しかったのなら、悲しかったと言ってよいのです。嫌だったのなら、嫌だったと言ってよいのです」


「でも」


「怒れなければ」


藤の方様は、少しだけ笑った。


「私が代わりに怒ります」


その言葉に、涙が落ちた。


先ほどまでの涙とは違う。


胸の奥で固くなっていたものが、少しだけ緩むような涙だった。


私は、ずっと怒ってはいけないと思っていた。


子を産めない私に、怒る資格などないと思っていた。


けれど、藤の方様は怒ってよいと言ってくださった。


私が怒れないなら、代わりに怒ると。


そんなことを言われたら。


泣くしか、ないではないか。


「藤の方様」


「はい」


「私は、悪い女房ではないのでしょうか」


声が震えた。


「子を産めないのに」


「悪い女房ではありません」


藤の方様は、すぐに答えた。


迷いがなかった。


「帰る場所でいようとしたのでしょう」


「……はい」


「木下殿が笑って帰れる場所でいようとしたのでしょう」


「はい」


「なら、それは何もしていないことではありません」


その言葉に、私は顔を覆った。


帰る場所でいること。


それを、何かと言ってくれる人がいた。


私がただ居座っていたのではないと。


ずるい女ではないと。


言ってくれる人がいた。


「寧々」


藤吉郎様の声がした。


私は顔を上げられなかった。


「寧々」


もう一度、呼ばれる。


今度は、いつもの調子ではなかった。


おどける声でも、誤魔化す声でもない。


「儂は、間違えた」


私は、ゆっくり顔を上げた。


藤吉郎様は、畳に手をつき、深く頭を下げていた。


「一人でどうにかしようとして、お前を一人にした」


「お前様」


「儂は、子が欲しかった」


その声は、苦しかった。


「欲しかった。家を残したかった。お前を離縁したくなかった。お前が出ていかねばならぬようなことにしたくなかった」


「……はい」


「だから、外で子を得ればよいと思った」


言葉が震える。


「そうすれば、お前を妻のまま置いておけると思った。お前が責められずに済むと思った」


藤吉郎様は、顔を上げなかった。


「だが、儂は、お前を責められる場所に一人で立たせていた」


私は、涙を拭った。


「お前様」


「すまぬ」


それは、とても短い謝罪だった。


けれど、初めて私に向けられた謝罪だった。


私は、しばらく何も言えなかった。


許した、とすぐに言えるほど軽い傷ではない。


けれど、もう終わりにしたいと言えるほど、私はこの人を嫌いになれない。


私は、藤吉郎様の女房でいたかった。


それだけは、ずっと変わらなかった。


「お前様」


「うむ」


「私は、悲しゅうございました」


藤吉郎様の肩が震えた。


「はい」


「嫌でございました」


「はい」


「私に何も言わず、私だけが気づかぬふりをしていればよいと思われたことが、悔しゅうございました」


「……すまぬ」


「でも」


私は、小豆布に手を置いた。


温かい。


まだ温かい。


「それでも、お前様の女房でいたかったのです」


藤吉郎様が、ようやく顔を上げた。


泣きそうな顔だった。


あの人は、いつも笑っている。


猿と呼ばれても笑う。


怒られても笑う。


軽く見られても笑う。


そのあの人が、今は泣きそうな顔で私を見ていた。


「寧々」


「はい」


「儂は、これから話す」


「はい」


「勝手に決めぬ」


「はい」


「よその女へは」


藤吉郎様は、そこで一度、深く息を吸った。


まるで、何かを断ち切るように。


「行かぬ」


私は、深く息を吸った。


胸が痛い。


けれど、先ほどまでとは違う痛みだった。


「はい」


そう答えると、藤吉郎様の顔が少しだけ崩れた。


泣きそうで、笑いそうで、どうしたらよいか分からないような顔だった。


その時だった。


藤吉郎様が、はっと顔を上げた。


戻ってきた。


そんな気がした。


「藤の方様」


「はい」


「この小豆布を、譲ってはいただけませぬか」


藤の方様が、目を瞬く。


「小豆布を?」


「はい。あと、薬草茶も」


藤吉郎様は、急にいつもの勢いを取り戻したように身を乗り出した。


「金は払います。どうか、工面していただきたい」


「お前様」


思わず呼ぶと、藤吉郎様はこちらを向いた。


「寧々、身体を温めるのじゃろう?」


「それは、そうですが」


「なら要る。小豆布も茶も要る。足元を冷やさぬものも要る。寝所に風が入るなら塞がねばならぬ。布団も見直した方がよいか? いや、まず家の隙間を」


「木下殿」


藤の方様が呼んだ。


藤吉郎様は、ぴたりと止まった。


「はい」


「落ち着きましょう」


「はい」


素直だった。


けれど、目はまだ走っている。


いつもの藤吉郎様だ。


ただし、走る先が少し変わった。


外ではなく、私の方へ。


そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。


「それから」


藤吉郎様は、今度は自分の胸を指さした。


「儂の酒も、良くないのだな」


「飲みすぎは、良くないでしょうね」


