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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田とぺたんこの妻

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第十二話 鳴海の忠臣


雨は、まだ降っていた。


桶狭間の雨。


今川義元を討った雨。


そして今、鳴海城の門を濡らす雨でもあった。


岡部元信は、城門の前で馬上にあった。


手には槍。


背には、今川の名。


胸には、主君の首を敵地に置くわけにはいかぬという、ただ一つの思いがある。


周囲には、共に出ると決めた兵たちがいた。


数は多くない。


鳴海に残る者もいた。


兵を残すことこそ今川を残す道だと、そう言う者もいた。


岡部は、それを責めなかった。


桶狭間から退いてきた者たちは、織田を見た。


織田信長だけではない。


その周りにいる若い馬廻衆も見た。


今川義元へ届いた、無名の若武者たち。


その恐ろしさを知ってしまった者たちが、ここで兵を溶かすなと考えるのは、間違いではない。


兵を残すことも、今川への忠義だ。


岡部には、それが分かっていた。


分かっていたが。


「御屋形様の御首を、敵地に置くわけにはいかぬ」


それだけだった。


罠であろうと。


織田の策であろうと。


敵が待っていようと。


岡部元信は、その道を選ぶしかなかった。


側近の一人が、苦しげに言った。


「岡部様。今なら、まだ」


岡部は、その者を見た。


「残るか」


「……いえ」


「残ってもよい」


岡部の声は静かだった。


「兵を残すも、今川への忠義。ここで出るも、今川への忠義。どちらか一つだけが正しいとは言わぬ」


雨が、兜を叩く。


「だが、私は行く」


誰も、それ以上は止めなかった。


鳴海城の門が開く。


重い音が、雨の中に響いた。


岡部元信は、静かに馬を進めた。


その目は、桶狭間の方を見ている。


主君の首がある方を。


そして、その先で待つ織田を。


「出るぞ」


岡部の声に、兵たちが応じた。


鳴海城より、忠義の兵が出た。


同じ頃。


信行は、雨の向こうでその動きを見ていた。


「出たか」


津々木蔵人が低く答える。


「はい。岡部元信、出陣にございます」


信行は扇子を握った。


開かない。


ただ、雨に濡れた扇子の骨を指先でなぞる。


「数は」


「思ったより少のうございます」


「桶狭間の生き残りが、兵を残す方へ傾いたか」


「そのようです」


蔵人は静かに言った。


「岡部元信に従ったのは、主君の御首を捨て置けぬ者たち。精鋭ではありますが、数は限られております」


「ならば、こちらの読み通りだな」


「はい」


信行は鳴海城を見た。


城に残る者がいる。


岡部に従い出る者がいる。


今川は割れた。


義元の首を取り返したい者と、兵を残したい者に。


その割れ目を作ったのは、織田が流した噂だ。


気持ちの良い策ではない。


だが、必要な策だった。


信行は深く息を吐いた。


胃が痛い。


本当に、兄上の隣に立つというのは胃に悪い。


だが、もう逃げたいとは思わなかった。


兄上が道を切り開いた。


ならば、自分はその道に残る棘を抜く。


それが、今の自分の役目だ。


「権六」


信行は声をかけた。


勝家はすでに馬上にあった。


槍を手に、雨に濡れた鬼のような顔で、岡部の進路を見据えている。


「はっ」


「正面は任せる」


「承知」


「岡部は、死ぬ気で来る」


「存じております」


勝家の声は低い。


戦場の声だった。


「敵ながら、見事な武士にございます」


信行は頷いた。


「だからこそ、逃がせぬ」


「はっ」


蔵人が地図を広げる。


雨に濡れぬよう、兵が覆いを差し出していた。


「岡部はこの道を進むでしょう。御首の噂を流した場所へ向かうなら、こちらの谷筋を抜けるはずです」


「退路は」


「すでに兵を置いております。ただし、あまり早く塞げば罠と悟られます」


「悟っておるだろう」


信行は言った。


「岡部は罠と知って出ている」


蔵人が頷く。


