第三話 父はだめでも、叔母と千若を
私は、魚を獲りに来ていた。
遊びではない。
気晴らしでもない。
叔母上と千若に、魚を食べさせたかった。
ただ、それだけだった。
斯波の嫡男が川辺で魚を獲るなど、本来ならば叱られることなのだろう。
いや、実際、叔母上には何度も叱られている。
「危ないからやめなさい」
「義銀、あなたは斯波の嫡男なのですよ」
「もし何かあったら、千若が泣きます」
そう言って、叔母上は困った顔をする。
けれど、そう言う叔母上自身が、いつも自分の膳を千若へ回していることを、私は知っていた。
米櫃が空に近いことも。
台所で叔母上が、何度も何度もため息を呑み込んでいることも。
破れた衣をほどいて、千若の小袖を縫っていることも。
全部、知っていた。
父上は、知らないふりをしていた。
いや、本当は知っていたのかもしれない。
けれど、父上はいつも斯波の名ばかりを見ていた。
斯波家の格。
尾張守護の威光。
足利の流れ。
そういう言葉を、父上は好んだ。
だが、斯波の名では腹は満たない。
尾張守護の威光では、千若の腹は鳴り止まない。
足利の流れとやらは、叔母上の細くなった手首を太らせてはくれなかった。
私は父上を嫌っていたわけではない。
ただ、見ていられなかった。
叔母上が、あまりにも何でもないことのように、自分を後回しにする姿を。
千若が、腹が減ったと泣くことすら我慢している姿を。
だから私は、川に来ていた。
魚籠の中には、小さな魚が何匹か入っていた。
多くはない。
けれど、叔母上ならきっと、葱と一緒に何とかしてくれる。
叔母上は不思議な人だ。
本を読む時は、妙に難しいことを言う。
時々、私には分からない言葉を使う。
「三國志ではね」
「孔明先生がね」
「仲達様はね」
などと言いながら、兵の動かし方や、物の見方を教えてくれる。
叔母上は女だ。
武家の女だ。
本来ならば、そこまで兵法を語る人ではないのかもしれない。
けれど私は、叔母上の話を聞くのが好きだった。
父上の語る斯波の威光より、叔母上の語る兵法の方が、ずっと現実に触れていた。
叔母上は、名に酔わない。
だから私は、叔母上を尊敬していた。
ふと、風向きが変わった。
焦げたような匂いがした。
私は顔を上げる。
遠く、守護邸の方角に、黒い煙が上がっていた。
一瞬、何かを燃やしているのかと思った。
けれど、次の瞬間には足が動いていた。
魚籠を抱え、私は走った。
道の途中で、人が逃げてきた。
「清洲が――」
「守護様が――」
「逃げろ、逃げろ!」
何を言っているのか、初めは分からなかった。
分かりたくなかったのかもしれない。
けれど、守護邸に近づくほど、声ははっきりしていく。
「斯波義統様が討たれた!」
足が止まった。
父上が。
討たれた。
魚籠を抱える手に、力が入った。
戻らなければ。
父上を助けなければ。
そう思った。
思った、はずだった。
けれど、守護邸の方角から上がる煙は濃く、逃げてくる者たちの顔は青ざめていた。
刀を持つ男たちが、門の方へ走っていくのが見えた。
今、私一人が戻ったところで、父上を助けられるのか。
無理だ。
そう、分かってしまった。
十四の身で、何ができる。
刀を振るったところで、たかが知れている。
父上がすでに討たれたというなら、私が向かったところで、父上を生き返らせることなどできない。
けれど。
叔母上は。
千若は。
二人は、まだ屋敷にいる。
まだ、生きているかもしれない。
胸が痛かった。
息が苦しかった。
父上を諦めるようで、己がひどく薄情な人間に思えた。
だが、足はまた動いた。
父上は、もうだめかもしれない。
けれど、叔母上と千若だけは。
そう思いながら走った先で、私は武者の一団を見つけた。
その中に、一人だけ空気の違う若武者がいた。
まだ若い。
けれど、若いだけではない。
周囲の者たちが、自然とその男を中心に動いている。
私はその男が誰か知らなかった。
だが、織田方の者だと分かった。
今、この場で助けを求めるなら、この男しかいない。
私はその前に飛び出した。
「織田弾正忠家中の方とお見受けする!」
若武者がこちらを見た。
鋭い目だった。
その目に射抜かれて、一瞬、声が詰まりそうになった。
