第十一話 鳴海を封じる者たち
兄上が勝った。
その報せを受けた時、信行はしばらく声を出せなかった。
雨に濡れた伝令が、泥の中に膝をついている。
肩で息をし、顔は青ざめ、けれど目だけは異様に輝いていた。
「桶狭間にて、今川義元、討ち死に!」
その言葉が、陣中に落ちた。
一瞬、誰も動かなかった。
あまりにも大きな名だった。
今川義元。
駿河、遠江、三河を抱えた大大名。
尾張を呑むはずだった男。
その首が、落ちた。
「……兄上が」
信行は、ようやく声を出した。
喉が少し掠れていた。
「義元を、討ったか」
伝令が頭を垂れる。
「はっ! 信長様の御勝利にございます!」
陣中が沸いた。
押し殺していた息が、一気に吐き出される。
ある者は拳を握り、ある者は空を仰ぎ、ある者は膝から崩れそうになった。
勝った。
織田が勝った。
今川義元を討った。
誰もがその事実に震えていた。
だが、信行は笑わなかった。
いや、笑えなかった。
胸の奥に熱はある。
喉の奥が詰まるほどの喜びもある。
兄上が勝った。
兄上は、やはり勝った。
だが。
信行は、雨に濡れた鳴海城を見た。
そこにはまだ、今川方の城がある。
岡部元信がいる。
義元が討たれたという報せは、いずれあの城にも届く。
いや、もう届き始めているかもしれない。
その時、あの男はどう動く。
「浮かれるな」
信行は静かに言った。
声は大きくなかった。
けれど、陣中のざわめきが少しずつ収まっていく。
「義元は討たれた。兄上は勝った」
信行は扇子を開かず、手の中で握った。
「だが、戦はまだ終わっておらぬ」
その言葉に、家臣たちの顔が引き締まる。
勝家もまた、黙って鳴海城を見ていた。
泥と雨に濡れた鎧。
太い腕。
低く沈んだ目。
その目には、戦の色がある。
けれど、信行には分かった。
勝家の心の一部は、ここにはない。
柴田の屋敷。
藤乃。
産気づいた妻。
生まれようとしている子。
そこに、勝家の心は置かれている。
当然だ。
人であれば当然だ。
だが、勝家はここにいる。
信行の隣にいる。
兄上の道に横槍を入れさせぬために。
「権六」
「はっ」
「気になるか」
勝家は一瞬、目を伏せた。
それから、正直に答えた。
「……ならぬと言えば、嘘になります」
「であろうな」
信行は、わずかに苦く笑った。
「だが、まだ帰せぬ」
「承知しております」
勝家の返答は短かった。
迷いを押し殺した声だった。
信行は頷く。
「ならば、早く終わらせる」
そう言って、鳴海城へ視線を戻した。
雨が降っている。
城は沈黙している。
だが、その沈黙の内側で、何かが動いている気がした。
「兄上は義元を討った」
信行は呟いた。
「ならば私は、義元を取り戻そうとする爪を折る」
津々木蔵人が、その言葉に顔を上げた。
信行の側近である。
細身で、武辺者というよりは、文と策を扱う男だった。
かつてなら、信行の周囲にいる者たちは、兄弟の間を裂くための言葉を好んだかもしれない。
だが、今は違う。
信行が兄の隣に立つと決めた以上、その側近もまた、兄の道を支えるために知恵を使う。
たとえ、それが綺麗な策ではなくとも。
「蔵人」
「はっ」
「桶狭間から退いた今川勢の様子は」
蔵人は、すでに報告をまとめていた。
「混乱しております。ただ、全てが御首奪還へ向かう様子ではございません」
「ほう」
「一部の侍大将は、兵を残す方へ傾いているように見えます」
信行は目を細めた。
「義元の首より、兵か」
「はい」
蔵人は静かに続ける。
