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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田と忙しない姫

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第二話 名家の姫、片腕で攫われる


「火を放て!」


その声を聞いた瞬間、血の気が引いた。


襲撃。


守護邸が、襲われている。


三歳の頃から、この家は危ういと思っていた。

十八になるまで、その危うさを何度も見てきた。


米櫃は空に近く、家臣たちの目には不満が滲み、兄はそれでも斯波の名に縋っていた。


だから、いつか何かが起こるとは思っていた。


けれど。


今なのか。


今、この瞬間なのか。


「藤乃おば様……?」


腕の中で、千若が震えていた。


私は千若の小さな身体を抱き締めたまま、廊下の向こうへ耳を澄ませる。


怒号。

足音。

物が倒れる音。

悲鳴。


そして、はっきりとした勝ち鬨の声。


「斯波義統、打ち取ったり!」


息が止まった。


兄上が、討たれた。


いや、兄上。

何しているの。

何でそんな、あっさりと。


そう思った直後、別の声が響く。


「嫡男を探せ!」

「斯波の嫡男を逃がすな!」


義銀。


川に行った義銀。

魚を獲りに行っていた義銀。


あの子は、今、外にいる。

ならば、まだ生きている。


生きているなら、逃げて。


お願いだから、逃げて。


でも、この屋敷の中には千若がいる。


兄の子で、まだ六歳の千若が。


私は千若の肩を掴み、目線を合わせた。


「千若。いい? これから静かに逃げるわ」


「逃げる……?」


「そう。声を出さないで。泣いてもいいけど、声は出さない」


千若は唇を震わせながら、こくんと頷いた。


偉い。

本当に偉い。


本当なら、怖いと泣き叫びたいだろうに。


私は千若を抱きかかえた。


重い。


六歳の子供は、思っているよりずっと重い。


でも、置いていけるわけがない。


頭の中で、必死に考える。


今の私たちの格好なら、すぐには姫と若君だとは思われないかもしれない。


千若の着物も質素だ。

私だって、斯波の姫らしい豪奢な格好などしていない。


台所仕事の途中だったから、袖も襷でまとめている。


名家の姫?