けれど、ここで怯むわけにはいかない。
私は魚籠を抱えたまま、膝をついた。
「我が名は、斯波義銀! 尾張守護、斯波義統が嫡男にございます!」
周囲がざわめく。
若武者は、目を細めた。
「斯波の若君か」
私は頭を下げた。
泥に額がつきそうになる。
けれど、構っていられなかった。
「父は……父は、もはや間に合わぬやもしれませぬ」
喉が詰まる。
父上。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
それでも私は続けた。
「されど、守護邸には叔母が、幼き弟が残っております」
叔母上。
千若。
どうか、まだ生きていて。
「父はだめでも、叔母と千若を助けてください!」
そう叫んだ時、自分が泣いていることに気づいた。
斯波の嫡男が、見知らぬ武者の前で泣いている。
情けないと思った。
けれど、顔を上げることはできなかった。
若武者は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声が落ちてきた。
「馬を一頭、若君へ回せ」
私は顔を上げた。
若武者の配下が一瞬だけ迷う。
「柴田様、この騒ぎでは――」
「二度言わせるな」
その一言で、配下はすぐに馬を引いてきた。
柴田。
この方は、柴田というのか。
私は立ち上がろうとして、腕の中の魚籠を見た。
叔母上と千若に食べさせるはずだった魚。
けれど、これを抱えたまま馬には乗れない。
迷った私の手元を、柴田殿が見た。
「預かれ」
配下の一人が、魚籠を受け取ってくれる。
私は思わず、その籠から手を離せなかった。
柴田殿が短く言う。
「生きて戻れば、食える」
胸の奥が、熱くなった。
この方は、分かってくださったのだ。
それが、ただの荷物ではないことを。
私は唇を噛み、魚籠から手を離した。
「はい!」
馬に乗る手が震えた。
自分の馬ではない。
慣れない馬だ。
足もまだ震えている。
それでも乗った。
柴田殿が馬首を返す。
「道は分かるか」
「はい!」
私は守護邸の方角を指した。
「表は無理です。裏の築地沿いに古い門がございます。叔母上は、いざという時は千若を連れてそこへ向かうはずです」
「分かっておられるのだな」
「叔母上が、いつも教えてくださいました」
声が震えた。
「斯波の家は、もう名だけで守られる家ではないから、と」
柴田殿は、それ以上何も言わなかった。
ただ、馬を走らせた。
私は必死に後を追った。
火の匂いが強くなっていく。
怒号が近づいてくる。
屋敷の裏手へ回ると、見知った場所が、まるで知らぬ場所のように変わっていた。
壁は焦げ、戸は壊され、血の跡があった。
怖かった。
怖くてたまらなかった。
それでも、私は目を逸らせなかった。
叔母上が、そこにいるかもしれない。
千若が、そこで泣いているかもしれない。
そう思った瞬間、声が聞こえた。
「若君だ! こちらにも若君がおるぞ!」
血の気が引いた。
千若。
私は馬を急がせた。
裏手の門の近く。
そこに、叔母上がいた。
千若を抱えていた。
着物は乱れ、袖は汚れ、顔には煤がついていた。
足元は不安定で、男に腕を掴まれている。
けれど、叔母上は千若を離していなかった。
「叔母上!! 千若!!」
叫んだ。
叔母上が顔を上げる。
「義銀!」
生きていた。
二人とも、生きていた。
その瞬間、周囲の男たちがこちらを向いた。
「義銀だ!」
「斯波の嫡男だ!」
「逃がすな!」
恐怖で身体が固まった。
私の名が、二人をさらに危険にしてしまったのではないか。
だが、柴田殿は少しも怯まなかった。
「斯波の若君! 我が陣の場所は分かるか!」
私は叫び返した。
「はい!」
「なれば弟君を連れて逃げられよ!」
槍が閃いた。
私は、ただ目を見開くことしかできなかった。
柴田殿の槍は、速かった。
重かった。
迷いがなかった。
千若を掴もうとしていた者たちが、まとめて薙ぎ払われる。
「叔母君は、某が預かる!」
その言葉と同時に、柴田殿は馬から飛び降りた。
千若が、叔母上の腕から離される。
「千若!」
叔母上の声。
「藤乃おば様!」
千若の泣き声。
私は腕を伸ばした。
千若がこちらへ押し渡される。
