第十四話 親子初対面
勝家様が、洗われている。
その報告を聞いた時、私は布団の上で深く頷いた。
よし。
よしよし。
大事なことだ。
戦場帰りの夫を、息子に会わせる前に洗う。
これは必要なことである。
とても必要なことである。
泥。
血。
雨。
汗。
戦場の何か。
そして、たぶん殺気。
殺気はお湯で落ちるのか分からないけれど、気持ちの問題として落としてほしい。
少なくとも、生まれたばかりの赤子の前に、戦場帰りそのままの鬼柴田を投入するのは避けたい。
「勝家様、落ち込んでいませんか」
私が聞くと、於光様が少しだけ目を逸らした。
「……少し」
「ああああ」
やっぱり。
絶対に落ち込んでいる。
夜通し馬で走って、清洲に報告を届けて、そこから屋敷へ飛んで帰ってきたのだ。
私とこの子に会うために。
それなのに、部屋の前で止められて、まずはお風呂。
勝家様の気持ちを考えると、申し訳ない。
とても申し訳ない。
でも、譲れない。
赤子の健康、大事。
清潔、大事。
「勝家様に、嫌われないでしょうか」
「嫌われるわけがございません」
於光様が即答した。
「むしろ、藤乃姫の言うことだから従っておられます」
「本当ですか」
「ええ」
「でも、きっと、ちょっとしょんぼりしていますよね」
「……少し」
於光様。
そこは否定してほしかったです。
私は、腕の中の赤子を見た。
小さい。
本当に小さい。
生まれたばかりの我が子は、布に包まれて、すやすやと眠っている。
先ほどまで泣いていたのに、今は静かだ。
赤い顔。
小さな口。
頼りない呼吸。
柔らかそうな頬。
この中に、勝家様と私の子がいる。
いや、当たり前なのだけれど。
当たり前なのだけれど、まだ信じられない。
私のぺたんこの腹にいた命が、今は私の腕の中にいる。
もう、ぺたんこではない。
いや、産んだのでお腹は少ししぼんだ。
でも、そういう話ではない。
「……勝家様、驚くでしょうか」
「驚かれるでしょうね」
「泣くと思いますか」
「勝家は泣きませぬ」
於光様がそう言った。
少し間を置いてから、付け足す。
「たぶん」
たぶん。
つまり、可能性はあるのですね。
私は少しだけ笑った。
勝家様が泣くところなど想像できない。
でも、泣きそうな顔なら、何度か見た。
私が懐妊したと分かった時。
お腹に手を当てた時。
あの時の勝家様は、今にも泣きそうだった。
本人は絶対に認めないだろうけれど。
「藤乃姫」
於光様が私の髪を整えながら言った。
「お疲れでしょう」
「はい」
「無理をしてはなりませんよ」
「はい」
「勝家が来ても、起き上がろうとしてはなりません」
「はい」
「赤子を渡す時も、こちらが支えます」
「はい」
「勝家が固まっても、急かしてはなりません」
「それは、少し見たいです」
「藤乃姫」
「すみません」
でも、たぶん固まる。
勝家様は、赤子を前にしたら絶対に固まる。
戦場では鬼柴田。
岡部元信を討った武将。
信長様と信行様の道を支えた重臣。
でも、赤子の前ではどうなるのだろう。
父になる勝家様。
私は、それを見たかった。
その時、廊下から足音がした。
重い。
けれど、いつもの足音より少しだけ慎重だ。
私は思わず赤子を抱き寄せた。
襖の向こうで、声がする。
「藤乃」
勝家様の声だった。
少し低い。
少し掠れている。
でも、確かに勝家様の声だった。
「はい」
私の声も震えた。
「入っても、よいか」
その言い方に、胸がぎゅっとなった。
この家の主なのに。
私の夫なのに。
自分の子に会いに来たのに。
それでも、私に確認してくれる。
「はい。どうぞ」
襖が、静かに開いた。
勝家様がいた。
湯浴みを終え、清潔な衣に着替えている。
髪も整えられている。
けれど、肩や腕には新しい布が巻かれていた。
傷だ。
やっぱり怪我をしている。
「勝家様」
「かすり傷だ」
まだ何も言っていない。
私が見ただけで、先回りして言った。
「かすり傷ですか」
「うむ」
「本当に?」
「……岡部元信の槍だ」
「かすり傷ではないですね?」
勝家様が黙った。
ほら。
ほら見なさい。
やっぱりかすり傷ではない。
けれど今は、怒る体力がない。
あとで怒る。
私は心の帳面に書き込んだ。
『勝家様、かすり傷詐欺。後日確認。』
勝家様は、部屋の入口で立ち止まっていた。
その視線は、私の腕の中にある小さな包みに向いている。
動かない。
本当に動かない。
まるで、戦場で見たことのないものを前にしているようだった。
「勝家様」
呼ぶと、勝家様がようやく私を見た。
「無事か」
「はい」
「痛かったか」
「ものすごく」
勝家様の眉間に皺が寄った。
「そうか」
「でも、産めました」
私は、腕の中の赤子へ視線を落とした。