「桶狭間にいた者は、織田勢の動きを見ております。信長様だけではない。若い馬廻衆の働きも見たはずです」
勝家の目がわずかに動いた。
義銀。
服部小平太。
毛利新介。
信長のそばで走った若武者たち。
「織田は今日だけの勝ちで終わらぬ。そう見た者がいてもおかしくありません」
蔵人の声は冷静だった。
「ならば、ここで首を取り返すために兵を溶かすより、一人でも多く退かせるべきだと考える者が出る」
「正しいな」
信行は言った。
「はい。戦としては、正しいかと」
「だが、岡部元信は違う」
蔵人は頷いた。
「違いましょう」
その場にいた者たちの顔が重くなる。
岡部元信。
鳴海城に籠る今川方の将。
ただの凡将ではない。
義元の死を聞いた時、どう動くか。
信行は分かっていた。
あの男は、退かぬ。
「義元の首を捨て置けぬか」
「はい」
蔵人は答える。
「罠と知っても、出るでしょう」
陣中が少しざわついた。
「罠と知っても?」
「そのような」
「岡部元信ほどの男が、わざわざ」
勝家が低く言った。
「出る」
その一言で、ざわめきが止まる。
勝家の目は鳴海城に向いていた。
「主君の首が敵の手にある。しかも尾張で辱められると聞けば、岡部は出る」
「権六もそう見るか」
「はっ」
勝家は短く答えた。
「敵ながら、忠義の武士にございます」
忠義の武士。
その言葉は重かった。
信行は、しばし黙った。
岡部元信が愚かだから出るのではない。
忠義があるから出る。
主君の首を取り返すためなら、罠だと分かっていても出る。
だからこそ、恐ろしい。
だからこそ、ここで刈り取る価値がある。
信行は扇子で地面を叩いた。
「ここまで刈り取る方がよいな……皆、案はあるか?」
その問いに、しばし沈黙が落ちた。
雨音だけが陣の中を満たす。
勝った直後の軍議である。
しかも、相手は忠義の城将。
下手な策を口にすれば、己の器を問われる。
誰もすぐには口を開けない。
その沈黙を破ったのは、津々木蔵人だった。
「……今川義元の御首を、尾張で晒すと噂を流しましょう」
空気が、冷えた。
勝家の目が鋭くなる。
家臣たちが息を呑む。
蔵人は、それでも言葉を続けた。
「主君の御首。そして、義元公が帯びていた左文字。これを餌に釣り出すのです」
「蔵人」
勝家の声が低く落ちた。
「首を餌にするか」
「はい」
蔵人は怯まなかった。
「岡部元信は、義元公の御首を見捨てられませぬ。左文字もまた、義元公の威を示すもの。織田方がそれらを辱めると聞けば、出る」
信行は蔵人を見た。
静かな男だ。
だが、その策は黒い。
忠義を餌にする。
主君の首を使う。
味方ながら、気持ちのよい策ではない。
けれど、戦とはそういうものでもある。
兄上なら、笑うかもしれない。
いや、笑った後で「やるなら徹底しろ」と言うだろう。
信行は胃のあたりが重くなるのを感じた。
本当に、兄上の隣は胃に悪い。
「辱めるためではない」
信行は言った。
「討つためだ」
蔵人が頭を下げる。
「承知しております」
「義元の首を本当に晒すつもりはない」
「はい。噂だけで十分です」
「左文字は」
「信長様が手にされるべきものにございます。ですが、今は噂に使えます」
勝家は黙っていた。
不快なのだろう。
当然だ。
勝家は武人だ。
敵ながら忠義に出る者を、策で釣ることに嫌悪がないはずがない。
だが、勝家も分かっている。
ここで岡部元信を残せば、鳴海は棘となる。
兄上の勝利に影が刺さる。
信行は勝家を見た。
「権六」
「はっ」
「不服か」
勝家は、しばし黙った。