小さな身体が、私の腕の中に飛び込んできた。
震えていた。
熱かった。
生きていた。
「千若、しがみつけ!」
「兄上!」
「落ちるな!」
私の声も震えていた。
けれど、千若を抱く腕だけは緩めなかった。
柴田殿が言う。
「行け!」
私は一瞬、叔母上を見た。
置いていくのか。
叔母上を。
私たちを育ててくれた人を。
今も千若を守ろうとしていた人を。
置いていけるのか。
その迷いを、叔母上は見抜いたのだろう。
叔母上は叫んだ。
「義銀! 千若をお願い!」
胸が裂けるかと思った。
それでも、頷いた。
「……必ず!」
私は馬を走らせた。
千若を抱えて。
叔母上に背を向けて。
後ろから、叔母上の声が聞こえた。
「私を置いて、甥たちを頼みます!」
やめてください。
叔母上。
どうしてあなたは、いつもそうなのですか。
どうして、自分を一番後ろに置くのですか。
振り返りたかった。
でも、振り返らなかった。
柴田殿が言ったのだ。
我が陣の場所は分かるか、と。
弟君を連れて逃げられよ、と。
私に、千若を任せたのだ。
ならば、私は逃げる。
千若を、落とさない。
それが今、私にできる唯一のことだった。
陣に着いた時、私は馬から転がるように降りた。
千若を抱いたまま、膝が崩れそうになる。
けれど、千若は離さなかった。
「兄上、藤乃おば様は?」
千若が泣きながら聞く。
私は答えた。
「柴田殿が、連れて来てくださる」
自分に言い聞かせるように。
祈るように。
いや。
祈りではない。
あの方なら、きっと連れて来てくださる。
そう信じた。
やがて、馬の音がした。
私は顔を上げる。
柴田殿だった。
その腕の中に、叔母上がいた。
柴田殿が、叔母上を連れて戻ってきた。
叔母上は、足を痛めているようだった。
けれど、生きていた。
私は千若を抱えたまま、息を吐いた。
叔母上がこちらを見る。
「義銀……千若……」
その声を聞いた瞬間、胸が詰まった。
叔母上の目から、涙が零れた。
私は固まった。
叔母上が泣いている。
あの叔母上が。
米櫃が空でも笑っていた人が。
破れた衣をほどきながら、葱マジ便利などと言っていた人が。
父上のことを悪く言いながら、それでも家を捨てなかった人が。
泣いている。
涙を拭かなければ、と思った。
けれど、私は何も持っていなかった。
手拭いもない。
懐紙もない。
何もない。
魚籠すら、先ほど柴田殿の配下に預けたままだ。
何一つ、叔母上に差し出せるものがない。
そのことが、ひどく情けなかった。
その時、柴田殿が腰から手拭いを取った。
何も言わず、叔母上の前に膝をつく。
叔母上が驚いたように目を瞬かせた。
「柴田殿……?」
「煤が」
柴田殿は、短くそう言った。
そして、無骨な手つきで、叔母上の頬を拭った。
そっと、というには少し不器用で。
けれど、決して乱暴ではなかった。
叔母上は、呆然としていた。
私も、呆然としていた。
千若だけが、しゃくり上げながら叔母上に手を伸ばしている。
柴田殿は、叔母上の涙を拭いながら言った。
「若君は、ご立派であられた」
叔母上の顔が、また歪む。
「……ええ」
その声は震えていた。
「ええ、本当に」
私は、胸が熱くなった。
泣いてはいけないと思った。
けれど、視界が滲んだ。
叔母上を泣かせたのは、悲しみだけではないのだと分かったから。
叔母上は、私が走ったことを知ったのだ。
千若を連れて逃げたことを知ったのだ。
そして、それをこの人が見ていてくれたのだ。
その時、柴田殿の配下が魚籠を持って戻ってきた。
「若君。お預かりしておりましたものにございます」
私は、はっとした。
叔母上と千若に食べさせようと思って獲った魚。
父上が討たれ、屋敷が燃え、何もかも失ったように思えた中で、それだけが戻ってきた。
柴田殿は言った。
「生きて戻れば、食えると申した」
私は唇を噛んだ。
「……はい」
叔母上が、また泣きそうな顔をした。
私はこの時、思った。
この方は、私が何を守りたかったのか、分かってくださったのだ。
叔母上と、千若を。
そして、あの魚籠に込めた、ささやかな願いまで。
柴田勝家。
この日、初めて出会ったその若武者を、私は生涯忘れない。




