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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田の妻と猿の女房

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第八話 猿殿、逃げ場を失う


渋川八右衛門は、帳面を見ていた。


柴田邸の人の出入り。


祝いの品の返礼。


藤七丸様のために用意する物。


斯波邸へ回す物。


そして、今日急に増えた、木下藤吉郎殿の奥方――寧々殿をもてなすための支度。


帳面は嘘をつかない。


だが、帳面は勝手に整ってはくれない。


人が見て、数えて、動かして、初めて整う。


それをこの数年で、私は骨身に染みて知った。


なにせ我が柴田邸には、藤の方様がいらっしゃる。


米櫃を覗き、葱を数え、兵糧を整え、文を書き、客を迎え、時に信長様へ物申す方である。


ありがたい。


本当にありがたい。


だが、藤の方様が動かれる時は、だいたい何かが起きている。


そして本日も、起きていた。


信長様の急な呼び出しにより、木下藤吉郎殿と義銀様、お琴様が清洲へ向かわれ、寧々殿だけが斯波邸に残されるところだったという。


それを藤の方様が柴田邸へ招き、茶を出し、話を聞き、身体を温め、そして文をしたためた。


宛先は信長様。


届けるのは勝家様。


……胃が痛い。


私は帳面を閉じ、そっと額を押さえた。


そこへ、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。


走っている。


これは走っている。


小藤太殿とは違う。


あの方は最近、走りたいが走ってはいけないという、胃の痛そうな早歩きを身につけつつある。


だが、この足音は違う。


完全に走っている。


「父上!」


障子の向こうから、息子の勝豊の声がした。


「何事だ」


私が答えるより早く、勝豊が飛び込んできた。


「木下殿がいらっしゃいました!」


「そうか。ならば藤の方様へ」


「勝家の叔父上に首根っこを掴まれて!」


「はああ!?」


思わず声が裏返った。


家令としてあるまじき声だった。


だが、仕方がない。


首根っこ。


首根っこと申したか。


勝家様が、木下藤吉郎殿の首根っこを掴んでおられると。


「勝豊」


「はい」


「見間違いではないのか?」


「木下殿が、本当に猿の子のように首根っこを掴まれておいでです!」


私は、再び額を押さえた。


見間違いではない。


間違いなく、首根っこを掴まれている。


「父上」


「何だ」


「これは、どういう状況なのでしょうか」


「私が知りたい」


本当に知りたい。


だが、知らずに済む立場でもない。


私は立ち上がった。


「勝豊。お前は奥の者たちに余計な騒ぎをさせぬよう伝えよ」


「はい」


「それから、客人の前で首根っこと言うな」


「……もう言ってしまいました」


「今後だ」


「はい」


勝豊は慌てて頭を下げ、走り去ろうとした。


「勝豊」


「はい!」


「走るな」


「……はい」


少し前まで、私も小藤太殿へ同じことを言っていた気がする。


なぜ、我が家の若い者たちは皆、走ろうとするのか。


いや、今はそれどころではない。


私は廊下へ出た。


ちょうど、勝家様がこちらへ向かって来られるところだった。


本当に、木下藤吉郎殿の首根っこを掴んでいた。


いや、正確には、襟元を掴んでいる。


だが、遠目には首根っこに見える。


木下殿は、引きずられているわけではない。


きちんと歩いてはいる。


歩いてはいるが、勝家様の手が逃げ道を完全に塞いでいた。


「権六殿、それがし、本当に逃げませぬが?」


木下殿が困ったように笑う。