それから、低く答えた。
「気持ちのよい策ではございませぬ」
「そうだな」
「されど、必要ならば」
勝家の目が、鳴海城を射抜くように細くなる。
「某が受けまする」
信行は頷いた。
「受けるだけでは足りぬ」
勝家の視線がこちらへ向く。
信行は扇子を開いた。
雨に濡れた地面に、簡単な線を描く。
鳴海城。
出る道。
退く道。
桶狭間から流れてくる敗兵。
信長本隊の位置。
勝家の兵。
信行の本隊。
そして、津々木蔵人が置く噂の流れ。
「岡部は出る。だが、全ての今川兵がついてくるわけではない」
信行は言った。
「桶狭間帰りの者たちは、兵を残す方へ傾いている。ならば、岡部に従うのは、岡部と同じく義元の首を捨て置けぬ者たちだ」
「忠義に厚い兵」
蔵人が続ける。
「はい。精鋭でありましょう。しかし、数は限られます」
「だからこそ危うい」
勝家が言った。
「死ぬ気で来る」
「だから、戻さぬ」
信行は扇子で退路を叩いた。
「正面から受けるのは権六。逃げ道を消すのは私の兵。蔵人は噂を流し、岡部が出る時と道を読む」
「はっ」
蔵人が頭を下げる。
「鳴海から出た岡部を、こちらの選んだ場所へ入れる。出られる隙を見せ、戻れる道を塞ぐ」
「餌に食いつかせ、籠から出た瞬間に戸を閉める、か」
勝家が呟く。
信行は頷いた。
「兄上なら、義元の首を取る」
そして、少しだけ笑った。
「私は、首を取り戻しに来た者の帰り道を消す」
陣中が静まり返った。
それは、かつての信行なら口にしない言葉だった。
兄と争い、兄に怯え、兄の速さを恐れていた頃の信行なら。
だが今の信行は違う。
兄の速さを恐れるだけではない。
その速さを理解し、その後ろに道を整える。
兄上が勝つなら、勝った後の棘を抜く。
兄上が首を取るなら、その首を取り戻そうとする爪を折る。
それが、自分の役目だ。
「蔵人」
「はっ」
「噂を流せ。ただし、やりすぎるな」
「と、申しますと」
「岡部元信を愚弄するな。義元の首を辱めると言えば足りる。岡部が怒りで動けばよいが、こちらが下卑れば兵の心が離れる」
蔵人の目がわずかに動いた。
「承知いたしました」
「それから」
信行は続ける。
「岡部が出た後、鳴海に残る兵へは退く道を見せろ」
勝家が眉を寄せる。
「逃がすので?」
「全てを刈る必要はない」
信行は静かに言った。
「岡部元信を討つ。鳴海の棘を抜く。だが、兵を一人残らず討とうとすれば、こちらも削れる」
蔵人が頷いた。
「今川方の中に、すでに兵を残そうとする者がいる。そこへ退き道を見せれば、鳴海は割れます」
「そうだ」
信行は扇子を閉じた。
「岡部の忠義に従う者だけを外へ出す。兵を残したい者は鳴海に残るか、退く。その割れ目を広げる」
「信行様」
勝家が低く言った。
「随分と、兄上に似てこられましたな」
信行は一瞬、固まった。
それから、少し嫌そうな顔をした。
「それは褒めているのか」
「褒めております」
「ならば、なぜ胃が痛い」
「某には分かりかねます」
蔵人が少しだけ目を伏せた。
笑いを堪えているようにも見えた。
信行は深く息を吐いた。
「藤の方の言葉を思い出す」
勝家の目が動く。
「兄上は道を作る。私は、その道を舗装する」
信行は鳴海城を見た。
「だが、道を舗装するには、邪魔な石をどけねばならぬらしい」
「岡部元信が石でございますか」
「いや」
信行は首を横に振った。
「石などではない。あれは、刃だ」
雨の向こう、鳴海城は沈黙している。
その内側で、忠義の刃が鞘の中から抜かれようとしている。
