第十三話 まずはお風呂です
岡部元信を討った。
鳴海の棘は抜けた。
雨は上がり、雲の切れ間から淡い光が差している。
勝家は、濡れた槍を手にしたまま、しばらく空を見上げていた。
雨が止んだ。
それだけのことが、やけに大きな意味を持つように思えた。
桶狭間で、信長様が今川義元を討った。
鳴海で、岡部元信を討った。
兄弟の道に刺さる横槍は折った。
戦は、終わりに向かっている。
だが、勝家の胸の奥には、まだ強く張り詰めたものがあった。
藤乃。
子は。
無事なのか。
そう思った時だった。
「勝家殿!」
泥まみれの伝令が、息を切らして駆けてきた。
柴田家の者である。
勝家の手が、無意識に槍を握り締めた。
「何だ」
声が硬くなった。
伝令は膝をつき、顔を上げた。
その顔には、笑みがあった。
「藤の方様、御無事に御出産!」
勝家の息が止まった。
「……無事か」
「はい!」
伝令の声が震える。
「男の御子にございます! 母子ともに御無事!」
男の子。
母子ともに無事。
藤乃が。
子を。
無事に。
勝家は、しばらく何も言えなかった。
雨上がりの空気の中、遠くで兵たちの声がしている。
鳴海の戦の後始末が進んでいる。
けれど、勝家の耳には、伝令の言葉だけが残っていた。
母子ともに無事。
「……そうか」
声が掠れた。
「生まれたか」
伝令が、深く頭を下げる。
「はい。よう泣く、元気な若君にございます」
若君。
その言葉が、胸の奥に沈む。
勝家の子。
藤乃の産んだ子。
四年待った子。
藤乃が泣き、自分を責め、それでもようやく宿した命。
その子が、もう生まれている。
勝家は、すぐにでも馬を走らせたかった。
今すぐ帰りたい。
藤乃に会いたい。
子を見たい。
抱けるものなら抱きたい。
だが、ここはまだ戦場だった。
勝家は顔を上げ、信行の方を見る。
信行は、少し離れたところで伝令の報告を聞いていた。
その表情が、ほんのわずかに緩む。
「権六」
「はっ」
「母子ともに無事か」
「そのようにございます」
「そうか」
信行は、静かに息を吐いた。
それから、わざとらしいほど真面目な顔になった。
「では、権六。そなたに命じる」
勝家は眉を寄せた。
「はっ」
「清洲城へ走れ」
「清洲へ、ですか」
「そうだ」
信行は扇子を閉じたまま、勝家へ向ける。
「岡部元信を討ち取ったこと。鳴海を封じたこと。兄上の道へ横槍は入れさせなかったこと。これを清洲へ伝えよ」
勝家は一瞬、言葉を失った。
清洲。
そこへ報告に走る。
それは命である。
だが、清洲へ向かえば、そのまま柴田の屋敷へ戻れる。
信行が、気を利かせたのだと分かった。
「信行様」
「何だ」
「それは」
「伝令だ」
信行は平然と言った。
「軍功の報告は早い方がよい。岡部元信を討った本人が届けるなら、これ以上確かなこともあるまい」
津々木蔵人が、横で静かに目を伏せている。
笑いをこらえているようにも見えた。
「それに」
信行は少しだけ視線を逸らした。
「藤の方をこれ以上待たせれば、後で私の胃が痛む」
勝家は、何も言えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
「礼はよい。早く行け」
「はっ」
「ただし」
信行の声が少し低くなる。
「清洲へ報告を届けるまでは、伝令だ。家へ飛び込むのは、その後だ」
勝家は、ほんのわずかに不満そうな顔をした。
信行はそれを見て、少し笑った。
「顔に出ておるぞ、権六」
「……失礼いたしました」
「よい。早く済ませろ」
「はっ」
勝家は馬へ向かった。
濡れた鎧。
泥に汚れた具足。
血の染みた袖。
岡部元信との一騎打ちの名残が、まだ身体に残っている。
傷もある。
疲れもある。
だが、今はそんなものはどうでもよかった。
藤乃が無事だ。
子が生まれた。
男の子。
勝家は馬に乗る。
手綱を握る。
そして、一気に駆け出した。
清洲へ。
報告へ。
そして、その先にある柴田の屋敷へ。
夜が更けていく。
雨上がりの道はぬかるみ、馬の脚を取る。
それでも勝家は走った。
月は雲の向こうに隠れ、風は湿っている。
鎧が重い。
傷が痛む。
馬の息が荒くなる。
それでも、走る。
清洲城へ入り、報告を済ませた。
「柴田権六勝家、岡部元信を討ち取り、鳴海を封じ申した。信行様より、兄上の道へ横槍は入れさせなかったとの御報告にございます」
留守居の者たちが驚き、慌ただしく動く。
信長様への報告として、文が改められる。
