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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田とぺたんこの妻

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第九話 桶狭間、義元討ち


雨が降っていた。


細く、けれど途切れぬ雨だった。


空は低く、草は伏せ、土はぬかるんでいる。


今川方の侍大将は、雨に濡れた陣の中で眉を寄せた。


織田が来た。


その報せを受けた時、最初に覚えたのは驚きではなかった。


苛立ちだった。


織田など、尾張の小勢。


今川の大軍を前にすれば、城へ籠もるか、逃げるか、降るか。


取れる道など、その程度だと思っていた。


それが、この雨の中を来た。


しかも、こちらが想定していた道ではない。


誰も来ぬと思っていた方角から。


誰も下れぬと思っていた場所から。


「織田勢、間近に!」


「本陣へ向かっております!」


「馬廻らしき若武者どもが先頭に!」


怒号が飛び交う。


侍大将は舌打ちした。


奇襲か。


なるほど、織田信長らしい。


だが、所詮は小勢。


勢いだけで大軍の腹へ飛び込んだところで、押し潰せばよい。


こちらには数がある。


兵がいる。


義元様を守る厚みがある。


「慌てるな!」


侍大将は声を張った。


「織田は少数ぞ! 押し返せ! 義元様の御前へ寄せるな!」


兵たちが動く。


いや、動こうとした。


だが。


「何故、寄れぬ……!」


侍大将は歯を噛んだ。


義元様の周りへ兵を寄せようとしている。


本陣の守りを厚くしようとしている。


だが、思うように動けない。


雨。


泥。


荷。


人。


大軍ゆえの重さ。


それらが、足を鈍らせていた。


そこへ、織田の若武者たちが斬り込んでくる。


名も知らぬ若武者が、三人いた。


一人は、槍だった。


荒々しく、真っ直ぐで、前へ出ることを恐れない。


槍を振るい、馬を走らせ、目の前の兵を力でこじ開ける。


若い。


勢いがある。


恐れを知らぬ。


一度走り出したら止まらぬ類の武者だ。


一人は、刃だった。


派手さはない。


声も大きくない。


だが、崩れたところへ必ず入る。


隙を見逃さない。


余計な動きがない。


あれは、刃だ。


一度懐へ入られれば、確実に命を取る。


そして、もう一人。


侍大将は、そちらを見て息を呑んだ。


泥を浴び、頬に血を流しながら、それでも馬上で周囲を見ている若武者。


荒々しく突っ込むわけではない。


ひたすら斬り続けるわけでもない。


だが、戦場の流れを見ている。


一人は、目だった。


こちらの兵が義元様のもとへ寄ろうとすれば、その前に織田兵をぶつける。


右から回ろうとすれば、先に道を塞がれる。


押し返そうと厚みを作れば、あの荒い槍の若武者がそこへ叩き込まれる。


崩れた場所へは、静かな刃の若武者が差し込まれる。


偶然ではない。


あの若武者が見ている。


あの若武者が、織田勢の刃先を義元様へ向けている。


「斯波……?」


侍大将は、その若武者の具足にある印を見て、息を呑んだ。


斯波。


落ちた守護の名。


尾張で力を失ったはずの名。


だが、そこにいる若武者は、ただの名ばかりの若君ではなかった。


あれは、戦場を読む目だ。


「右を塞げ!」


若武者の声が、雨の中を走る。


「そこは詰まる! 左を開けろ! 小平太、前を割れ!」


「承知!」


荒い槍の若武者が、笑って突っ込む。


兵の列が揺れる。


「新介、そこだ!」


静かな刃の若武者が、迷わず入る。


また一つ、こちらの守りが削られる。


侍大将の背筋に、冷たいものが走った。


違う。


これはただの若造の突撃ではない。


織田勢は、少数だ。


少数であるからこそ、あの若武者の目が全体へ届いている。


あの若武者が道を見ている。


槍が道を開き、刃が喰い込み、目がその二つを義元様へ向けている。


「あれを止めねばならぬ」


侍大将は、低く呟いた。


あの荒い槍を止めるだけでは足りない。


あの静かな刃を止めるだけでも足りない。


あの二つを動かしている目を潰さねば、義元様のもとへ兵が寄れぬ。


「あの若武者を射殺せ!」


侍大将は叫んだ。


「斯波の印をつけた若造だ! あれが織田の目ぞ! あやつを射よ!」


弓兵が反応した。


雨に濡れた弦を引く。


矢尻が、馬上の斯波の若武者へ向く。


その瞬間だった。


「新介!」


荒い声が、戦場を裂いた。


槍の若武者だった。


その若武者は、義元様へ向かう道を見ていたはずだ。


目の前には、今川の守りを破る隙があった。


一番槍をつけるなら、今しかない。


だが、その目は矢筋を捉えた。


斯波の若武者へ向けられた矢。


それを見た瞬間、槍の若武者は馬首をずらした。


