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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田とぺたんこの妻

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第八話 織田家馬廻衆、斯波義銀

雨の匂いがした。


土は湿り、草は濡れ、空気は重い。


遠くには、今川の大軍がいる。


その圧は、姿を見ずとも伝わってきた。


兵の数が違う。


勢いが違う。


抱える国の大きさが違う。


まともにぶつかれば、こちらが押し潰される。


だからこそ――信長様は、まともにぶつかる気など最初からないのだと、義銀には分かっていた。


雨に濡れた斜面を前にして、義銀は愛馬の首を撫でた。


酒席の地図で見た地形。


信長様が何も言わずに見ていた場所。


自分がふと口にした、義経公の逸話。


あれは、ただの昔話ではなかった。


誰も来ると思わぬところから来る。


誰も下れぬと思うところを下る。


それは、信長様の戦そのものだった。


「義銀」


低い声に、義銀は顔を上げた。


信長様がそこにいた。


雨混じりの風を受けながら、口元には笑みがある。


だがその目は、獲物を逃がさぬ獣の目だった。


「はっ」


「お前の言う『義経公の道』とやらは、これか」


義銀は斜面を見た。


崖、と呼ぶには少し緩い。


だが、道ではない。


ぬかるんだ土。


雨で伏せた草。


ところどころに露出した石。


馬で下るなど、正気の沙汰ではない。


人ですら足を取られるだろう。


まして馬で駆け下りれば、一歩誤れば転がり落ちる。


それでも、義銀は答えた。


「似ております」


「下れるか」


義銀は喉がひりつくのを感じた。


下れる。


そう言って、本当に下れなければ終わりだ。


自分一人の命だけでは済まぬ。


信長様の進軍を鈍らせ、戦機そのものを失うかもしれない。


けれど、ここで黙ることはもっとできなかった。


「……確かめねば、分かりませぬ」


その瞬間、周囲がざわついた。


「殿、お待ちくだされ!」


「ここを馬で下るなど、危のうございます!」


「せめて道を探らせてから――」


「大将自ら下る場所ではございませぬ!」


古参の家臣たちの声はもっともだった。


義銀もそう思う。


これは危うい。


いや、危ういどころか、正気ではない。


だが、信長様は面白くなさそうに笑った。


「では、誰が先に行く」


その一言で、場が止まる。


誰もすぐには答えられなかった。


当然だ。


無謀である。


ここで一歩目を踏み出すのは、ただの勇気ではない。


命を賭ける覚悟だ。


義銀は息を吸った。


藤乃叔母上の顔が脳裏をよぎる。


大きくなった腹を撫でて、少し不安そうに、それでも幸せそうに笑っていた叔母上。


きっと今頃は、柴田の屋敷で苦しんでいる。


勝家叔父上は鳴海へ走った。


信行様と共に、信長様の道へ横槍を入れさせぬために。


それぞれが、それぞれの場所で戦っている。


ならば、自分も。


義銀は一歩前へ出た。


「信長様」


「何だ、義銀」


「義経公の逸話を申し上げたのは、私にございます」


周囲の視線が一斉に集まる。


義銀は愛馬の手綱を握り直し、はっきりと言った。


「私が、先に下ります」


ざわり、と場が揺れた。


「斯波殿!」


「若君、なりませぬ!」


「守護家の若君が、そのような危うき真似を――」


その言葉に、義銀は振り返った。


若君。


その呼び名を、義銀はずっと背負ってきた。


斯波の嫡男。


名家の若君。


落ちぶれてなお残る、名前だけの重み。


けれど、もう違う。


魚籠を抱え、燃える屋敷を前にして泣きながら助けを求めた少年は、もういない。


父は救えなかった。


叔母と弟を助けてくださいと、頭を下げることしかできなかった。


だが、今は違う。


藤乃叔母上が育ててくれた。


勝家叔父上が槍を教えてくれた。


信長様が、そばに置いてくださった。


義銀は、強く言い切った。