笑っている。


笑っているが、目が泳いでいる。


「先ほど、仕事と声を掛けられて行こうとしたのはどこぞの猿だ?」


勝家様の声は低い。


「いや、あれは、その、信長様に追加で申し付けられそうだったので、まずはお役目を」


「猿」


「はい」


「逃げるな」


「……はい」


木下殿の肩が落ちた。


私は、心の中で静かに手を合わせた。


木下殿。


どうか、ご無事で。


いや、無事で済むとは思えないが。


藤の方様が待っておられるのだ。


しかも、怒っておられる。


それも、静かに怒っておられる。


静かに怒る藤の方様は、たいへん怖い。


少なくとも、私はそう知っている。


勝家様は、私を見ると短く頷いた。


「八右衛門」


「はっ」


「猿を連れてきた」


「……そのようでございます」


他に返しようがなかった。


木下殿は、私へ助けを求めるような目を向けた。


無理です。


無理ですぞ、木下殿。


私は家令です。


家令ですが、藤の方様がお怒りの時に猿殿を救い出す力はございません。


そもそも、なぜ猿殿と言ってしまったのか。


いけない。


まだ本人の前で口にはしていない。


私は心の中だけで留めた。


勝家様は、木下殿をそのまま奥の座敷へ連れて行く。


私はその後に続いた。


部屋の前には於光様が控えておられた。


その顔は穏やかである。


穏やかだが、完全に状況を把握している顔だった。


「勝家様、藤乃様がお待ちです」


「うむ」


木下殿が小さく息を呑んだ。


私は襖の前で、もう一度だけ胃を押さえたい気持ちになった。


だが、押さえる前に襖が開いた。


中には藤の方様がいらした。


藤七丸様は、於光様が用意した寝具に寝かされている。


寧々殿は座していた。


膝には小豆の温熱布が置かれている。


茶も用意されている。


一見、穏やかな奥向きの一室だった。


だが、空気は穏やかではない。


藤の方様が、にこりと笑った。


「よく来られました、猿殿?」


私は胃を押さえた。


押さえた。


今度は押さえた。


普段、藤の方様は木下殿を『木下殿』と呼ばれる。


決して、猿殿などとは呼ばれない。


それを今、あえて猿殿と呼ばれた。


しかも、笑顔で。


これはまずい。


たいへんまずい。


藤の方様は、怒っておられる。


木下殿もそれを察したのだろう。


笑顔がひきつっていた。


「ふ、藤の方様。本日は寧々が大変お世話になりまして」


「ええ。お世話しております」


「はい」


「今も」


「……はい」


藤の方様の笑顔は崩れない。


木下殿の笑顔は崩れかけている。


勝家様は木下殿の襟元から手を離した。


逃げ道は閉じた、と判断されたのだろう。


木下殿は、ちらりと廊下の方を見た。


その瞬間、勝家様が一歩横へ動いた。


退路が塞がれた。


木下殿は視線を戻した。


「座りなさいませ、猿殿」


「はい」


木下殿は素直に座った。


たいへん素直だった。


藤の方様は、寧々殿の横に座っていた。


寧々殿は、目元を少し赤くしている。


先ほど泣かれたのだろう。


だが、今はきちんと座っている。


強い方だ。


私は部屋の端に控えた。


正直、今すぐ退出したい。


しかし、勝家様もおられる。


藤の方様もおられる。


於光様も、控えの者たちもいる。


家令である私が逃げるわけにはいかない。


逃げたい。


たいへん逃げたい。


だが、逃げられない。


猿殿と同じである。


藤の方様が、静かに口を開いた。


「寧々殿のお話は、聞かせていただきました」


「は、はいっ!」


「まず、よそに女がいるそうですね?」


私は、心の中で叫んだ。


藤乃様!?


まず!?


まず、そこからですか!?


もう少し、もう少し風呂敷にお包みくださいませ!