斯波の若武者の前へ。


「大将は任せた!」


槍の若武者の声が飛ぶ。


「俺は、我らの頭脳を奪わせん!」


斯波の若武者が振り返った。


「小平太!」


小平太。


あの荒い槍は、そう呼ばれているのか。


侍大将は、無意識にその名を胸に刻んだ。


「お前は道を見ろ!」


小平太は叫んだ。


「俺と新介が届く道を、お前が見ろ!」


矢が飛んだ。


小平太は槍を振るう。


一本を弾く。


もう一本が肩口を掠める。


血が散る。


それでも、小平太は笑っていた。


「この程度で、止まるか!」


侍大将は目を見開いた。


馬鹿な。


義元様へ届く道があるというのに。


名を上げる機があるというのに。


あの槍の若武者は、そちらではなく、頭を守った。


三人。


三人で動いているのか。


「新介!」


斯波の若武者の声が飛ぶ。


「左奥! 守りが薄い!」


「承知」


静かな刃の若武者が動いた。


新介。


あの静かな刃は、そう呼ばれているのか。


小平太が守った。


斯波の若武者が道を見た。


ならば、自分は仕留める。


そう言うように、新介は雨の中を滑るように進む。


「止めろ!」


侍大将は叫んだ。


「あの刃を止めろ!」


今川兵が寄ろうとする。


だが、寄れない。


斯波の若武者が先に道を切っている。


「そこを塞げ!」


織田兵が入る。


「小平太、右を払え!」


「おう!」


小平太が、斯波の若武者を守りながら槍を振るう。


荒い。


だが、強い。


ただ突っ込むだけの槍ではない。


今は、斯波の若武者へ向かう刃と矢を払う槍になっている。


そして、その小平太が作った隙を、新介が進む。


「義元様へ寄れ!」


「道を開け!」


「織田を押し返せ!」


声は飛ぶ。


だが、遅い。


すべてが一歩遅い。


斯波の若武者の指示は、こちらの動きより先に置かれる。


小平太の槍は、こちらの力を横へ流す。


新介の刃は、開いた隙から奥へ入る。


侍大将は、初めて恐怖を覚えた。


織田は小勢だ。


だが、この小勢はただの刃ではない。


鋭すぎる。


薄いはずの刃が、こちらの厚みの隙間を見つけ、そこへ入り込んでくる。


「義元様!」


叫びが上がる。


侍大将は振り返った。


雨に煙る本陣の奥。


豪奢な装い。


周囲を囲む兵。


その中に、今川義元の姿があった。


義元様は、まだ崩れていない。


大大名としての威は失われていない。


だが、織田の刃は届こうとしている。


小平太が、もう一度馬を蹴った。


肩から血を流しながら。


斯波の若武者の前を守りながら。


それでも、義元へ向かう一瞬を逃さなかった。


「服部小平太!」


名乗りの声が、雨を裂く。


「今川義元へ、槍をつける!」


服部小平太。


あの槍は、そういう名か。


その名を聞いた瞬間には、もう遅かった。


槍が伸びた。


小平太の槍が、義元様へ届く。


一番槍。


その穂先が、今川義元の守りを破った。


だが、義元様もただ討たれる男ではない。


反撃の刃が走る。


「ぐっ!」


小平太の膝が斬られた。


馬上で身体が揺れる。


「小平太!」


斯波の若武者が叫ぶ。


だが小平太は、倒れながらも笑った。


「届いたぞ、義銀!」


義銀。


あの斯波の若武者は、そう呼ばれているのか。


侍大将は、その名を聞いた。


けれど、それを確かめる暇はなかった。


小平太の声は、勝ち誇る声ではなかった。


道を作った者へ、届いたと告げる声だった。


侍大将は歯を食いしばった。


止めねばならぬ。


今ならまだ。


小平太は膝をやられた。


斯波の若武者は指揮を取っている。


新介はまだ届ききっていない。


今なら。


「義元様をお守りせよ!」


侍大将は叫ぶ。


兵が動く。


だが、斯波の若武者の声がそれより早かった。


「新介!」


短い声。


それだけだった。


だが、新介は迷わなかった。


小平太が作った隙。


斯波の若武者が示した道。


その先へ、新介が入る。


雨の中、泥の中、怒号の中で、ただ一人、音を消して進むように見えた。


義元様が振り返る。


刃が交わる。


一瞬、二人の姿が重なった。


義元様の手が、新介に食らいつく。


新介の顔がわずかに歪む。


指を噛まれたのだと、侍大将は後で知ることになる。


だが、その時の新介は止まらなかった。


食い込まれた痛みをものともせず、刃を押し込む。


雨音が遠のいた。


泥の匂いも。


血の熱も。


怒号も。


すべてが、一瞬だけ遠くなる。


新介の低い声だけが、はっきりと響いた。


「毛利新介」


静かな名乗りだった。


「今川義元、討ち取ったり」


毛利新介。


その名を、侍大将は聞いた。


聞いてしまった。


その言葉が、雨の中に落ちた。


一瞬、戦場が止まった気がした。


侍大将は、息を止めた。


討たれた。


今川義元が。


