第一話 斯波イズどこ?
斯波家、と聞いて、私が真っ先に思い浮かべたのは『司馬』だった。
うん、三國志の司馬仲達の司馬。
でも、どうも違った。
まず、斯波イズどこ? である。
歴史オタクではあったけれど、どちらかと言えば私は三國志オタクだった。
だから、斯波家と聞いても、正直ピンとこない。
尾張守護家の斯波家。
尾張守護?
なんぞそれ。
終わり守護?
守るのが終わるの?
え、殿的な意味?
そんなふうに、三歳になった私は、理解できない言葉と意味不明な記憶に悩まされていた。
あ、これ、もしかして転生?
そこまで思考がたどり着いたのは、さらに半年ほど経ってからである。
そこで、ようやく分かった。
私は、戦国時代に転生したのだと。
おい。
令和の社会人三國志オタクを、戦国に放り込むな。
いや、そこはまだいい。
よくはないけれど、もう生まれてしまったものは仕方がない。
問題は、そうなると斯波家って何よ、という話である。
だから、調べ始めた。
うん、三歳のすることではないのは理解している。
けれど、こちとら中身は社会人である。
言葉が通じるようになれば、次は文字だ。
最初に見た時は、正直こう思った。
ミミズが這っている。
いや、これ、文字?
本当に文字?
誰かが筆を持ったまま寝落ちした跡ではなく?
本来なら、そう思って諦めるところだったのだろう。
けれど、読めた。
読めてしまった。
何故なら、前世の上司が、古文書と見紛う難読文字を生み出す天才だったからである。
あの人の書くメモは、本当にひどかった。
議事録に貼られた付箋が、毎回くずし字解読講座だった。
『至急』の二文字すら、最初は呪符かと思った。
おかげで、戦国の文字を前にしても、私の脳はこう判断した。
あ、まだ読める部類だな。
複雑である。
非常に複雑である。
まさか戦国時代で、前世の上司に感謝する日が来るとは思わなかった。
ありがとう、上司。
あなたの悪筆は、時代を越えて部下を救いました。
そんなわけで、文字らしきものが読めると分かれば、情報収集するしかない。
おっと、パパン。
私が男だったら、なんて言わんといて。
兄ちゃんの視線がめっちゃ痛い。
いや、本当にやめて。
その言葉、幼い兄の心に刺さっているから。
私にどうしろと。
私だって、好きで女児に生まれたわけではない。
おーい、ママン。
私を産んだら実家に帰るって何事?
ああ、『身の危険を感じますので帰ります』。
わあお。
つまり、我が家は落ち目なのね。
情報を集めては絶望し、絶望しては米櫃を見て現実に戻る。
そんな日々を重ねているうちに、私はあっという間に数え十八歳になった。
へい、行き遅れだぜ!
令和風に言えば十七歳な私、戦国だと行き遅れ!
世知辛い!
パパンはもう鬼籍。
ブラザー、私の婚姻、まだ決まらんのかね!
というか、兄上や。
それ以上のいい縁談なんて、もう来ないって。
さっさと穀潰しの妹なんぞ嫁がせてしまえばいいものを、兄は『斯波家の家格が……』とやらを理由に、縁談を断り続けている。
斯波家の家格。
うん。
分かる。
分かるよ。
斯波家は名家だ。
足利の流れを汲む家だとか、尾張守護家だとか、織田家より本来は上だとか、そういう話はさすがにもう覚えた。
覚えたけど。
そろそろ、外へ出ないと危険な気がし始めた私ですわ!
――なんて現実逃避をしながら、私は目の前の米櫃を見た。
もう、米なんてほとんどない。
「藤乃おば様、僕も手伝うよ?」
隣から、小さな声がした。
振り返れば、まだ六歳の甥っ子が、こちらを見上げている。
幼名を千若という。
のちに義冬と名乗ることになる、私のもう一人の甥である。
いや、幼名って何。
令和人としては、名前は一生ものでは? と思わなくもない。
けれど、この時代の武家男子は、成長すると名前が変わるらしい。
何それ、ややこしい。
とりあえず、今のこの子は千若である。
「ありがとう、千若。じゃあ、手伝ってくれる?」
「うん!」
そう言って、千若には葱を抜いて来てもらうことにした。
葱、マジ便利。
こいつら、マジ増える。
本当に増える。
米は増えないのに、葱は増える。
ありがたい。
葱は裏切らない。
「あれ、義銀はどうしたか知っている?」
そう尋ねると、千若の目が一瞬で泳いだ。
「兄上は、えっと、えっと……寝ています!」
「へえ」
私は千若をじーーっと見た。
六歳の甥っ子は、困ったように笑う。
「……あの、僕と、藤乃おば様に、お魚を釣ってくるって、川に」
「……あの子、また抜け出したのね。危ないからやめなさいって言っているのに」
そう言いつつも、仕方がないとも思っていた。
食べ盛りの甥っ子、義銀は数えで十五歳。
令和風に言えば、十四歳の中学二年生である。
要するに、食事が足りないのだろう。
義銀は暇さえあれば、守護邸と呼ばれる我が屋敷を抜け出して、魚や鳥、あとはキノコを採ってきてくれる。
前には栗を大量に拾ってきてくれた。
ありがたい。
ありがたいけど、危ない。
この時代の川も山も、令和の感覚で行っていい場所ではない。
野犬もいれば、賊もいる。
そもそも、我が家の立場がすでに安全ではない。
「……僕が、お腹空いたって、言っちゃったから」
千若が、小さく呟いた。
私は慌てて首を振る。
「違う違う。千若のせいじゃない。お米がない我が家が悪いの」
そう言いながら、甥っ子というより弟のような千若の頭を撫でた。
「義銀が魚を獲ってきてくれるのを期待して、ご飯を作ろう?」
そう言うと、千若はぱっと顔を明るくした。
うわあ、癒される。
まだ六歳。
わがままを言いたい年頃だろうに、千若はわがままも言わず、私の作る少ないご飯を食べる。
いや、本気で我が家、没落寸前である。
名家?