藤の方様が答えると、藤吉郎様は真剣に頷いた。


「では控えます」


「急に断つ必要までは」


「控えます」


早い。


決断が早い。


「儂も、寧々と同じ茶を飲むべきか?」


「木下殿」


「はい」


「まずは、寧々殿の話を聞くところからです」


藤吉郎様は、また止まった。


それから、ゆっくり私を見る。


「……寧々」


「はい」


「少し、落ち着きましょう」


私がそう言うと、藤吉郎様は目を瞬いた。


それから、少しだけ笑った。


「うむ。すまぬ」


「でも」


私は、小豆布を撫でた。


「嬉しゅうございます」


藤吉郎様が、言葉を失った。


その時、すっと若い声がした。


「木下殿」


振り返ると、若い方が膝をつき、折り畳まれた紙を差し出していた。

先ほど廊下を走りかけて、八右衛門殿に止められていた若い方だった。


「こちらをお持ちください」


「これは?」


藤吉郎様が目を丸くする。


若い方は、真面目な顔で答えた。


「寧々殿御養生品目録にございます」


御養生品目録。


藤吉郎様が固まった。


私も固まった。


部屋の端で、渋川様が額を押さえていた。


けれど、その顔は、どこか誇らしそうにも見えた。


「勝豊」


藤の方様が、少し驚いた声を出す。


「いつの間に」


勝豊と呼ばれた若い方は、きちんと頭を下げた。

お若いのに、しっかりとした目をしている。


「横から申し訳ございません。柴田家家令、渋川八右衛門の息子、勝豊にてございます。藤の方様が小豆布と薬草茶をお命じになられた時点で、必要になるかと思いまして用意いたしました」


「まあ」


於光様が、横でにこりと笑った。


「勝豊、よく気づきましたね」


「母上に教わりましたので」


母上。


では、この方は於光様の御子。


そして、渋川様の御子なのですね。


なるほど。


気配りと実務が、見事に合わさっている。


藤の方様が、小さく息を吐いた。


「流石、於光様と八右衛門殿の御子ですね」


渋川様が、少しだけ咳払いをした。


「……余計なところまで似たようでございます」


けれど、その声は柔らかかった。


勝豊殿は、もう一枚の紙を差し出した。


「小豆布、薬草茶、足元を温める布、寝所の風除け、月のものの日取りを記す帳面、墨、筆。それから木下殿用に、酒の代わりとなる薄めの薬草茶も書き添えてございます」


藤吉郎様の目が輝いた。


「儂の分まで」


「はい」


「ありがたい!」


藤吉郎様は、両手で目録を受け取った。


その顔は、もう先ほどまでの逃げる猿の顔ではなかった。


仕事を拾った猿の顔だった。


勝豊殿は、さらに淡々と続けた。


「別紙に、木下殿心得もまとめてございます」


「心得」


「はい」


藤吉郎様が、少しだけ身構える。


勝豊殿は、紙を開いた。


「一つ。寧々殿に話さず、一人で決めぬこと」


藤吉郎様が、小さく頷く。


「一つ。よその女へ逃げぬこと」


藤吉郎様の肩が跳ねる。


「一つ。酒は控えること」


「はい」


「一つ。寧々殿の身体を冷やさぬこと」


「はい」


「一つ。寧々殿の話を聞くこと」


藤吉郎様は、ゆっくり私を見た。


私は、少しだけ笑った。


「お前様」


「うむ」


「まずは、最後のところからお願いします」


藤吉郎様は、真剣な顔で頷いた。


「分かった」


於光様が、静かに茶を置いた。


「では、まずは温かいものを」


藤の方様が頷く。


「はい。まず温めます」


その言葉に、私はまた少しだけ笑ってしまった。


泣いた後の顔で笑うのは、少し恥ずかしい。


けれど、笑えた。


子が授かるかどうかは、まだ分からない。


これからも苦しい日はあるだろう。


また泣く日もあるかもしれない。


けれど、少なくとも今、私は一人ではなかった。


藤吉郎様は、目録を真剣に見ている。


藤の方様は、私の身体が冷えぬよう気にかけてくださっている。


於光様は、温かい茶を用意してくださる。


勝家様は黙って場を守っている。


渋川様は胃を痛めながらも、勝豊殿の働きを見ている。


そして勝豊殿は、すでに次に必要なものを考えている顔をしている。


なんて、忙しない家なのだろう。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


忙しなくても、温かい。


ここにいると、そう思えた。


藤吉郎様が、目録から顔を上げた。


「寧々」


「はい」


「儂は、まずこれを覚える」


「はい」


「それから、そなたの話を聞く」


「はい」


「一緒に、やれることをやろう」


その言葉に、私は小さく頷いた。


「はい、お前様」


小豆布は、まだ温かかった。


冷えていた身体だけでなく、ずっと冷えていた心の奥まで、少しずつ温めてくれるようだった。


子は授かりもの。


それは、きっと変わらない。


けれど、何もできないと一人で泣くより、できることを二人で探すことはできる。


そう思えただけで、私は少しだけ息がしやすくなった。


夫婦とは、たぶん、そこから始め直せるものなのだ。


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