第十話 産声
痛い。
痛い。
痛い。
子供を産むのって、こんなに痛いの!?
いや、知識としては知っていた。
前世でも、出産は命懸けだと聞いたことはある。
この時代なら、なおさらだ。
医療も、衛生も、令和とは違う。
だから、妊娠が分かった時から怖かった。
ずっと怖かった。
でも。
知識と体感は、まったく別物である。
「いっ、痛い……!」
「藤乃姫、息を吐いてくださいませ」
於光様の声がする。
落ち着いている。
とても落ち着いている。
すごい。
なぜそんなに落ち着いていられるのですか。
私は全然落ち着いていません。
「無理です! 痛いです! 息を吐くって、どこにですか!?」
「口からです」
「知っています!」
「では、吐いてください」
「はい!」
何を言っているのか、自分でもよく分からない。
とにかく痛い。
お腹が痛い。
腰が痛い。
身体の中が、全部ぎゅうぎゅうと絞られているような感じがする。
これ、本当に人間が耐えられる痛みなの?
世のお母様方、すごすぎませんか?
前世でも今世でも、私はすべての母に謝りたい。
本当にすみませんでした。
母は強いとか、そういう簡単な言葉で片付けてはいけない。
母は強いのではない。
強くならざるを得ないのだ。
「うううう……!」
「藤乃姫、まだ力を入れすぎてはなりません」
「まだ!?」
まだなの!?
もう十分頑張っていると思います!
私、かなり頑張っていると思います!
「早く出てきて……!」
思わず、腹へ向かって言ってしまった。
「早く出てきてください! でも無事に! やっぱり無理はしないで! でも痛いから早く!」
「藤乃姫、御子が困ります」
於光様にたしなめられた。
そうですね。
御子も困りますね。
母が矛盾した指示を出していますね。
ごめんなさい。
でも痛いのです。
「聞いていますか、我が子よ……」
「まだ聞こえておらぬかもしれません」
「聞こえていたら、どうしましょう……初めての母の言葉が、早く出てこいと無理するなを同時に言う混乱した言葉に……」
「よく動く御子ですから、きっと分かってくださいます」
於光様、優しい。
でも、その慰めは少し雑です。
私の額には汗が浮かび、髪は乱れ、手は布を握り締めている。
産婆さんが声をかけてくれる。
女中たちが湯や布を用意してくれる。
於光様が私の手を握ってくれる。
けれど、勝家様はいない。
分かっている。
私が送り出した。
信長様を守ってください。
私はこの子を守ります。
そう言ったのは、私だ。
言った。
確かに言った。
間違っていない。
あの言葉は、間違っていない。
勝家様は行くべきだった。
信長様が動いた。
信行様が鳴海を抑えようとしている。
勝家様が必要だった。
分かっている。
分かっているけれど。
「勝家様ぁ……」
情けない声が漏れた。
於光様の手が、私の手を強く握る。
「藤乃姫」
「はい……」
「勝家は必ず戻ります」
「はい……」
「ですから、藤乃姫も必ず御子を抱くのです」
その言葉に、涙が滲んだ。
痛みのせいだけではない。
怖かった。
本当は怖かった。
勝家様が戦場で傷つくこと。
義銀が信長様のそばで危ない道へ向かうこと。
信行様が鳴海へ動くこと。
そして、私がこの子を無事に産めるか分からないこと。
全部、怖かった。
「於光様」
「はい」
「私、ちゃんと産めますか」
於光様は、迷わず言った。
「産めます」
「本当ですか」
「ええ」
「でも、私、さっきから痛いしか言っていません」
「出産中に痛いと言わずに済む者は、そう多くありません」
「そうなのですか」
「そうです」
於光様は少しだけ笑った。
「藤乃姫は、いつも通りです」
「いつも通り……?」
「ええ。大騒ぎしながら、きちんと大事なことをなさる方です」
何ですか、それ。
褒められているの?
褒められているのだろうか。
分からない。
でも、少しだけ笑いそうになった。
笑いそうになった瞬間、また痛みが来た。
「いっ……!」
「藤乃姫、息を」
「はい、吐きます! 吐きますから、痛みさん、少しだけ待ってください!」
「痛みは待ちませぬ」
産婆さんが冷静に言った。
そうですね!
痛みは待ってくれませんね!
知っています!