清洲の者たちは、勝家の泥と血に濡れた姿を見て、息を呑んだ。
だが、勝家にとっては、もうそれどころではなかった。
報告はした。
命は果たした。
ならば、帰る。
「失礼する」
「勝家殿、少しお休みに」
「ならぬ」
勝家は即答した。
「家に、妻子がいる」
その一言で、誰も止められなかった。
勝家は再び馬に乗った。
夜通し走った。
途中で馬を替え、また走った。
雨上がりの風が頬を打つ。
遠くの空が、少しずつ白み始める。
夜が明ける。
勝家は、手綱を握る手に力を込めた。
藤乃。
今行く。
子を見せろ。
無事な顔を見せろ。
そう思いながら、柴田の屋敷へ駆け込んだ。
門番が、勝家の姿を見て目を見開く。
「勝家様!」
「藤乃は」
「御無事にございます!」
「子は」
「御無事にございます!」
「通せ」
「はっ!」
門を抜ける。
馬から降りる。
ほとんど駆けるように奥へ向かう。
途中で女中たちが悲鳴に近い声を上げた。
「勝家様!」
「お戻りに!」
「藤の方様へお知らせを!」
足音が屋敷を揺らす。
勝家は止まらなかった。
奥へ。
藤乃のいる部屋へ。
廊下の角を曲がる。
そこに、八右衛門がいた。
なぜか、待ち構えていた。
その横には勝豊もいる。
二人とも、妙に固い顔をしていた。
「勝家殿」
「どけ」
「お待ちください」
「どけ」
「お気持ちは分かりますが」
「どけ」
八右衛門の顔色が悪くなる。
しかし、引かなかった。
勝豊も、父の横で青ざめながら踏ん張っている。
勝家は眉を寄せた。
「藤乃と子に会う」
「存じております」
「ならば」
「まずは」
八右衛門が言いかけた、その時だった。
奥の部屋から、藤乃の声が飛んだ。
「勝家様!」
勝家の顔が、わずかに動いた。
藤乃の声。
無事だ。
生きている。
声に力がある。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
「藤乃」
勝家が部屋へ向かおうとした瞬間。
藤乃の声が、さらに大きく響いた。
「まずはお風呂です!!」
勝家は止まった。
完全に止まった。
廊下にいた全員も止まった。
「……風呂?」
勝家が低く聞き返す。
部屋の中から、藤乃の必死な声が返る。
「お風呂です! 湯浴みです! 身体を洗ってください! 戦場帰りでしょう!? 泥と血と何か色々ついているでしょう!? そのまま赤子に近づいてはいけません!」
「藤乃」
「駄目です!」
即答だった。
勝家は、扉の向こうを見た。
近い。
藤乃はすぐそこにいる。
子も、きっとそこにいる。
なのに、入れない。
「少しだけ」
「駄目です!」
「顔だけ」
「駄目です!」
「見るだけ」
「駄目です!!」
勝家は沈黙した。
戦場で岡部元信と名乗り合い、一騎打ちをした時よりも、今の方が押されていた。
八右衛門が、そっと勝家の横に立つ。
「勝家殿」
「何だ」
「若君の健康のためだそうなので、お従いください」
「……」
「お藤の方様は、御出産直後にもかかわらず、へその緒を切る前に湯と手洗いと刃物の煮沸を命じられました」
勝家は少し目を見開いた。
「出産直後に?」
「はい」
八右衛門は遠い目をした。
「部屋中が従いました。あの剣幕では、誰も逆らえません」
勝豊が小さく頷く。
「母上も『藤乃姫の言う通りに』と」
「……そうか」
勝家は、扉の向こうへ視線を向けた。
藤乃らしい。
痛みに泣きながらでも、子を守るために叫ぶ。
出産直後でも、周囲を動かす。
本当に、忙しない女だ。
そして、強い。
だが。
それでも。
勝家は少しだけ肩を落とした。
夜通し走ったのだ。
清洲へ報告を届け、そのまま戻ってきた。
戦場から、清洲へ。
清洲から、屋敷へ。
馬を替え、泥を跳ね、傷もそのままに走ってきた。
一刻も早く、藤乃と子に会いたかった。
それなのに。
まずは風呂。
勝家は、少しだけ落ち込んだ。
本当に、少しだけ。
だが、八右衛門はそれを見逃さなかった。
「勝家殿」
「何だ」
「そのような顔をなさらないでください」
「しておらぬ」
「しておられます」
勝豊が恐る恐る言う。
「勝家叔父上、若君にお会いになるためです。どうか」
勝家は勝豊を見た。
勝豊はびくっとしたが、逃げなかった。
「……若君のためか」
「はい」
八右衛門が頷く。
「若君の健康のためです」
「藤乃の命か」
「はい」
「ならば、従う」
勝家がそう言った瞬間。
八右衛門と勝豊が、左右から勝家の腕をがしっと掴んだ。
「では参りましょう」