駿河、遠江、三河を抱えた大大名が。


織田の小勢に。


あの三人の若武者に。


「義元様……!」


誰かが叫んだ。


その叫びは、織田勢の鬨の声に呑み込まれた。


「今川義元、討ち取ったり!」


「織田の勝ちぞ!」


「義元は落ちた!」


雨の中、織田勢の声が爆ぜる。


その中心で、三人の若武者がいた。


名も知らぬ若造三人。


そう思っていた。


だが、もう名を知らぬとは言えなかった。


一人は、戦場の道を読んだ斯波の若武者。


義銀、と呼ばれていた。


一人は、義元へ最初の槍を届かせ、頭脳を守るため矢筋へ飛び込んだ若武者。


服部小平太。


一人は、義元の首を取った静かな刃。


毛利新介。


侍大将は、その三人を見た。


あれは、ただの若造ではない。


織田信長のそばには、あのような若者がいるのか。


そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。


今川は、義元を失った。


だが、織田は今、この雨の中で何かを得た。


この先の尾張を走る、若い刃を。


「押せ!」


信長の声が響いた。


侍大将は、その声の方を見た。


織田信長。


雨に濡れ、泥に汚れ、それでも恐ろしいほど鮮やかに笑っている。


大軍を喰らった男の笑みだった。


「義元は落ちた! 浮かれるな! 崩せ! 追え! 逃がすべきを見極め、討つべきを討て!」


その声に、織田勢が再び動く。


勝った後の兵は浮く。


普通ならば、そこで乱れる。


だが、信長の声が、それを許さなかった。


今川は大きく揺らいだ。


大将が討たれた。


旗が乱れる。


声が割れる。


誰が退くべきか、誰が守るべきか、分からなくなる。


侍大将は槍を握った。


義元様は討たれた。


ならば、もはや本陣は持たぬ。


退くか。


踏みとどまるか。


一瞬の迷い。


その間にも、織田勢は押してくる。


先ほどの三人もまだ戦場にいた。


小平太は膝を押さえながら笑っている。


新介は血のにじむ手を押さえながらも、いつもの静かな顔を保っている。


斯波の若武者は頬から血を流しながら、まだ周囲を見ていた。


まだ見るのか。


まだ、戦場を読むのか。


侍大将は唇を噛んだ。


義元様が落ちても、あの若武者は止まらない。


勝ったと浮かれるのではなく、次にどこが崩れるかを見ている。


あれは、厄介だ。


あの若者が生きている限り、織田の刃は鈍らない。


侍大将は、もう一度だけ雨の向こうを見た。


織田の若武者三人がいた。


名も知らぬ若造三人。


そう思っていた者たちが、今川義元へ届いた。


槍がこじ開けた。


刃が首を取った。


そして、目が二つを大将へ届かせた。


あれは、今日だけの刃ではない。


織田信長の後ろには、すでに次の世代がいる。


侍大将は、唇を噛んだ。


義元様の御首を取り返したい。


その思いは、胸を焼くほどにあった。


あの雨の中へ戻り、織田の若造どもを斬り捨てたい。


だが、できぬ。


あれは、今ここで感情のままに挑んでよい相手ではない。


ここで兵を溶かせば、今川は終わる。


御首を取り返すより、今は兵を残す。


今川を残す。


侍大将は、血を吐くように命じた。


「……退け」


近くの兵が、信じられぬものを見る顔をした。


「しかし、義元様の御首が!」


「分かっておる!」


侍大将は叫んだ。


声が震えた。


悔しさで。


怒りで。


それでも、命じた。


「一人でも多く退かせろ! ここで死ぬな! 今川を残せ!」


兵たちが揺れる。


泣きそうな顔をする者もいた。


歯を食いしばる者もいた。


それでも、退き始める。


雨の中、今川の兵が崩れながら下がっていく。


その退き際、侍大将は思った。


岡部元信ならば、退かぬだろう。


あの男ならば、義元様の御首を敵地に置くことを良しとはすまい。


だが。


侍大将は、織田の若武者たちを見た。


あの三人を見た後では、分かってしまう。


忠義だけで踏み込めば、織田はそれすら刈り取る。


岡部元信は、忠義の武士だ。


だからこそ、危うい。


あの雨の中で、侍大将は痛感した。


織田は、信長一人ではない。


信長が道を開けば、その道を走る若い者たちがいる。


槍がいる。


刃がいる。


目がいる。


次の刃も、すでに雨の中で育っている。


桶狭間の雨は、今川義元を奪った。


そして同時に、今川の者たちへ知らしめた。


織田は、今日だけの勝ちで終わらぬのだと。


侍大将は、最後にもう一度だけ振り返った。


桶狭間の雨の中。


今川義元は討たれた。


そして、尾張の空気が変わった。


誰もが恐れた大軍の中心が落ちた。


織田信長の道が、開いた。


それは、今川にとって敗北の雨だった。


だが、織田にとっては。


おそらく、新しい朝を呼ぶ雨だった。


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