どこがだ。


むしろ、貧乏屋敷の使用人に近い。


なら、まだ逃げられるかもしれない。


そう思い、裏手へ向かおうとした。


その時だった。


「……藤乃姫?」


背後から、聞き覚えのある声がした。


しまった。


振り返る間もなく、腕を掴まれる。


兄の近くにいた男だ。


顔を見たことがある。

名前までは覚えていない。


覚えていないが、向こうは私を知っていた。


「やはり、藤乃姫か」


「離しなさい」


声が震えないように、必死で低く言う。


けれど、男は笑った。


「これは運がいい。斯波の姫まで――」


「おば様!?」


千若が叫んだ。


ああ。


その瞬間、男の目が千若へ向いた。


「おば様、だと?」


血の気が引く。


違う。

違うの。


この子は、違う。


そう言いたかった。


けれど、それを言うには遅すぎた。


男の顔が、はっきりと変わる。


「その子、義統様の子か!」


「違――」


「若君だ! こちらにも若君がおるぞ!」


最悪だ。


私は男の手を振りほどこうとした。

けれど、千若を抱えていてはうまく動けない。


どうにか逃げなければ。


千若だけでも。


千若だけでも逃がさないと。


私は身を捻った。


その瞬間、足元の板が濡れていたことに気づく。


水か。

酒か。

あるいは、血か。


足が滑った。


「っ……!」


足首に、鋭い痛みが走る。


視界が揺れた。

それでも、千若だけは抱え込む。


だめ。


ここで転んではだめ。


この子だけでも。

千若だけでも逃がさないと。


そう思った瞬間だった。


馬の蹄の音が、近づいてきた。


あり得ない勢いだった。


裏手の門の方から、馬が駆け込んでくる。


先頭にいたのは、顔を青ざめさせた少年。


「叔母上!! 千若!!」


「義銀!」


思わず叫んだ。


義銀だ。


生きている。


義銀が生きている。


けれど、その名を聞いた周囲がざわめいた。


「義銀だ!」

「斯波の嫡男だ!」

「逃がすな!」


義銀の顔が青ざめる。


だが、義銀の隣にいた若武者は、少しも怯まなかった。


まだ若い。

けれど、若いだけではない。


馬上の姿に、妙な重みがあった。

筋肉質な身体。

迷いのない目。

手にした槍を、まるで己の腕の延長のように構えている。


その若武者が、馬上から義銀へ叫んだ。


「斯波の若君! 我が陣の場所は分かるか!」


義銀は即座に答えた。


「はい!」


「なれば弟君を連れて逃げられよ!」


若武者の槍が、風を切った。


一人。

二人。


千若を掴もうとしていた者たちが、まとめて薙ぎ払われる。


「叔母君は、某が預かる!」


その言葉と同時に、若武者は馬から飛び降りた。


何。


何なの、この人。


いや、助けに来てくれたのは分かる。


でも、強い。


めちゃくちゃ強い。


若武者は、千若を私の腕から引き剥がすようにして抱き上げ、義銀の馬の方へ押し渡した。


「千若!」


「藤乃おば様!」


千若が泣き叫ぶ。

けれど義銀は、泣きそうな顔のまま、千若を必死に抱えた。


「千若、しがみつけ!」


「兄上!」


「落ちるな!」


義銀の声は震えていた。


それでも、弟を抱く腕には力がこもっていた。


若武者が鋭く言う。


「行け!」


義銀は一瞬、私を見た。


その目に、迷いがあった。


私は叫ぶ。


「義銀! 千若をお願い!」


義銀の顔が歪む。


それでも、あの子は頷いた。


「……必ず!」


義銀が馬を走らせる。


千若を抱えて。

私から、遠ざかっていく。


よかった。


よかった。


千若は逃げた。

義銀も逃げた。


なら、もういい。


私は若武者に向かって叫んだ。


「私を置いて、甥たちを頼みます!」


若武者は、こちらを見た。


一瞬だけ、ものすごく不機嫌そうな顔をした。


え。


何で?


次の瞬間、身体が浮いた。


「は?」


思わず、間抜けな声が出た。


若武者が、私を片腕で抱え上げていた。


いや、待って。


片腕?


私、十八歳の女なんですけど。

米櫃は空だけど、それなりに人間一人分の重さはあるんですけど。


「お、お待ちください! 私は――」


「黙っておられよ、姫君」


低い声が耳元で響いた。


「歩けぬ者を置いて行く趣味はござらん」


「歩けます!」


「ならば、なぜ足を引きずる」


ぐうの音も出ない。


若武者は私を馬へ乗せると、自分もすぐに飛び乗った。


追手が叫ぶ。


「逃がすな!」

「斯波の姫だ!」


若武者は片手で手綱を握り、もう片方の腕で私を支えたまま、馬を走らせた。


え、怖い。

めちゃくちゃ怖い。


でも速い。


すごく速い。


背後で怒号が遠ざかっていく。

燃える屋敷が遠ざかっていく。

兄が死んだ場所が、遠ざかっていく。


私は、何が何だか分からないまま、若武者の腕の中で揺られていた。


どれくらい走ったのか分からない。


やがて馬の速度が落ち、周囲に兵の気配が増えた。


整った陣。


織田の陣だろうか。


先に逃げた義銀と千若の姿も見えた。


千若は泣きじゃくりながら、義銀にしがみついている。

義銀は顔を真っ青にしながらも、弟を離していなかった。


よかった。


二人とも、生きている。


その事実に、足の痛みも、恐怖も、少しだけ遠のいた。


若武者が馬を止め、私を支えるように降ろしてくれる。


片足を地に着けた瞬間、足首に痛みが走った。


「っ」


「やはり、くじいておられるな」


若武者が短く言った。


私はなんとか姿勢を正した。


一応、斯波の姫である。


さっきまで片腕で抱えられていたとしても、一応、姫である。


「あの」


声が少し震えた。


「あの、どなたか存じ上げませんが、甥ともどもお助けいただきまして、ありがとうございます」


私が頭を下げると、若武者は少しだけ眉を動かした。


「礼は後でよろしい。まずは足を見せられよ」


「いえ、ですが――」


「逃げる最中に転ばれては困る」


低く、きっぱりとした声だった。


助けられた側なのに、少し叱られている気分になる。


私は思わず口を閉じた。


若武者は、義銀と千若の方へ視線を向ける。


「若君も、弟君もご無事だ」


その言葉に、ようやく胸の奥が緩んだ。


本当に、助かったのだ。


私は改めて若武者へ向き直った。


「申し遅れました。わたくしは斯波義統の妹、藤乃と申します」


そう言って、深く頭を下げる。


「お名前を、お教え願えますか」


若武者はそこで、ようやく己の無礼に気づいたように、少しだけ姿勢を正した。


「これは失礼つかまつった」


低く、よく通る声だった。


「織田弾正忠家中、柴田権六勝家にござる」


「え?」


思わず、声が漏れた。


今、何と?


柴田。


勝家。


柴田勝家?


織田信長の知識はある。

大まかな戦国の知識も、義務教育レベルなら頭に入っている。


詳しいことは知らない。


私は三國志オタクであって、戦国オタクではない。


でも、その名前は知っている。


柴田勝家。


あの、お市の方の旦那さん。

鬼柴田とか呼ばれる猛将。


たしか、初恋を叶えたとか何とか、どこかで聞いたことがある人。


その柴田勝家?


私は、目の前の若武者を見上げた。


たしかに、強い。

めちゃくちゃ強い。


腕も太い。

肩幅もある。

いかにも武辺者という感じだ。


でも。


え。


普通に、かっこいいんですけど。


無骨なのに、妙に目が優しい。

言葉は短いのに、義銀を一人前に扱ってくれる。


千若を逃がし、私を置いて行かず、あの混乱の中で全部判断した。


え。


え。


柴田勝家って、こんなにかっこいいの!?


歴史とか、史実とか、推しとか、そういう話ではない。


この人、普通にかっこいい。


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