「勝家叔父上、こちらです!」
勝家は眉を寄せた。
「自分で行ける」
「逃げられては困りますので」
「逃げぬ」
「少しだけ覗こうとなさる可能性がございます」
勝家は黙った。
否定できなかった。
八右衛門が深く頷く。
「参りましょう」
「……うむ」
こうして、鬼柴田は、八右衛門と勝豊に両腕を捕まれたまま、風呂場へ連行された。
廊下の途中、女中たちが慌てて道を開ける。
誰も笑わない。
笑わないように必死だった。
というより。
笑う余裕がなかった。
戦場帰りの勝家は、全身からまだ戦の気配を放っていた。
泥。
血。
雨。
鉄。
そして、岡部元信を討ったばかりの殺気。
普段から恐ろしい鬼柴田が、今はさらに近寄りがたい。
女中たちは、道を開けながら、誰一人として目を合わせようとしなかった。
「……それほどか」
勝家が低く呟く。
八右衛門が淡々と答えた。
「はい」
「お前は近づいておる」
「慣れておりますので」
「勝豊もか」
勝豊が、引きつった笑みを浮かべた。
「私は、父上に捕まりました」
「なるほど」
風呂場へ着くと、すでに湯が用意されていた。
於光の指示だろう。
手際がよすぎる。
そして、そこには義冬がいた。
袖をたすき掛けにし、布と湯を用意している。
顔は青ざめているが、目は真剣だった。
「勝家叔父上」
「義冬」
「叔母上より、勝家叔父上を必ず綺麗にしてから若君に会わせるように、と」
「藤乃が」
「はい」
義冬は、きりっと言った。
「ですので、お身体を洗います」
勝家は少しだけ眉を寄せた。
「お前たちがか」
「はい」
勝豊も頷く。
「戦場の傷もございますし、他の者では近づけません」
八右衛門が横から補足する。
「殺気が強すぎます」
「……」
「若君にお会いになる前に、できるだけ落としていただきます」
「殺気をか」
「泥と血と殺気を」
「殺気は湯で落ちぬ」
「気持ちの問題です」
勝家は黙った。
義冬が真剣な顔で湯桶を持つ。
「勝家叔父上。どうか、大人しく」
「……うむ」
勝家は、観念した。
鎧が外される。
具足が外される。
雨と泥と血を吸った衣が解かれていく。
義冬と勝豊の手つきは、思ったより慣れていた。
戦場帰りの傷を見ること。
血を流した者の身体を拭うこと。
布を当てること。
薬を用意すること。
それらは、この時代の武家の若者にとって、遠い話ではない。
「肩、斬られています」
義冬が低く言った。
「かすり傷だ」
「かすり傷にしては深いです」
「岡部元信の槍だ。浅く済んだ」
「なおさら医師に見せます」
勝家は義冬を見た。
義冬は逃げなかった。
勝家は少しだけ息を吐く。
「藤乃に似てきたな」
「叔母上に似ているなら光栄です」
「そこは喜ぶのか」
「はい」
勝豊が、濡らした布で勝家の腕を拭きながら言う。
「若君に血の匂いを嗅がせたら、お藤の方様が本当に怒ります」
「……そうか」
「はい。とても」
「お前も藤乃に似てきたか」
「私は父上似です」
八右衛門が遠くを見た。
「そこは否定しません」
湯が肩にかかる。
泥が流れる。
血が流れる。
桶狭間から続いた雨と、鳴海の泥と、岡部元信との一騎打ちの名残が、湯の中へ落ちていく。
義冬が背を洗う。
勝豊が腕を洗う。
二人とも真剣だった。
まるで、戦場から戻った鬼を、人の世へ戻す儀式のようだった。
勝家は黙っていた。
息子に会いたい。
今すぐ会いたい。
藤乃の顔を見たい。
生まれた子の顔を見たい。
だが、藤乃が言うなら従う。
若君のためだと言うなら、従う。
「勝家叔父上」
義冬が、背中の傷を拭いながら言った。
「何だ」
「若君は、とても小さいそうです」
勝家の手が、わずかに動いた。
「見たのか」
「まだです。叔母上が、まずは奥を落ち着かせてからと」
「そうか」
「でも、泣き声は聞こえました」
義冬の声が、少しだけ柔らかくなる。
「元気な声でした」
勝家は黙った。
元気な声。
自分の子の声。
まだ聞いていない。
「……そうか」
声が、少し掠れた。
勝豊が、そっと言う。
「勝家叔父上」
「何だ」
「もう少しです。綺麗になれば、すぐに会えます」
「……うむ」
勝家は大人しく座っていた。
義冬と勝豊が、戦場帰りの身体を洗う。
傷を確かめ、泥を落とし、血を拭う。
湯気が立つ。
外では、雨上がりの朝の光が差し始めている。
桶狭間の雨は上がった。
鳴海の雨も上がった。
だが、鬼柴田はまだ、息子に会えない。
まずは風呂。
藤乃の命令は、戦場帰りの鬼より強かった。