「うううう……!」
私は布を握り締めた。
手が震える。
身体が熱い。
汗が流れる。
呼吸が乱れる。
何度も、もう無理だと思った。
その時、ふと頭の奥で、前世の記憶が転がり落ちてきた。
あ。
そうだ。
出産。
呼吸。
ラマーズ法。
「ひっ……ひっ……ふー……?」
部屋の中が、一瞬止まった。
於光様が瞬きをする。
産婆さんも、手を止めかけた。
「藤乃姫?」
「思い出しました……!」
「何をでございますか」
「呼吸です! 前に、燃えた文書で読んだ気がします!」
また燃えた文書。
便利すぎる燃えた文書。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「ひっ、ひっ、ふー、です!」
「ひっ、ひっ、ふー?」
於光様が真顔で繰り返した。
産婆さんも、なぜか真剣に頷いた。
「それで痛みが逃げるのでございますか」
「分かりません! でも、何もしないよりはましです!」
「では、なさいませ」
「はい!」
私は必死に息を吸った。
「ひっ、ひっ、ふー……ひっ、ひっ、ふー……!」
痛い。
やっぱり痛い。
全然痛みは消えない。
けれど、何となく、ただ痛みに飲まれるよりはましだった。
呼吸に集中する。
息を吸う。
吐く。
また吸う。
吐く。
「藤乃姫、その調子です」
於光様が私の手を握ってくれる。
「ひっ、ひっ、ふー……!」
「ひっ、ひっ、ふー、でございますね」
「於光様まで!?」
「合わせた方がよろしいかと」
於光様が大真面目に言う。
女中たちまで、小声で「ひっ、ひっ、ふー」と復唱している。
何だこの空間。
いや、助かる。
とても助かる。
でも、後で思い出したら絶対恥ずかしい。
外では雨が降っている。
遠くで、戦が始まっている。
信長様が走っている。
義銀が、そのそばにいる。
勝家様が、信行様のもとへ向かっている。
この子の父が、戦っている。
そして私は、ここで戦っている。
柴田家の屋敷の中で。
布団の上で。
この子を産むために。
「藤乃姫」
産婆さんの声が変わった。
「もう少しにございます」
もう少し。
その言葉に、私は目を見開いた。
「本当ですか」
「はい」
「本当に本当ですか」
「本当にございます」
「あと百年くらいもう少しではありませんか」
「違います」
よかった。
百年ではないらしい。
でも、体感ではもう百年くらい痛い。
「力を入れてくださいませ」
その声に、私は息を吸った。
於光様が私の手を握る。
「藤乃姫」
「はい」
「もう少しです」
「はい」
「御子に会えますよ」
その言葉で、何かが胸の奥から湧き上がった。
会える。
この子に。
ずっと待っていた子に。
勝家様と私の子に。
私は歯を食いしばった。
「っ……!」
痛い。
苦しい。
身体が裂けるかと思う。
でも。
「出てきて……!」
私は、叫ぶように言った。
「出てきて! お願い、無事に……!」
何度目か分からない痛みの波。
身体中の力を使い果たすような感覚。
息が詰まり、涙が落ちる。
そして。
小さな声が、聞こえた。
最初は、か細かった。
けれど、すぐにそれは強くなった。
赤子の泣き声。
産声だった。
「……え」
私は、呆然とした。
痛みも、汗も、涙も、一瞬だけ遠のいた。
赤子の声。
この部屋に。
私の子の声がしている。
「おめでとうございます」
産婆さんの声が聞こえた。
「男の御子にございます」
男の子。
勝家様の。
私の。
男の子。
「無事……?」
声が震えた。
「無事ですか」
「ええ。よう泣いておられます」
その言葉で、涙が溢れた。
今までとは違う涙だった。
痛みの涙ではない。
恐怖の涙でもない。
安堵の涙だった。
「よかった……」
本当に。
本当に、よかった。
「藤乃姫」
於光様の声が震えていた。
見ると、於光様も泣いていた。
いつも冷静で、何でもできて、私よりずっと強い於光様が、目元を押さえている。
「よく、頑張りました」
その言葉で、私はまた泣いた。
「於光様……」
「はい」
「生まれました」
「はい」
「本当に、生まれました」
「はい」
「私、産めました」
「はい」
於光様が、私の額にそっと手を当てる。
「立派に、産みました」
赤子が産湯を使わされ、布に包まれようとしていた。
私は疲れ切っていた。
身体中の力が抜けている。
もう指一本動かしたくない。
そう思っていた。
思っていたのに。
産婆さんが、へその緒を切る支度を始めた瞬間、私はがばっと顔を上げた。