「この子です」
勝家様が、一歩近づいた。
そして止まる。
また一歩。
また止まる。
「勝家様」
「何だ」
「怖いのですか」
「……怖くはない」
嘘だ。
絶対に怖がっている。
私は小さく笑った。
「大丈夫です。噛みません」
「そういう話ではない」
「では、どういう話ですか」
勝家様は、しばらく黙った。
それから、低く言った。
「小さすぎる」
私は赤子を見た。
「赤子ですから」
「壊れぬか」
「大事にすれば壊れません」
「某の手は、大きい」
「だから、優しく抱いてください」
勝家様は、真剣な顔で赤子を見ている。
戦場で敵将を見据える時より、ずっと慎重な目だった。
於光様が、そっと座布を示す。
「勝家。まず座りなさい」
「うむ」
勝家様は、素直に座った。
背筋が伸びている。
硬い。
ものすごく硬い。
槍を構える時の方が、まだ自然かもしれない。
於光様が私の腕の中の赤子を見て、勝家様へ説明する。
「首を支えて。腕はこう。力を入れすぎないように」
「うむ」
「落としてはなりません」
「落とさぬ」
「力を入れすぎてもなりません」
「……うむ」
「勝家」
「何だ」
「息をしなさい」
勝家様が、はっとしたように息を吸った。
私は、笑いそうになった。
でも、笑うと傷つけそうなので我慢した。
於光様の手を借りながら、私は赤子をそっと勝家様へ渡した。
本当に、そっと。
慎重に。
勝家様の腕に、赤子が乗る。
その瞬間、勝家様は完全に固まった。
見事に固まった。
目だけが、赤子を見ている。
「……」
「勝家様?」
「……」
「息、していますか?」
「している」
「勝家様がです」
「……している」
本当に?
少し怪しい。
赤子が、布の中で小さく動いた。
勝家様の腕が、びくっと揺れる。
「動いた」
「生きていますから」
「そうか」
「はい」
「……生きている」
勝家様の声が、少し掠れた。
「温かい」
「はい」
「小さい」
「はい」
「軽い」
「はい」
「これが」
勝家様は、ゆっくり赤子を見る。
「某の子か」
その声に、私の胸が熱くなった。
「はい」
私は泣きそうになりながら笑った。
「勝家様と、私の子です」
勝家様は、何も言わなかった。
ただ、赤子を見ていた。
大きな腕の中に、小さな命がある。
鬼柴田と呼ばれた男が、壊れ物を抱くように、息子を抱いている。
その光景だけで、私はもう泣きそうだった。
赤子が、小さく口を開けた。
ふにゃ、と頼りない声を出す。
勝家様の目が揺れた。
「泣いた」
「少しだけですね」
「腹が減ったのか」
「たぶん、まだ大丈夫です」
「苦しいのか」
「大丈夫です」
「寒いのか」
「大丈夫です」
「藤乃」
「はい」
「何をすればよい」
その言葉が、あまりにも勝家様らしくて。
私は、とうとう笑ってしまった。
「抱いていてください」
「抱く」
「はい」
「それだけでよいのか」
「はい」
「……そうか」
勝家様は、もう一度赤子を見た。
「抱く」
まるで命令を受けた武将のように、真面目に頷いた。
本当に、この人は。
私は疲れているのに、笑ってしまう。
「勝家様」
「何だ」
「お帰りなさい」
勝家様の目が、私へ向いた。
「……戻った」
「はい」
「遅くなった」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「戻ってきてくださいました」
その言葉で、勝家様の顔が少しだけ歪んだ。
ほんの少し。
でも、私には分かった。
ああ。
この人も、怖かったのだ。
戦場で死ぬことではなく。
約束を果たせないことが。
私とこの子のもとへ戻れないことが。
勝家様は、赤子を抱いたまま、低く言った。
「約束した」
「はい」
「戻ると」
「はい」
「戻った」
「はい」
私は、涙をこらえられなかった。
ぽろりと落ちた涙を、於光様がそっと拭ってくれる。
「勝家様」
「何だ」
「この子の名前なのですが」
勝家様の腕が、わずかに強張った。
「名」
「はい」
「決めていたのか」
「候補はありました」
「聞こう」
私は少しだけ背筋を伸ばした。
本当は、もっときちんとした場で言うべきなのかもしれない。
でも、この子を最初に抱いた今、言いたかった。
「権七丸、というのはどうでしょう」
勝家様が黙った。
「……権七丸」
「はい」
「なぜ七だ」
「勝家様は権六様ですから、その御子なら権七丸かなと」
勝家様は、しばらく私を見ていた。
そして、低く言った。
「雑ではないか」
「愛です」
「愛」
「はい。愛です」
於光様が横で口元を押さえた。
笑っていますね。
絶対に笑っていますね。
勝家様は、腕の中の赤子を見る。
「権六の次で、権七か」
「はい」