「はい。ですが、罠の形までは読ませませぬ」


その言葉に、信行は少しだけ笑った。


「お前も大概だな、蔵人」


「信行様の御側におりますので」


「私のせいか」


「いいえ。信長様の御側に立つためにございます」


信行は、少しだけ嫌そうな顔をした。


本当に胃に悪い。


だが、悪くはない。


「よい。退路を閉じる合図は、岡部が権六に食いついた時だ」


「はっ」


「鳴海へ戻る道を消せ。ただし、城に残る者を無理に引きずり出すな」


「承知」


「兵を残したい者は残せ。岡部に従う者だけを刈る」


「はい」


信行は雨の中、静かに鳴海を見据えた。


「兄上の道へ、横槍は入れさせぬ」


その声は、雨に溶けた。


だが、勝家には聞こえていた。


勝家は槍を握り直す。


藤乃。


今頃、どうしている。


子は。


生まれたか。


無事か。


考え出せば、心が引き裂かれそうになる。


だが、今は戦場だ。


藤乃が言った。


信長様を守ってください。


私は、この子を守ります。


ならば、勝家は守らねばならない。


信長様の勝利を。


信行様の道を。


そして、藤乃と子が生きる明日を。


「来るぞ」


誰かが言った。


雨の向こうから、岡部元信の兵が現れた。


数は多くない。


だが、足並みは崩れていなかった。


敗軍の兵ではない。


主君の首を取り返すために出た者たちの足取りだった。


勝家は馬を進めた。


岡部も、こちらを見た。


二人の距離が縮まる。


雨音が強くなる。


周囲の声が遠のく。


岡部元信の目は、静かだった。


怒りはある。


悲しみもある。


だが、取り乱してはいない。


罠にかかった獣の目ではない。


自ら罠へ踏み入った武士の目だった。


「止まれ」


岡部が声を上げた。


今川の兵が止まる。


同じように、勝家も片手を上げた。


織田の兵が止まる。


雨の中、二人の武将だけが向かい合った。


岡部は槍を立て、深く息を吸った。


そして、名乗った。


「今川家臣、鳴海城将、岡部五郎兵衛元信!」


その声は、雨を裂いた。


「我が主、今川治部大輔義元公の御首を取り返すため、推して参る!」


勝家は、静かに槍を構えた。


胸の奥で、何かが燃える。


敵ながら。


敵ながら、見事。


ならば、自分も名乗らねばならぬ。


「織田家臣、柴田権六勝家!」


勝家の声が、雨の中へ低く響いた。


「信長様の道へ、これ以上の横槍は入れさせぬ! 藤の方と、我が子が生きる明日を守るため、ここでそなたを止める!」


岡部の目が、わずかに動いた。


「妻子のためか」


「主君のためであり、妻子のためでもある」


「欲張りな武士よ」


「否定はせぬ」


岡部は、ほんの少しだけ口元を動かした。


笑ったのかもしれない。


「ならば、互いに退けぬな」


「退けぬ」


「よかろう」


岡部が槍を下げる。


「勝負」


勝家も、槍を構え直した。


「参る」


次の瞬間、二騎が動いた。


泥が跳ねる。


雨が裂ける。


岡部の槍は鋭かった。


忠義に駆られて出た男。


だが、その槍は決して乱れていない。


重く、速く、迷いがない。


勝家はそれを受けた。


槍と槍がぶつかる。


鈍い音が、雨の中に響いた。


腕に衝撃が走る。


「見事」


勝家は低く言った。


岡部の目が動く。


「敵に褒められる筋合いはない」


「敵ながら、だ」


「ならば、そなたも見事」


岡部の槍が返る。


雨を裂き、勝家の肩口を狙う。


勝家は受けた。


受けて、押し返す。


馬が嘶く。


泥が跳ねる。


両軍の兵は、息を呑んで見ていた。


これは、ただの一騎打ちではない。


主君の首を取り返そうとする忠義。


主君の勝利を守ろうとする忠義。


その二つが、雨の中でぶつかっている。


岡部の槍が勝家の脇をかすめた。


鎧の一部が削れる。


勝家の槍が岡部の馬前を打つ。


馬が跳ねる。


岡部は落ちない。


見事な手綱さばきだった。


「やる」


勝家は呟いた。


「そなたこそ」


岡部の声にも、わずかな熱が混じる。


憎しみはなかった。


互いを武士として認めるものがあった。


だが、認めたからこそ、討たねばならぬ。


勝家は槍を握り直した。