足利の系統?
んなもんで腹が脹れねぇ!
にもかかわらず、努力もせず、どこから貰ったか分からない酒を飲む兄。
その酒代、米に変えてくれ。
なんて思ってしまうほどだ。
もちろん、兄にも兄なりの苦しみがあるのだろう。
尾張守護などという、やたら重い肩書を背負わされているのは分かる。
分かるけど。
だからといって、空の米櫃は満たされない。
幼い子の腹は膨れない。
妹の縁談もまとまらない。
名家の矜持というものは、どうにも腹持ちが悪い。
幸いにして、この六歳の甥っ子と、もう一人の十四歳の甥っ子は、どちらもまともに育っている。
二人とも、母親がいないのに泣き言も言わない。
義銀の母も、千若の母も、もうこの屋敷にはいない。
理由はそれぞれあるのだろう。
責めるつもりはない。
この家は、女が安心して子を育てられる家ではなかった。
それだけだ。
だから、残された私は二人を育てた。
教育係などもいないので、屋敷に残っている本で最低限の読み書きを教え、読めるものでなんとか兵法らしきものも教えた。
ええ、三國志様々である。
孔明先生、ありがとう。
仲達様もありがとう。
推しの知識が、まさか戦国で甥っ子教育に役立つとは思わなかった。
まあ、四歳しか離れていない義銀は、私の言葉をよく聞いてくれる、本当にいい子だ。
あの子は、父である兄のことも、斯波の名のことも、私が思っている以上によく見ている。
父が何をしていないか。
この家がどれほど危ういか。
私がどれだけ誤魔化しているか。
きっと、全部分かっている。
だからこそ、川へ行ったのだろう。
私と千若に、少しでもまともなものを食べさせるために。
「……まったく」
私は小さく息を吐いた。
いい子すぎるのも困りものだ。
本当なら、義銀は斯波家の嫡男として、もっと大事に育てられるべき子だ。
魚籠を抱えて川へ行くような暮らしをさせていい子ではない。
けれど、現実は米櫃が空で、鍋の中身は薄く、六歳の千若に葱を抜かせている。
名家とは何ぞや。
本当に、何ぞや。
「藤乃おば様、これくらいでいい?」
千若が、少し土のついた葱を抱えて戻ってきた。
「うん、上手。ありがとう」
「兄上、お魚獲れるかな?」
「獲れるといいね。義銀は器用だから、きっと何か持って帰ってくるわ」
「うん!」
千若は嬉しそうに笑った。
私はその笑顔に、少しだけ胸を締めつけられる。
この子たちには、ちゃんと食べさせたい。
ちゃんと学ばせたい。
ちゃんと生き延びてほしい。
斯波の名なんて、もうどうでもいい。
――とは言わない。
名は、きっと何かの役に立つ。
この時代、家名は札であり、盾であり、時に呪いだ。
けれど、名前より先に、この子たちの命だ。
どれほど高い家名を掲げても、子供が飢えて死ねば何の意味もない。
どれほど古い血筋を誇っても、守るべき人がいなくなれば、ただの空っぽの看板だ。
私は、米櫃の底を見ながら、それを知った。
「よし、じゃあ千若。葱を洗ってくれる?」
「うん!」
「転ばないようにね」
「大丈夫!」
「本当に?」
「本当に!」
元気よく返事をする千若に、思わず笑ってしまう。
この子は優しい。
義銀も優しい。
だから私は、まだこの家に踏みとどまれているのだと思う。
ちなみに、この日のことを後に和暦で聞かされた時、私は真顔になった。
天文二十三年、七月十二日。
……いや、和暦で言われても分からないし。
西暦で言ってくれ。
そう思ったところで、西暦に直されても、私の頭にある教科書レベルの戦国知識などたかが知れている。
本能寺が『イチゴパンツ』の一五八二年。
関ヶ原が、たしか一六〇〇年。
以上。
令和の三國志オタクに、尾張守護家滅亡寸前の年号を求めないでほしい。
けれど。
天文二十三年七月十二日。
その日付だけは、後の私は忘れられなくなる。
そう思った、その瞬間だった。
屋敷の奥の方から、騒がしい音が聞こえた。
最初は、誰かがまた酔って騒いでいるのかと思った。
けれど、違う。
それは笑い声ではなかった。
怒鳴り声。
何かが倒れる重い音。
ばたばたと走る足音。
そして、短く途切れた悲鳴。
背筋が、ぞっと冷えた。
「藤乃おば様?」
千若が不安そうに私を見上げる。
私は咄嗟に、千若の手を掴んだ。
「千若、こっちへ」
「え?」
「静かに」
自分でも驚くほど低い声が出た。
次の瞬間、廊下の向こうで誰かが叫んだ。
「火を放て!」
息が止まった。
酒の騒ぎではない。
喧嘩でもない。
これは、襲撃だ。
守護邸が、襲われている。
「藤乃おば様……?」
千若の声が震えた。
私は膝をつき、まだ小さなその身体を、強く抱き締めた。