「悪くはない」
「本当ですか」
「だが」
勝家様は、少しだけ言葉を探した。
珍しい。
この人がこうして言葉を探す時は、たいてい私の心臓に悪いことを言う。
「藤乃の藤を、入れたい」
私は瞬きをした。
「……私の、藤ですか」
「うむ」
「この子に?」
「お前が命を懸けて産んだ子だ」
勝家様の声は、静かだった。
「お前の名が入って、何が悪い」
胸が、ぎゅっとなった。
ずるい。
これはずるい。
出産後の涙腺に、その言葉はずるい。
「勝家様」
「何だ」
「私、また泣きます」
「泣け」
「いいんですか」
「今日は、よい」
今日は。
今日限定らしい。
私は笑いながら泣いた。
勝家様は、赤子を抱いたまま少し困った顔をしている。
その顔も、たまらなく愛おしかった。
「では」
私は涙を拭いながら言った。
「とうしちまる、というのはどうでしょう」
勝家様が、静かに繰り返した。
「とうしちまる」
「はい」
「どう書く」
「藤に、七で、藤七丸」
私は、少しだけ照れながら言った。
「藤乃の藤と、権六様の次の七で、藤七丸です」
勝家様は黙った。
腕の中の赤子を見る。
それから、低く、ゆっくりと名を呼んだ。
「藤七」
赤子が、ふにゃ、と声を出した。
私は目を丸くする。
「返事しました」
「したな」
「絶対、今しました」
「うむ」
勝家様は、赤子を見た。
その目が、少しだけ柔らかくなる。
「藤七丸」
もう一度、呼ぶ。
赤子は、今度は静かに眠っている。
勝家様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「よい名だ」
その一言で、私は胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「でも、ありがとうございます」
「うむ」
於光様が、静かに頷いた。
「藤七丸。藤乃姫と勝家、二人の名が入った、良い名ですね」
「姉上」
「何です」
「権六の七は、名ではない」
「でも、皆そう呼んでいますから」
勝家様が黙った。
たしかに。
私も時々、心の中で権六様と言っている。
口には出さないけれど。
「藤七丸」
私は、小さく名前を呼んだ。
「ようこそ、藤七丸」
勝家様の腕の中で、赤子は静かに眠っている。
この子は、桶狭間の日に生まれた。
信長様が今川義元を討った日に。
勝家様が岡部元信を討った日に。
雨が上がった朝に。
藤乃の藤と。
権六の次の七をもらって。
藤七丸。
とうしちまる。
この子の名前。
私は、勝家様の腕の中の藤七丸を見た。
「勝家様」
「何だ」
「抱いてみて、どうですか」
勝家様は、しばらく黙った。
そして、言った。
「怖い」
正直。
とても正直。
「でも」
勝家様は続ける。
「離したくない」
その言葉に、また涙が出た。
今日の私は、涙腺が壊れている。
でも仕方ない。
出産したばかりなのだ。
許されたい。
「私もです」
私は、そっと藤七丸の小さな手に触れた。
「離したくありません」
勝家様は、赤子を抱いたまま、私を見る。
「藤乃」
「はい」
「よく、産んだ」
「はい」
「よく、生きていてくれた」
「はい……」
「藤七丸も」
勝家様は、腕の中の赤子を見る。
「よく、生まれてきた」
藤七丸が、小さく息をした。
本当に、それだけ。
でも、私たちには返事のように聞こえた。
外では、雨上がりの朝の光が差し込んでいる。
桶狭間の雨は上がった。
鳴海の雨も上がった。
そして柴田の屋敷には、小さな命の朝が来ていた。
勝家様が、藤七丸を抱いている。
私は、それを見ている。
たったそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて知らなかった。
「勝家様」
「何だ」
「お父様ですね」
勝家様が固まった。
今日、何度目か分からない硬直だった。
「……父」
「はい」
「某が」
「はい。藤七丸のお父様です」
勝家様は、腕の中の赤子を見た。
そして、ひどく慎重に、けれど確かに頷いた。
「うむ」
その声は、少しだけ震えていた。
「父だ」
私は笑った。
泣きながら、笑った。
藤七丸は、勝家様の腕の中で眠っている。
何も知らずに。
自分が生まれた日に、尾張の空気が変わったことも。
父が戦場から夜通し駆けてきたことも。
母が痛い痛いと叫びながら、最後に手洗いと煮沸を叫んだことも。
自分の名が、権七丸になりかけて、藤七丸になったことも。
何も知らずに、ただ眠っている。
それでいい。
今はただ、生きていてくれればいい。
私は、藤七丸の小さな寝息を聞きながら、静かに目を閉じた。
柴田家の朝は、赤子の寝息と、父になった鬼柴田の静かな息遣いとともに始まった。