「待ってください!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
部屋の中が、また止まった。
「藤乃姫?」
於光様が目を丸くする。
私は震える手で産婆さんの方を指した。
「お願いです! 手を! 手を洗ってください!」
「手、でございますか」
「はい! 煮沸した水で! いえ、熱すぎると火傷しますから、湯を冷まして! でも一度煮た水で! それから刃物も! へその緒を切る刃物も、できれば煮た湯に通して!」
「藤乃姫、落ち着いて」
「落ち着けません!」
私は涙目で叫んだ。
「この子の命がかかっているのです! お願いですから、手を洗って! 布も清潔なものを! できるだけ綺麗なものを! 汚れた手で触らないでください!」
自分でも、必死すぎると思った。
けれど、止まらなかった。
前世の記憶が、頭の中で警鐘を鳴らしている。
菌。
感染。
産褥熱。
新生児。
へその緒。
詳しいことは分からない。
医者ではない。
でも、清潔にすることが大事なのは分かる。
この時代でどこまでできるかなんて知らない。
それでも、できることはしたい。
「お願い……」
声が震えた。
「お願いです。この子を、守りたいのです」
部屋の空気が変わった。
於光様の顔から、戸惑いが消える。
「湯を」
短く命じた。
女中たちが一斉に動く。
「一度煮た湯を冷まして。産婆殿の手を洗う水を。刃物も湯へ。布は新しいものを」
「は、はい!」
産婆さんも、最初は驚いていたが、私の剣幕に押されたのか、すぐに頷いた。
「承知いたしました。藤の方様がそこまで仰るならば」
「すみません……」
「いいえ」
産婆さんは、穏やかに言った。
「母君が御子を守ろうとなさっているのです。従いましょう」
その言葉に、また涙が出た。
本当に、今日はどれだけ泣けばいいのだろう。
でも、よかった。
皆が動いてくれている。
湯が運ばれる。
手が洗われる。
刃物が湯に通される。
清潔な布が用意される。
それを見届けて、私はようやく力を抜いた。
「よかった……」
於光様が、そっと私の肩に手を置いた。
「藤乃姫」
「はい……」
「貴女は本当に、最後まで忙しない方ですね」
「すみません……」
「褒めております」
於光様の声が、少し震えていた。
「御子は、よき母を持ちました」
私は何も言えなかった。
ただ、泣きながら頷いた。
へその緒が切られ、赤子が改めて布に包まれる。
私は疲れ切っていた。
身体中の力が抜けている。
もう指一本動かしたくない。
でも、目だけは赤子を追っていた。
早く見たい。
早く抱きたい。
でも、手が震える。
こんな小さな子を抱いて大丈夫だろうか。
壊してしまわないだろうか。
勝家様の手よりは小さいから大丈夫?
いや、比べる対象が間違っている。
「藤乃姫」
産婆さんが、布に包まれた赤子をそっと私のそばへ連れてきた。
小さい。
本当に小さい。
顔が赤い。
目はまだしっかり開いていない。
口を開けて、泣いている。
小さな手が、布の中で少し動いた。
その瞬間、胸がぎゅっとなった。
「……小さい」
思わず、そう言った。
「小さいです」
於光様が笑う。
「赤子ですから」
「本当に、人ですか」
「人です」
「こんなに小さいのに」
「生まれたばかりですから」
私はそっと手を伸ばした。
赤子の頬に触れる。
柔らかい。
温かい。
生きている。
私の腹の中にいた命が、今、ここにいる。
「ようこそ」
声が震えた。
「ようこそ、私たちのところへ」
赤子が、泣いた。
まるで返事をするように。
私は笑った。
泣きながら笑った。
「元気ね」
於光様が言う。
「勝家に似たのでしょうか」
「それは……泣き声が大きいところですか?」
「強いところです」
「なるほど」
勝家様に聞かれたら、少し困った顔をしそうだ。
早く見せたい。
勝家様に。
この子を。
「勝家様に、見せたいです」
「ええ」
於光様が頷いた。
「きっと、すぐに戻られます」
すぐに。
その言葉で、戦のことを思い出した。
信長様。
信行様。
勝家様。
義銀。
皆、どうしているだろう。
外の雨音が強く聞こえる。
赤子の泣き声と、雨音が重なった。
その時だった。
屋敷の外が騒がしくなった。
足音。
声。
誰かが走ってくる。
私は思わず身体を起こそうとした。
「藤乃姫、動いてはなりません」
於光様に止められた。