「だからこそ、こちらも刃を出す」
信行は勝家を見た。
「権六」
「はっ」
「岡部元信が出たならば、討て」
勝家は深く頭を下げた。
「承知」
その返答は、ただの命令への返事ではなかった。
敵ながら見事な武士を討つ覚悟。
そして、早くこの戦を終わらせ、藤乃のもとへ戻る覚悟。
その両方が込められていた。
信行は、ほんの少しだけ声を柔らげた。
「終わらせるぞ」
「はっ」
「そなたを、藤の方のもとへ帰さねばならぬ」
勝家の顔がわずかに動いた。
普段なら何も表に出さぬ男が、ほんの一瞬だけ、息を詰めた。
「……ありがたき」
「礼は早い。戻ってから言え」
「はっ」
軍議は、そこから一気に動いた。
蔵人が噂の流し方を決める。
義元公の御首は、尾張で晒される。
左文字も、織田が戦利として掲げる。
岡部元信が動くなら、夜明け前か、雨が弱まる時。
出る道はここ。
戻る道はここ。
兵の配置が変えられる。
伝令が飛ぶ。
鳴海城を見張る者が増やされる。
桶狭間から流れる今川敗兵の動きを探らせる。
信行は、すべてを聞きながら、必要なところだけを決めた。
不思議と、震えはなかった。
かつて、兄と争うかもしれないと怯えた時。
信長様の速さについていけず、ただ恐ろしいと思っていた時。
あの頃の自分は、もういない。
今は、兄の速さが見える。
兄がどこへ走ったのか分かる。
そして、その後ろに何が残るかも見える。
ならば、自分はそこを整えればよい。
兄上が今川義元を討った。
ならば、自分は鳴海を封じる。
信行は扇子を握った。
「兄上」
小さく呟く。
誰にも聞こえぬほどの声だった。
「貴方の道へ、横槍は入れさせませぬ」
その頃。
鳴海城にも、噂は届いていた。
今川義元、討ち死に。
義元公の御首は、織田方の手にある。
しかも尾張で晒されるという。
左文字も、織田が誇るという。
その報せを聞いた時、岡部元信はしばらく目を閉じていた。
周囲の者たちは、誰も声をかけられない。
雨音だけが、城の中に響く。
やがて、岡部は目を開いた。
その目には、怒りがあった。
だが、それだけではなかった。
悲しみ。
悔しさ。
そして、静かな覚悟。
「罠であろうな」
低い声だった。
側近が息を呑む。
「岡部様」
「分かっておる。信長が義元様を討った直後だ。織田がこちらを誘うため、噂を流しているのだろう」
岡部は静かに言った。
「それでも」
誰もが、その先を聞きたくないと思った。
だが、岡部は言った。
「御屋形様の御首を、敵地に置くわけにはいかぬ」
雨が降っている。
桶狭間の雨が、まだ尾張を濡らしている。
岡部元信は立ち上がった。
「出る」
その一言で、鳴海城の空気が変わった。
止める者はいた。
「今は退くべきにございます!」
「桶狭間より戻った者も、兵を残せと!」
「ここで出れば、織田の思う壺にございます!」
岡部は彼らを見た。
「ならば、残る者は残れ」
声は静かだった。
「兵を残すも、今川のため。御首を取り返すも、今川のため。どちらが正しいかなど、今は言わぬ」
それでも、岡部は槍を取った。
「だが、私は行く」
誰も、それ以上止められなかった。
忠義とは、時に正しさを超えて人を動かす。
鳴海城の門が、静かに開かれようとしていた。
信行は、雨の向こうでその気配を感じていた。
「来るか」
蔵人が頷く。
「はい」
勝家が槍を取る。
その目が、鬼柴田の目に変わった。
信行は扇子を閉じた。
「よし」
雨音の中、静かに言う。
「鳴海を封じる」
その声は、震えていなかった。