雨が額を伝う。


血か雨かも分からぬものが、顎から落ちる。


藤乃の顔が浮かぶ。


泣きながら笑っていた顔。


行ってください、と言った顔。


私はこの子を守ります、と言った顔。


勝家様、必ず戻ってください。


その声が耳の奥で響く。


戻る。


必ず戻る。


ならば、ここで長引かせるわけにはいかない。


「岡部元信」


勝家は低く名を呼んだ。


岡部の槍が止まる。


「何だ」


「そなたの忠義、見事」


岡部の目がわずかに細まる。


「だが、某にも帰る場所がある」


雨が、二人の間を落ちる。


「妻が、子を産んでいる」


岡部の表情が、一瞬だけ変わった。


ほんのわずかに。


「ならば、なぜここにいる」


「守るためだ」


勝家は槍を構え直した。


「妻と子が生きる明日を守るため、ここにいる」


岡部は、静かに息を吐いた。


「そうか」


その声は、どこか穏やかだった。


「ならば、互いに退けぬな」


「退けぬ」


「ならば」


岡部の槍が上がる。


「決めよう」


勝家は頷いた。


次の瞬間、二人が動いた。


岡部の槍が真っ直ぐ来る。


重い。


速い。


迷いがない。


勝家は、受け流すのではなく、前へ出た。


槍と槍がぶつかる。


火花のように雨粒が散る。


岡部の刃が勝家の兜脇をかすめる。


勝家の肩に衝撃が走る。


だが、勝家は踏み込んだ。


「ぬうっ!」


裂帛の気合と共に、勝家の槍が岡部の守りを破った。


岡部が身を捻る。


致命を避ける。


だが、避けきれない。


勝家の槍が、鎧を裂いた。


岡部の身体が大きく揺れる。


それでも岡部は落ちなかった。


馬上で、なお槍を握りしめる。


その目は、まだ勝家を見ていた。


最後まで、崩れぬ武士だった。


「……柴田」


岡部の声が掠れる。


「はっ」


「義元様の御首を……粗末に扱うな」


勝家は、静かに答えた。


「伝える」


岡部の目が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「ならば……よい」


そう言って、岡部元信の身体が傾いだ。


馬上から、ゆっくりと落ちる。


泥を跳ね上げ、雨の中へ倒れた。


一瞬、誰も声を出さなかった。


雨音だけが響いていた。


やがて、織田の兵の一人が叫んだ。


「岡部元信、討ち取ったり!」


その声が、雨の中に広がる。


「柴田権六勝家、岡部元信を討ち取ったり!」


織田勢の声が上がった。


だが、勝家はすぐには槍を掲げなかった。


ただ、雨に濡れた岡部元信の亡骸を見ていた。


敵だった。


討つべき相手だった。


けれど、主君のために罠と知って出た武士だった。


勝家は静かに言った。


「丁重に扱え」


周囲の兵が顔を上げる。


「敵ながら、主君のために出た武士だ」


「はっ」


兵たちの手つきが変わる。


乱暴さが消えた。


信行は、離れた場所からその光景を見ていた。


岡部元信は討たれた。


鳴海の棘は抜けた。


兄上の道へ横から刺さる刃は、ここで折れた。


信行は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


敵ながら、忠義の武士へ頭を垂れるように。


そして、目を開く。


雨音が、少しずつ弱くなっていた。


誰かが空を見上げる。


低く垂れ込めていた雲が、わずかに割れている。


細い光が、雨の幕の向こうから差した。


桶狭間から降り続いていた雨が、ようやく細くなる。


ぽつり。


ぽつり。


やがて、雨粒が途切れた。


勝家は空を見上げた。


雲の切れ間から、淡い光が落ちていた。


岡部元信の亡骸にも。


勝家の血に濡れた槍にも。


鳴海の濡れた土にも。


等しく、光が差していた。


雨が上がった。


鳴海の戦は、終わった。



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― 新着の感想 ―
場面転換時(織田側↔今川側など)の視点切り替え部分が通常部分と同じ(空行などが無い)せいで判りにくいと感じました
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