そうでした。
もう動けません。
というか、動いたら怒られるやつです。
でも、気になる。
とても気になる。
「何でしょう」
「私が見てまいります」
於光様が立とうとした時、部屋の外で八右衛門殿の声がした。
いつもより高い。
いや、上ずっている。
「於光!」
「八右衛門殿、声が大きいです」
於光様がぴしゃりと言う。
それでも、八右衛門殿の気配は抑えきれていなかった。
「申し訳ない。だが、急ぎの報せが」
報せ。
心臓が跳ねた。
悪い報せか。
良い報せか。
戦場からの報せは、いつだって人の心臓に悪い。
於光様が扉の方へ向かう。
私は赤子を見た。
小さな命が、布の中で動いている。
お願い。
どうか。
どうか、悪い報せでありませんように。
扉の向こうで、八右衛門殿が息を整える音がした。
それから、声が響いた。
「桶狭間にて、今川義元、討ち死に!」
部屋の中が、静まり返った。
一瞬、意味が分からなかった。
今川義元。
討ち死に。
「……勝った、の?」
私の声は掠れていた。
八右衛門殿の声が続く。
「信長様の御勝利にございます!」
勝った。
信長様が。
今川義元を。
勝った。
涙が、また溢れた。
今日は、どれだけ泣けばいいのだろう。
でも、止まらない。
「義銀は」
私はすぐに聞いた。
「義銀は無事ですか」
八右衛門殿が一瞬黙る。
心臓が冷える。
だが、すぐに答えが来た。
「斯波義銀様、御無事とのこと。負傷はあるようですが、命に別状なしと!」
「怪我……!」
思わず声が大きくなる。
赤子がびくっとしたように泣いた。
ごめん。
母が大声を出しました。
でも怪我って何ですか。
義銀。
あなた、帰ってきたら正座です。
いや、怪我をしているなら正座は駄目か。
布団です。
布団に縛りつけます。
「服部小平太様、毛利新介様も御無事にございます。いずれも負傷はあれど、生きておられると」
小平太殿。
新介殿。
三人とも。
生きている。
私は大きく息を吐いた。
「よかった……」
本当に、よかった。
けれど、勝家様の名がまだ出ていない。
私は唇を噛んだ。
「勝家様は」
八右衛門殿の声が、少しだけ落ち着いた。
「勝家殿は、信行様と共に鳴海を抑えておられます。まだ戻られてはおりませぬ」
まだ。
まだ戻っていない。
戦は終わっていない。
そうだ。
信長様が勝っても、すべてが終わったわけではない。
勝家様は鳴海にいる。
信行様と共に。
「……そう」
私は赤子を抱き寄せた。
身体は疲れ切っている。
でも、胸の奥には、不思議な熱があった。
信長様が勝った。
義銀たちは生きている。
この子は生まれた。
勝家様は、まだ戦っている。
ならば、私は待つ。
この子を抱いて。
勝家様が戻るまで。
「藤乃姫」
於光様が私を見る。
「今はお休みください」
「眠れません」
「眠れずとも、目を閉じてください」
「でも」
「勝家が戻った時、倒れていたら叱られますよ」
それは困る。
とても困る。
勝家様の叱り顔が浮かぶ。
「……目は閉じます」
「はい」
私は赤子をそっと見た。
小さな顔。
赤い頬。
まだ頼りない呼吸。
この子が生まれた。
同じ日に、桶狭間で信長様が勝った。
雨の音が、部屋の外で続いている。
戦場にも、同じ雨が降っているのだろうか。
その雨の中で、義銀はきっと泥まみれになっている。
小平太殿と新介殿も、きっと怪我をしている。
信長様は、きっと笑っている。
信行様は、きっと胃を痛めている。
勝家様は、きっと鳴海を睨んでいる。
私は、赤子の小さな手に指を添えた。
「聞こえますか」
小さく囁く。
「あなたが生まれた日に、信長様は今川義元を討ったそうです」
赤子は当然、答えない。
ただ、小さく息をしている。
「お父様は、まだ戦っています」
私は、涙を拭った。
「だから、一緒に待ちましょうね」
赤子の手が、ほんの少し動いた。
私の指に触れる。
それだけで、胸がいっぱいになった。
外では雨が降っている。
遠くで、時代が変わっている。
この部屋では、小さな命が息をしている。
桶狭間で、今川義元が討たれた。
柴田の屋敷で、私の子が生まれた。
同じ雨の日に。
ひとつは、織田の新しい時代の産声。
もうひとつは、柴田家の小さな嫡男の産声。
私はその小さな温もりを抱きながら、静かに目を閉じた。
勝家様。
どうか、無事に戻ってきてください。
この子を、抱いてください。
あなたが守った明日に、この子は生まれました。




