プロローグ
柴田のお藤の方
『我が叔母、藤乃姫について語る時、世の者はまず柴田勝家公の正室として名を挙げる。
柴田のお藤の方。
鬼柴田の手綱を握った女。
北陸の雪を富に変えた女。
織田信長公にすら物申した、戦国の強き正妻。
いずれも誤りではない。
だが、私にとっての叔母は、それよりも先に、飢えた我らに自らの膳を譲った人であった。
破れた衣をほどき、幼い義冬の小袖を縫った人であった。
斯波の名がどれほど高かろうと、米びつが空ならば子は育たぬと、誰より早く知っていた人であった。
父は、斯波の名を守ろうとした。
叔母は、斯波の人を守ろうとした。
その違いを、私はあの日まで、言葉にできなかった』
――斯波義銀晩年記『藤乃叔母上覚書』より
大層な書きぶりの甥の手記を見ながら、私は小さく溜息を吐いた。
その手記を見つけたのは、義銀の妻だった。
夫の遺したものを整理していた折に見つけたのだと、彼女は写本を私のもとへ届けてくれた。
数年前、夫が先立った。
そして、弟のようで、息子のように育てた甥が、つい先日旅立った。
もう、この時代に生まれ落ちて何十年と生きた。
私は戦国の女となり、太平を見届けた女となった。
この激動を、よく生きたと思っている。
ありがたいことに、夫も甥も、布団の上で眠るように彼岸へ旅立った。
悲しくないと言えば嘘になる。
けれど、戦国と呼ばれた時代から今の太平の世まで走り抜けた私たちは、布団の上で見送れる平和の中にいる。
それはきっと、とても幸せなことなのだろう。
「ねえ、勝家様。私のお迎えも、そろそろですかね」
ぽそりと零した言葉に、隣に控えていた息子の妻が顔を上げた。
「お義母上、そのようなことを。まだまだ孫やひ孫たちの顔を見ていただきませんと」
「ええ、そうね。あまり早いと、勝家様に怒られてしまいますわね」
「そうですよ、お義母上。もっとたくさん、お義父上にお話ができるように、長く生きていただかねば」
「ふふ、ありがとう、茶々」
久方ぶりに幼名で呼ばれた息子の妻、茶々は、少しだけ驚いた顔をした。
かつて浅井の姫と呼ばれたその人は、今ではすっかり柴田の家の女であった。
「ねえ、茶々。私がね、勝家様に助けられたのは、十八の時だったのよ」
「ええ、皆が知っておりますよ。城下の娘たちは、お義父上とお義母上の出会いは、なんとも物語のようだと話しております」
「ええ、そうね。本当に、勝家様はかっこよかったわ……いえ、死んでもなお、かっこいいわ」
私の言葉に、茶々はくすくすと笑った。
その顔は、とても幸せそうだった。
柴田勝家の正妻、藤乃。
そして、人々にお藤の方と呼ばれた私は、静かに目を閉じた。
思い出すのは、無骨ながらも優しい夫。
それは懐かしくも愛おしい、亡き夫と出会った初めの日だった。