「もう若君ではございませぬ」


雨音の中、その声は驚くほどよく通った。


「織田家馬廻衆、斯波義銀にございます!」


場が、静まり返る。


義銀は続けた。


「口にした策の危うさを、他人にだけ負わせるわけには参りませぬ。下れぬならば、私一人の無謀。下れるならば、信長様の道になります」


信長様の口元が、つり上がった。


「よい」


その声は、ひどく楽しげだった。


「行け、義銀」


「はっ!」


義銀は鐙を踏み込み、馬首を斜面へ向けた。


愛馬が一瞬、鼻を鳴らす。


足元の危うさを感じているのだろう。


義銀は、首筋を軽く叩いた。


「行くぞ」


次の瞬間、義銀の馬が躍り出た。


土が崩れる。


草が裂ける。


石が跳ねる。


誰かが息を呑む音がした。


馬の前脚が大きく沈み、後ろ脚が滑る。


身体が傾く。


落ちる、と思った。


だが義銀は、身を低く沈め、膝で馬体を締め、手綱を引いた。


「そのまま行け!」


愛馬が嘶く。


斜面を削るように、馬が駆け下りていく。


怖い。


恐ろしい。


胃が浮き、視界が揺れる。


けれど、止まれない。


ここで止まれば、馬ごと転ぶ。


下るしかない。


義銀は歯を食いしばった。


土が跳ね、泥が顔に飛ぶ。


雨で濡れた草が脚に絡む。


だが、愛馬は走った。


中腹まで来たところで、義銀は一瞬だけ上を見た。


まだ高い。


だが、行ける。


その時、崖上からどよめきが起こった。


「……中腹まで行ったぞ」


「馬が持ちこたえている」


「落ちておらぬ……!」


義銀の耳にも、そのざわめきは届いた。


そして、それに混じって、聞き慣れた声が響いた。


「小平太」


新介の声だった。


「見たか」


「ああ」


服部小平太の声が返る。


「義銀の見立てを信じるぞ!」


義銀は思わず目を見開いた。


崖上で、小平太が馬首をこちらへ向けていた。


その隣で、新介も静かに手綱を握り直している。


古参の家臣が慌てて叫んだ。


「待て、小平太!」


「新介、お前たちまで!」


「若造ども、戻れ!」


だが、小平太は笑っていた。


「戻りませぬ!」


新介が淡々と言う。


「義銀が中腹まで下った。馬も潰れておりませぬ。ならば、道はあります」


「まだ下り切っておらぬぞ!」


「下り切るのを待っていたら、義銀だけが格好をつけます」


小平太が槍を掲げた。


「そんなもの、許せるか!」


若い馬廻衆たちがどっと笑った。


緊張と恐怖を、笑いで蹴り飛ばすような声だった。


「義銀が地形を見て言ったんだ!」


「外したことがあったか!」


「ない!」


「なら、道はある!」


小平太が叫ぶ。


「織田家馬廻衆、斯波義銀だけに道を開かせるな!」


新介もまた、静かに馬首を斜面へ向けた。


「斯波の頭と小平太の槍が揃うなら、道がないわけがない」


「おい、新介。俺は槍だけか」


「他に何がある」


「顔」


「戦場で役に立たぬ」


「言ったな」


「言った」


その軽口を最後に、小平太の馬が斜面へ躍り出た。


続いて、新介。


さらに若い馬廻衆たちが、次々と続いた。


義銀は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


自分を信じてくれている。


守護家の若君としてではない。


名家の飾りとしてでもない。


同じ馬廻衆の仲間として。


信長様の道を共に切り開く若武者として。


「……来たのか、馬鹿ども!」


思わず漏れた言葉に、小平太の笑い声が返ってきた。


「お前の見立てだろうが!」


新介の声も続く。


「外したら全員で落ちるぞ、義銀!」


「なら、落ちぬ道を開く!」


義銀は笑った。


こんな状況で笑うなど、自分でもどうかしていると思う。


けれど、笑わずにはいられなかった。


馬廻衆の若武者たちが続く。


一人、二人、三人。


義銀が最初に刻んだ線を、小平太が力で広げ、新介が目で繋ぎ、若者たちが道に変えていく。


崖上の空気が、変わった。


「若い馬廻どもが……」


「本当に下っておる」


「道に、なりつつあるぞ……!」


信長様だけが、面白そうに笑っていた。