木下殿は、目を見開いた。


寧々殿は、膝の上の手を握った。


勝家様は黙っている。


於光様は茶を静かに置き直した。


この場で動揺しているのは、私と木下殿だけではないのか。


いや、木下殿は当然として、私だけかもしれない。


「いや、その、藤の方様」


木下殿が、いつもの調子で笑おうとした。


「何分、若気の至りといいますか」


「寧々殿がいらっしゃいますのに?」


藤の方様の声は穏やかだった。


穏やかだが、逃げ場がない。


「その、男には色々と」


「寧々殿がいらっしゃいますのに?」


二度目である。


同じ言葉が二度目である。


これは逃げ道を塞ぐ時の言い方だ。


「いえ、決して寧々を軽んじているわけでは」


「では、どういうおつもりで?」


木下殿の口が止まった。


私は、そっと目を伏せた。


これはもう無理だ。


藤の方様は、帳面を見る時と同じ顔をしておられる。


数の合わぬ米俵を見つけた時と同じ目である。


「寧々殿は、木下殿がよそから戻られた日、目も合わせてくださらぬと仰っておりました」


木下殿の顔から、血の気が引いた。


「寧々が……」


「ええ」


藤の方様は頷いた。


「寧々殿は、ずっとお気づきでした」


部屋が静かになる。


寧々殿は、下を向いていた。


その横顔は、怒っているというよりも、寂しそうだった。


私は嫌な予感がした。


泣くよりも。


怒るよりも。


寂しそうに笑う女の顔ほど、怖いものはない時がある。


寧々殿は、ゆっくりと顔を上げた。


「お前様」


その声は静かだった。


木下殿が、びくりと肩を揺らす。


「寧々、なんじゃ」


「離縁してくださいまし」


場が止まった。


本当に、すべての音が止まった気がした。


私の胃まで、痛むのを忘れた。


木下殿は、しばらく何も言わなかった。


言葉の意味を理解できていないようだった。


「寧々」


「もっと、早く言うべきでした」


寧々殿の声は震えていない。


だからこそ、痛かった。


「お子が欲しいなら、私は邪魔ですわ」


「何を」


「私は八年、お前様の女房をしておりました。けれど、一度も子を宿せませんでした」


木下殿の顔が歪んだ。


「寧々」


「三年宿らぬ女は家を出よと申します」


「やめろ」


「私は八年です」


「寧々、やめろ」


「だから」


寧々殿は、静かに頭を下げた。


「離縁してくださいまし」


その瞬間、木下殿が叫んだ。


「するわけなかろう!」


声が大きかった。


藤七丸様が、寝具の中で少しだけ身じろぎをした。


於光様がすぐにそちらへ目を向ける。


だが、木下殿はそれどころではなかった。


「儂が、なんのために好きでもない女を!」


言い切る前に、木下殿ははっと口を塞いだ。


遅い。


完全に遅い。


部屋の空気が変わった。


私は、木下殿を見た。


今、何と。


好きでもない女。


そう言ったか。


つまり。


木下殿は、女に溺れていたのではない。


好きでよそへ通っていたのではない。


後継ぎを得るために。


寧々殿を離縁せずに済むように。


別の女に子を産ませようとしていたのか。


私は息を呑んだ。


そういうことか。


そういうことだったのか。


いや、だからといって許されるわけではない。


寧々殿に何も話さず、傷つけ続けてよい理由にはならない。


だが、見えていた形が変わった。


木下殿は、女に溺れていたのではない。


後継ぎ問題を、夫婦で話さず、一人で解こうとした男だった。


そしてその結果、女房を泣かせた男だった。


これは。


これはまた、なんとも。


胃が痛い。


非常に胃が痛い。


寧々殿は、木下殿を見ていた。


驚き。


痛み。


そして、ほんのわずかな安堵。


そのすべてが混じった目だった。


「好きでも、ない女」


木下殿は、顔を歪めた。


「違う、寧々。いや、違わぬが、その、言い方が」


「お前様」


「儂は」


「では、なぜ」


寧々殿の声が、初めて揺れた。


「なぜ、何も言ってくださらなかったのですか」


木下殿は答えられなかった。


寧々殿の手が、膝の上で震えている。


「私が、どんな気持ちでお前様を迎えていたと思っているのです」


「寧々」


「女の香をまとって帰ってきたお前様に、茶を出して」


声が震える。


「今日はお疲れでしたねと笑って」


「寧々、儂は」


「私が産めないから、仕方ないと思って」


木下殿は、息を詰めた。


寧々殿の目に涙が浮かぶ。


「それでも、お前様の女房でいたくて」


部屋の中が、重くなる。


誰もすぐには口を挟まなかった。


勝家様も。


於光様も。


私も。


藤の方様だけが、静かに二人を見ていた。


そして、にこりと笑った。


「やっぱり、そういうことですね」


その笑顔に、私は背筋を正した。


怖い。


たいへん怖い。


けれど、同時に分かった。


藤の方様は、ただ木下殿を責めたいのではない。


逃げ道を塞ぎ、本音を引きずり出し、夫婦をようやく同じ場所に立たせたのだ。


木下殿は顔を上げた。


寧々殿も、涙の残る目で藤の方様を見る。


藤の方様は、藤七丸様が起きぬように声を落としながら、それでもはっきりと言った。


「木下殿」


「……はい」


「その話、最初から寧々殿になさるべきでした」


木下殿は、何も言えなかった。


寧々殿も、何も言わなかった。


私は、部屋の端で静かに息を吐いた。


猿殿は、逃げ場を失った。


だが、逃げ場を失ったことで、ようやく帰る場所の前に立ったのかもしれない。


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