「見たか」


その声が、雨音を切り裂く。


「若い馬廻どもが、義銀の目を信じたぞ」


義銀は、中腹から最後の斜面へ馬を走らせた。


一気に視界が開ける。


土が固くなる。


足場が少しだけ安定する。


そしてついに、崖下へ辿り着いた。


馬が大きく首を振り、荒く息をつく。


義銀もまた、息を荒げながら振り返った。


槍を掲げる。


「下れます!」


その声が、下から崖上へ突き刺さる。


「この道、馬で下れます!」


すぐ後ろで、小平太の馬が泥を跳ね上げて止まった。


「はっ、言った通りだな!」


「言った通りにするために必死だった」


義銀が返すと、小平太は楽しそうに笑った。


少し遅れて、新介も崖下へ降り立つ。


顔には泥が飛んでいたが、目は冷静だった。


「道は使えます。ただし、小平太の通ったところは土が抉れました。後続は間を詰めすぎぬ方がよい」


「俺のせいか?」


「馬鹿力で馬を走らせるからだ」


「褒めているのか」


「半分は」


義銀は思わず笑った。


この二人がいると、恐怖が少しだけ遠のく。


若武者たちも次々と崖下へ降り立った。


泥まみれだ。


息も上がっている。


けれど、誰一人として怯んではいなかった。


その姿を見て、信長様が高らかに笑った。


「聞いたか!」


その声に、すべての兵が顔を上げる。


「斯波の若君――いや」


信長様が、にやりと目を細めた。


「織田家馬廻衆、斯波義銀が道を開いたぞ!」


義銀の胸が熱くなった。


ちゃんと呼び直してくださった。


若君ではなく、織田家馬廻衆として。


「服部小平太、毛利新介ら若い馬廻どもも続いた! ならば道はある!」


信長様は大きく手を振った。


「続け! 義元の首は、この先だ!」


その一言で、空気が変わった。


もう誰も止めなかった。


兵たちが動く。


家臣たちが続く。


信長様自身が斜面へ馬を進める。


義銀が開き、小平太と新介たちが信じて続いた道が、今や織田軍の道になった。


やがて信長様も崖下へ降り立った。


その目は冴え冴えとしている。


「義銀」


「はっ」


「よくやった」


義銀は頭を下げた。


「ありがたき幸せ」


「小平太」


「はっ!」


「よく続いた」


小平太は歯を見せて笑った。


「義銀の見立てに乗っただけにございます」


「新介」


「はっ」


「お前もか」


新介は静かに頭を下げた。


「義銀の頭と小平太の槍が揃えば、続かぬ理由がございませぬ」


信長様は声を上げて笑った。


「よい。若い馬廻は面白い」


その言葉に、三人は同時に頭を下げた。


雨が降っていた。


泥にまみれ、息は荒く、手は震えている。


けれど、義銀の胸には、不思議な熱があった。


信長様が言う。


「まだ終わりではないぞ」


義銀は槍を握り直した。


「承知しております」


「ならば、次は本陣だ」


小平太がにやりと笑う。


「いよいよですな」


新介が静かに息を吐く。


「浮くな、小平太。槍が荒れる」


「荒いくらいでちょうどよい」


「義銀」


新介が義銀を見る。


「道を外すな」


義銀は頷いた。


「外さぬ」


小平太が槍を構えた。


「なら、俺が突く」


新介が刀の柄に手をかける。


「では、俺が続く」


義銀は二人を見た。


頭と度胸。


槍と勢い。


静かな目と食らいつく刃。


この三人で、信長様の道を開く。


義銀は馬首を前へ向けた。


藤乃叔母上。


今、自分はここまで来ました。


どうか無事でいてください。


どうか、生きていてください。


心の中でそう願いながら、義銀は前を向く。


「進むぞ!」


信長様の声が響いた。


「はっ!」


義銀、小平太、新介。


若き馬廻衆は、雨を切り、泥を蹴り、馬を走らせた。


この先に、今川義元の本陣がある。


この先に、桶狭間の勝負がある。


そしてその先に、新しい尾張の朝がある。


義銀たちは駆けた。


信長様の道を、己たちの手で切り開いた誇りを胸に。



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